天動説とは?地動説との違いや唱えた人、歴史を分かりやすく解説

「天動説ってどういう考え方なのかな…。」
「天動説は間違いで地動説が正しいんだよね?」

天動説は、多くの人が耳にしたことのある言葉ではないでしょうか。しかし、学校のつめ込み授業のために、その帰結についてはあまり馴染がなく、社会に広く知られているとは言い難いと思います。

そこで今回は天動説について、そのライバル・地動説とともにご紹介したいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

天動説とは

古来より人びとに親しまれてきた天動説

天動説を簡単に説明すると?

天動説とは、地球は宇宙の中心で静止しており、太陽や月を含むすべての天体が地球の周りを公転しているとする考え方です。そのため、「地球中心説」とも呼ばれています。人類史の中でも初期に現れた宇宙論のひとつで、エウドクソスが唱えた同心天球仮説と、プトレマイオスが唱えた天動説とに分けられます。

はじめから完成された「天動説」なるものがあったわけではなくて、多くの人に共感を得る大まかなイメージ(世界観)があり、それらが具体的に説明されるに従って支持を集めていったといえます。このためひとくくりに「天動説」と称しつつ実際にはバリエーションが存在しています。なお、天動説の英語訳としては「Ptolemaic theory」「geocentric theory」があります。

誰が唱えた?

エウドクソス(紀元前400年頃~紀元前347年頃)

エウドクソス

古代ギリシャの商業都市、エーゲ海に面したクニドス(現在のトルコ)出身。アルキメデスに匹敵する才能の持ち主で、エジプトで暦法を学んだのちにローマに移住したとされています。

数学者としてのエウドクソスは「円錐の体積は、同じ半径・同じ高さの円柱の3分の1であること」を証明したことでも知られています。

天文学者としてのエウドクソスは「地球が世界の中心であり、他の天体はこの周囲を周っている」と主張しています。これはプラトンらの「天球は完全な球体で、天体の運行は円」とする説に基づくものです。エウドクソスの著書は残されておらず、地球を覆う天球を27とした「同心天球説」のほかは、具体的な主張内容や根拠は明らかになっていません。

カリポス(紀元前370年頃~紀元前300年頃)

カリポスの出身地、現在のバルケスィルの街並み

ギリシャの数学者・天文学者のカリポスは、キュジコス(現在のトルコ・バルケスィル)に生まれました。

プラトンのアカデメイアにてエウドクソスに師事しています。ついでアテナイのメトンを継ぎ暦関係の仕事に就いています。天体観測者の草分けとしても有名です。

エウドクソスの天動説を継承しつつ、27の天球では不十分と考え、34の球体説を説きました。エウドクソスとカリポスの天球は、相互に独立したモデルとされていたところに特徴があります。

アリストテレス(紀元前384年頃~紀元前322年頃)

アリストテレス

トラキア地方のスタゲイロス(現在のギリシャ国スタゲイラ)出身。プラトンの弟子として学びますがプラトンの死後は学舎を離れ、やがてマケドニア王子の家庭教師となります。次第にマケドニアの中でも中心的な存在となりました。

当時第一等の大学者として、『形而上学』『二コマコス倫理学』『政治学』『自然学』『詩学』など夥しい著作を遺しました。

同心円状の天球構造による天動説を唱えたアリストテレス。月、金星、水星、太陽といった天体ごとに割り当てられた天球層があるとする宇宙モデルを提唱しています。惑星の天球よりも更に外側に星空の天球層があり、その外側である天外層には「第一動者」(つまりは神)がいるとしました。

また、エンペドクレス(紀元前490年〜紀元前430年)の唱えた4大元素(火、空気、水、土)を地上の元素とし、天球は「エーテル」とよばれる第5元素にて構成されると唱えました。宇宙の区分として月下界と月上界にわけたことでも知られています。

クラウディオス・プトレマイオス(83年頃~168年頃)

クラウディオス・プトレマイオス

出身は解明されておらず、エジプト出身とする説とギリシャ・マケドニア出身とする説があります。エジプトのアレクサンドリアを拠点に、数学、天文学、占星学、音楽学、地理学など多岐にわたる学問分野で活躍しました。

天文学・幾何学の『アルマゲスト』、占星学の『テトラビブロス』、地理学の『ゲオグラフィア』の著者として有名です。これらの書籍はユーラシア大陸の西半分を覆う広い地域で何世紀もの間権威を保ちつづけました。

エカントの概念図、公転軌道(従円または導円)の中心点に対し、
地球と点対称の位置にある

著作『アルマゲスト』において、地球を中心に太陽と月、惑星その他の天体が周りを回る「天動説」を唱えました。もちろん、これはプトレマイオスの独創ではありません。プトレマイオスはピタゴラスやエウドクソスらの学問を体系的に統合したとみることができます。

惑星の逆行運動を「周転円」「離心円」「エカント」によって説明することにより、惑星の逆行運動や光度変化を幾何学的に説明できると主張したのです。「天動説」は、プトレマイオスの登場により体系的な理論として完成されるに至りました。

天動説の広がりと支持された背景

その後も補完・改良をつづけた天動説

9世紀頃のシリア地方で活動したアル=バッターニー(850年頃~929年)は、プトレマイオスの計算結果を補正するなど天動説を補完改良しました。また一年の正確な周期(365日と5時間46分24秒)を算出したことでも知られています。

14世紀ムスリムの天文学者イブン・シャーティル(1305年~1375年)もプトレマイオスの天動説を独創的に改良した一人です。天動説の立場は維持しつつエカントとよばれる計算上の点を排除しており、方向性としてはコペルニクスの手法に近いものでした。

トマス・アクィナスとスコラ学

トマス・アクィナス

13世期、天動説はキリスト教という強大な後ろ盾を得ることになりました。その際、中心的な役割を果たしたのが、トマス・アクィナス(1225年頃〜1274年)です。

シチリア出身、イタリアの神学者となったトマスは、『神学大全』を著し、スコラ学の第一人者的な存在でした。スコラ学とは、11世紀頃成立するキリスト教神学者・哲学者の学問流派です。

神学は哲学と深く結びつくことにより神の教えを弁証しようとしてきました。その時に採用されたのがプラトンやアリストテレスに代表されるギリシャ哲学です。

十字軍と地中海貿易などにより広がる

十字軍の遠征は地球海貿易とならんで
文化交流を牽引した

12世期、十字軍の遠征(1095年〜1492年。遠征回数には諸説があります。)が行われると、ヨーロッパ諸国はビザンツ、イスラムの文化を吸収することになります。

もともと、イスラム教国からキリスト教の聖地・エルサレムを奪還しようとして始まった一連の遠征ですが、回を重ねると同じキリスト教の異端や非キリスト教国を攻撃するなど、変遷を重ねました。

この十字軍の遠征や地中海貿易が大きな流れとなり、学問や芸術など文化交流が起こりました。こうした文化の流入が14世期に勃興するルネサンスの遠因とも言われています。そしてその中には、ユークリッド幾何学やプトレマイオス天動説も含まれていました。

キリスト教とともに支持を強める

キリスト教の聖典である聖書

聖書には明確に天動説を唱えた箇所はありません。しかし、例えば創世記やヨシュア記などをみても聖書の記述と天動説は非常にマッチしていて、自然と受け入れられてきたであろうことがわかります。

1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
(中略)
14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
17 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

引用:『旧約聖書』創世記より

12 主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、/「日よ、ギベオンの上にとどまれ、/月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。
13 民がその敵を撃ち破るまで、/日はとどまり、/月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。

引用:『旧約聖書』ヨシュア記より

こうして、キリスト教と天動説は強力なタッグを組んだように一体化をみせます。人びとはキリスト教への信仰のなかで天動説を普遍的なものとして受け入れ、同時に冒してはならない神聖なもの、権威あるものとして認識するようになったのでした。

地動説とは

地動説の描く宇宙

地動説を簡単に説明すると?

地動説とは、宇宙の中心は地球ではなく太陽であり、地球や他の惑星、月やその他の天体は太陽の周りを回って(公転して)いるとする考え方です。そのため「太陽中心説」とも呼ばれています。

地動説についても天動説同様、時代の進展にともない少しずつ根拠を備えていきました。はじめは、あくまで計算上の仮説として考えられるという程度のものが、天体観測の精度の向上(ガリレイの望遠鏡に代表されます)や、数学知識の向上により天動説を凌ぐまでになっていったのです。

地動説というとコペルニクスやガリレオ・ガリレイが有名ですが、じつは古代ギリシャ時代にも地動説を唱えた人物がいます。また、地動説にも天動説同様、バリエーションが存在します。なお、地動説の英語訳としては「heliocentric theory」があります。

誰が唱えた?

アリスタルコス(紀元前310年頃~紀元前230年頃)

アリスタルコス

ギリシャのサモス島出身。そのため「サモスのアリスタルコス」とも呼ばれています。アレクサンドリアの都市ムセイオンで、自然科学者として活動していました。

著作『太陽と月の大きさと距離について』の中で、地動説を前提としつつ地球と太陽、月のそれぞれの距離や大きさを計測しています。また、恒星の視差(観測地点による位置の差異)がないことについては、地球から無限に遠い距離にあるためと説明しました。

アリスタルコスの当時は、天動説の説明の方がシンプルであり多くの支持を集めていました。観測技術も未熟であり詳細なデータを取ることができなかったことや、対立する天動説派の学者(哲学者クレアンテス)から「(地動説を唱える者を)不敬の罪で告発すべき」といった主張がされるといった時代背景もあり、地動説は主流にはなりえませんでした。

コペルニクス(1473年~1543年)

コペルニクス

ポーランドの都市トルン出身の天文学者でカトリック教会の司祭でした。幼くして両親を亡くしたコペルニクスは、母方の叔父に育てられました。その後、クラクフ大学、ボローニャ大学(天文学のノバラ教授に師事しアルデバラン星食の観測に従事)、パドヴァ大学(神学)、ロックフェラー大学(神学)、パドヴァ大学(医学)と次々と学問を修めてゆきました。

司祭・医者として活躍する傍ら天体観測を行い、1510年頃には既に地動説として取りまとめを行いました。非公式に『コメンタリオルス』を出版(近しい人だけに贈ったため公刊ではありませんでした)し地動説を説きました。コペルニクスの主著『天球の回転について』は死の直前、1543年に出版されました。

アルデバラン星食や外惑星(火星、木星、土星)の逆光現象を周転円によって解消しようとする天動説に疑問をもったコペルニクスは、天動説を細かく分析、周転円(小さな円)と従円(大きな円)は、地球から離れた1点を回るように変換ができることに気付きました。

その1点こそ、太陽です(コペルニクスの著述に忠実に従うと「太陽の近く」となります)。星々の運動の中心を太陽に置き換えることで合理的に説明ができると考えたのでした。また、すべての星が同じ中心を回っているのではなく、例えば月は地球を中心に回っていることも唱えました。

ジョルダーノ・ブルーノ(1548年~1575年)

ジョルダーノ・ブルーノ

ナポリ王国のノーラ(現在のイタリア・カンパニア州)出身。本名は「フィリッポ・ブルーノ」といいます。ナポリ大学で学んだあと、17歳でドミニコ会に入会します。以後ジョルダーノを名乗るようになしました。学究肌のジョルダーノは見境なく貪るように知識を増やした結果、異端(キリスト教内の有害・禁止された思想の持ち主)と疑われ、以後逃亡生活を送ることになります。

北イタリアやフランス、ロンドン、フランクフルトと教授職をもとめ転々とする傍ら、著述に励みロンドンにおいて『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を著します。また、フランクフルトでは『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』を著しました。

最後はイタリア・ヴェネツィアにて捕らえられローマの異端審問所に移送されると、7年間の獄中生活ののち火あぶりの刑に処せられました。

ジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスの宇宙論を支持した初期の著名人として知られています。ただ、ジョルダーノの考える宇宙は、コペルニクスよりもさらに画期的ものでした。つまり、宇宙に絶対的な中心点はなく、地球も太陽も決して特別な存在ではないという宇宙モデルです。こうした考え方は、「宇宙の中心は地球」「地球は神が創りたもうた唯一無二の世界」とするキリスト教的宇宙論(天動説)と真っ向から衝突するものでした。

ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)

ガリレオ・ガリレイ

トスカーナ大公国・ピサ(現在のイタリア国・トスカーナ州)の出身。7人兄弟(弟4人、妹2人)の長男でした。

ピサ大学ではじめは医学、のちに数学・力学を修めます。経済的な理由で大学は中退しますが、その後の研究が評価されピサ大学講師を経てパドヴァ大学の教授となりました。その後は、トスカーナ大公付き数学者、ローマの権威ある学会・リンチェイ・アカデミーの会員となっています。

ガリレイの名が世に知られた事績はいくつかあります。「振り子の等時性」や「物体の斜面運動」「落体の運動法則の定式化」などが有名です。天文学者としては望遠鏡も用いた天体観測の草分け的存在としても知られています。

『天文対話』『新科学対話』を著します。これらはイタリア語(口語体)で書かれており、学術書はラテン語で書くべきものという当時の常識を覆すものでした。1633年、『天文対話』がきっかけで宗教裁判にかけられたガリレイは、地動説の放棄を誓わせられました。

コペルニクスの地動説に対する天動説側の反論のひとつは「月が地球をまわり、地球が太陽の周りを回っているのであれば月は地球から引きはがされ、軌道の後方に飛んでいくはずではないか」というものでした。

ガリレイは、望遠鏡をもちいて木星を観測し、俗に「ガリレオの衛星」とよばれる衛星(ガニメデ、カリスト、イオ、エウロパ)を発見しました。このことで上記の地動説批判を封じることに成功します(なぜなら、木星に衛星があるのだとすると、天動説としても「木星の衛星が木星から引きはがされ、軌道の後方に飛んでいかない理由」を明らかにしなければならないからです)。

ヨハネス・ケプラー(1571年~1630年)

ヨハネス・ケプラー

神聖ローマ帝国のヴァイル・デア・シュタット(現在のドイツ国・ヴァイル・デア・シュタット州)出身。神学校に通ったのち、本格的に聖職者になることをめざしてテュービンゲン大学の神学科給費生となります。哲学・神学を中心に学ぶ中で、教養学としての天文学をミヒャエル・メストリン(1550年~1631年)に学び興味を深めます。

その後グラーツの学校(現在のグラーツ大学)で教鞭をとったケプラーは、1596年『宇宙の神秘』を著します。

その後、ケプラーはプラハ在住の天文学者であるティコ・プラーエ (1546年~1601年)に招かれ、その助手となります。ティコは当時最高度の精度をほこる天体観測者の大家でした。ティコの死後、膨大な観測データを引き継いだケプラーは、ティコを遺志を継ぎデータの解析・研究に没頭しました。

ケプラーの描く惑星の運動図

ケプラー以前の天文学では、コペルニクスも含めて天体の運動は円運動と考えられていました。これに対し、ケプラーはゆがんだ円ないし楕円であると主張しています。有名なケプラーの法則は、次の3条に整理されました。

  • 第1法則(楕円軌道の法則):惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く
  • 第2法則(面積速度一定の法則):惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である
  • 第3法則(調和の法則):惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する

これらの理論は、ティコの残した火星の運動データから導かれたものです。このケプラーの法則により、ケプラーは惑星の軌道を計算式で表現することができるようになりました。また、ケプラーが作成した「ルドルフ星表」は、従来のプロイセン星表の30倍に精度を上げることに成功します。こうしたケプラーの研究により、地動説はようやく天動説よりも優位に立つことができたのでした。

現代の世界観とは

その後の世界観を簡単に説明すると?

人類の世界観は、観測技術の向上に伴い発展をつづけている

コペルニクスに続いてニュートンが登場したことで、ひとまず天動説・地動説の論争(少なくとも科学的な意味においては)収束を迎えました。しかし、地動説が正しく天動説が間違いであったと単純に考えることはできません。ニュートン以後に現れるアインシュタイン、ハッブル、ホーキングなど実際の宇宙の姿はそれまで人類が想像していたよりもはるかに複雑な姿となっていたのです。

誰が唱えた?

アイザック・ニュートン(1643年~1727年)

イングランド東海岸の地方都市グランサムの南、ウールスソープ=バイ=カールスターワースに生まれました。早世した父に代わり叔父の援助を受けてケンブリッジ大学を卒業します。

ペスト流行の影響で一時帰郷したのち、ふたたびケンブリッジ大学に戻り数学教授となりました。ルーカス数学教授に就任、その後ロイヤル・ソサエティ会員、国会議員、造幣局長官を務めたほか、1705年にはナイトの称号を授与されています。

ケプラーやガリレイの研究を調査し、集約させるための理論体系構築に尽力しています。有名な「運動の法則」「万有引力の法則」などをあわせ『プリンキピア』を著しました。古典力学を集大成し、数学的自然科学を大成したことで知られています。

このことにより、地動説への疑問「天体の運動の力はどこからくるのか」が明らかになります。同時に、惑星が太陽の周りを回転するのは単に太陽の引力のためであり、太陽が宇宙の中心という根拠はないということにも繋がりました。

アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)

アインシュタイン

ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市出身。チューリヒ工科大学の受験に失敗し翌年入学。卒業後ベルンの特許局技師を経てプラハ大学、スイス連邦工科大学、ベルリン大学にて教鞭をとりました。ナチスが台頭するとアメリカへ移住します。

研究者としては、ブラウン運動の解明、光量子仮説、特殊相対性理論、質量とエネルギーの等価性といった論文を次々に発表します。1916年に一般相対性理論を発表。1921年にノーベル物理学賞を受賞しました。

相対性理論というフィルターを通すと、このようなイメージが得られる

アインシュタインの理論によると、時空には伸縮する性質がありその内容物である物質とともにひとつの「宇宙」を形成しているものであると唱えました。こうしたアインシュタインの理論は、膨張する宇宙という観測により確かめられています。宇宙論としても「インフレーション宇宙論」「ビッグバン宇宙論」など様々な考え方の基礎となりつづけています。

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2 COMMENTS

元、橋梁技術者(76歳)

毎月、お寺の座禅会に参加している爺さんですが、科学と宗教や世界観に興味があります。貴重な資料を拝見して大変勉強になりました。
ありがとうございます。

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