万里の長城とは?いつ、どこで、誰が作った?【長さ、歴史、目的などをすべて解説】

万里の長城の名前は誰でも聞いたことがあるはずです。中国の巨大な建築物なので、逸話も多いためにいろいろな話を聞いたことがある人も多いでしょう。

どこまでも続く万里の長城・長城とは城ではなかった!

しかし、万里の長城がどんなものなのかキチンと知っている人は少ないかもしれません。長城とは一体何か、どんな目的でいつ、誰が作ったのでしょうか。

今回はそれを一つひとつ丁寧に解説していきたいと思います。壮大なスケールと長い歴史があるために、理解するのが難しそうだと尻込みをしてしまうかもしれませんが、若い頃は歴史の授業が苦手だった私が、細かく噛み砕いて紹介していきます。

読み終わる頃には、きっと実際に万里の長城を訪ねてみたくなりますよ。

この記事を書いた人

フリーランスライター

櫻井 由美子

フリーランスライター、櫻井由美子(さくらいゆみこ)。東洋大学文学部国文学科卒業後、会社員を経て結婚。現在は主婦をしながらライター業に従事。

万里の長城とは何か

万里の長城は規模・歴史ともに類を見ない壮大さだ

長城とは、城のことではなく、長く続く城壁のことを意味しています。外敵の侵入を防ぐために国境などに作られるため、城壁だけではなく土塁(土を盛って作る堤防のようなもの)のことを指す場合もあります。

そのため万里の長城の他にも、長城は存在しています。

例えば、かつては朝鮮半島に千里長城が築かれていました。しかし、その規模の大きさや歴史の長さが他に類を見ないため、いつしか長城と言えば万里の長城を指すようになりました。

万里の長城の長さ

万里の長城の長さが倍に増えた?

万里の長城は、中国の北東部を横切るように建っています。

従来は総延長6259.6kmと言われていましたが、2012年には中国政府が21196.18kmだと発表しました。これは現在残されている長城だけでなく、もっと古い時代の長城まで含めた長さだと言うことです。

現在残されている長城は明の時代(中国で1368年から1644年まで続いた王朝のこと)に作られたものですが、それ以前の長城はもっと北にありました。なぜ北に長城が作られたのか、そこにはちゃんと理由があります。

万里の長城の建築期間

万里の長城の再編成は、国の威信を示す一大事業だった

中国が統一されて大きな国になる前には、小さな国に分裂していましたが、戦国時代にはそれが7つの国になりました(詳しい年代は歴史の項で、説明します)。そしてそれぞれが国境を防衛するための長城を建設していました。

その後、7つの国の1つ、秦が初めて中国を統一しました。そのときに、それらの長城が切れ目なくつながれて、1万里(1里は約0.5km)も続く万里の長城となりました。それは中国の北にいた遊牧民族からの侵略に備えるためでした。

長城をつなぐだけでも、工事には100万人の人が動員され、期間は9年に及ぶ苦しいものでした(これには諸説あるようです)。万里の長城の始まりの地点・山海関には、工事で夫を亡くした悲しい女性の話なども残っています。

万里の長城の材質

時代によって材質も変化する

初期の万里の長城は土壁でした。これは粘土質の土を強い力で突いて固めて作ったものです。乾燥地では日干しレンガが使われることもありましたが、まだその時点では、レンガを使うことは一般的ではありませんでした。

日干しレンガは粘土にわらなどを混ぜて、型にはめてから日光にあてて、乾燥させて作ります。水に弱いという弱点はあっても、乾燥地方では理想的な建材として現在も多く使われています。

その後、明の時代になるとレンガが大量に生産されるようになり、それが使われるようになりました。

こちらは日干しではなく窯で焼き固めて作ります。この技術ができたことで、乾燥地方でなくてもレンガが作られるようになりました。そのため、現在私たちが見ることができる長城はほとんどレンガ造りになっていますが、レンガは表面だけで内部は土だということです。

長い距離に渡って一つひとつ手で積んだレンガの壁には、言いようのない美しさが感じられます。

2つの目的を持つ、長城の構造

内側よりも外側の壁が高く、銃撃のための切れ込みが入っているのがわかる

万里の長城は戦いと交易、両方をするための構造となっています。

長城の上は人が歩けるほどの幅があるために、転落防止のための壁が設けられていました。特に頂上の外側の壁は、国境を守る兵士たちのために、一定の感覚で切れ込みが設けられて、そこから銃を撃つことができました。また、外部に石を落とすための口も開けられていました。

長城の中には交易のために、いくつかの関所が設けられていました。関所の内側は兵士たちの居場所であり、外側は城壁が半円形に張り出し、長城の門を保護していました。関所は城門の中と外をつなぐ接点だったために、交易の場となったのです。

中国は絹や茶、金、銀を輸出、遊牧民族は馬を輸出しました。これは遊牧民族にとっては大切な収入となりました。

万里の長城を作った人は?

秦の始皇帝・中国全土を統治した初めての皇帝

すでにあった長城をつなぎ合わせたり、延長したりして万里の長城を作ったのは秦の始皇帝です。彼が即位したのは紀元前221年と言われていますから、今から2200年以上も前のことです。

始皇帝は初めて中国全土を統一して、皇帝となったために始皇帝と呼ばれました。せっかく1つにまとめた国を北方の遊牧民族から守りたかったのはもちろんですが、巨大な長城を作ることで皇帝の権威を示したかったのではないでしょうか。

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4 COMMENTS

SK_KH

とてもわかりやすかったですこれで授業に役立ちそうですありがとうございました。

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