「独ソ不可侵条約ってどんな条約?」
「似たような条約多くてこんがらがるな。」
「日本は何か影響あったのかな?」
このページにたどり着いたあなたはそんな疑問を抱いているのではないでしょうか?第二次世界大戦においてドイツとソ連が終結した条約なのですが、教科書で名前を習ったけど具体的にどういった内容なのかを知りたいという方もいらっしゃると思います。そこでこの記事では、
- 独ソ不可侵条約が結ばれた内容や経緯
- ドイツとソ連の目的やメリット
- 世界や日本への影響
などについて解説していきます。是非参考にして下さい。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
独ソ不可侵条約とはどういった協定なのか?
独ソ不可侵条約は、1939年にドイツとソビエト連邦の間で結ばれてた協定です。条約を結んだ人の名前からモロトフ=リッペントロップ条約協定(M=R協定)とも言われています。
どういう条約かというと、簡単にいうと「お互いの戦争に干渉しない」という中立条約です。これまで「犬猿の仲」だと知られる二国が不可侵条約を結んだ事に世界は驚愕しました。両国共の思惑があり、終結に至ったのです。
独ソ不可侵条約は何故結ばれたのか?
「そもそも”犬猿の仲”で知られる二国がどうして中立条約なんて結んだのだろう?」と言う疑問が湧いている人も多いのではないでしょうか?もちろん、両国の利害が一致したことにより条約は終結されました。今から何故「独ソ不可侵条約」が終結に至ったのか、理由を説明したいと思います。
ドイツは英仏の戦争に専念するため
ドイツの目的として、ポーランド進出の軍事作戦を練っており、ソ連の中立を望んでいました。ドイツとしては英仏とソ連の挟み撃ちは何としても避けたい自体であり、ソ連と条約を結ぶ事によって背後からの攻撃を避ける思惑があったのです。
独ソ条約を結ぶことによって、ドイツはイギリスとフランスの戦争に専念することができるようになりました。結果としてドイツは1939年にポーランドに侵攻し、そのためイギリスとフランスに宣戦布告をしています。
ソ連はドイツの進行を避け、日本との戦いに専念するため
ミュンヘン協定の終結以来、ソ連は英仏が、ドイツにソビエト侵攻を容認しているのではないかと懸念していました。ミュンヘン会談で、英仏がソ連安全保障に影響があるチェコスロバキアをドイツに渡していたからです。ソ連としては、ドイツが東側に勢力を延ばすのを何とか避けたい状況でした。
またこの時期は極東方面で日本と対峙しており、ノモンハン事件等の国境紛争が起きていました。そのためソ連としてもドイツとすぐに戦うのは得策ではなく、条約を結んで戦力の立て直しをしたかった事情があります。
また「スターリンは、ヒトラーの背後の安全を保証してやってドイツと英仏を戦わせ、両陣営が消耗するのを待ってヨーロッパの支配に乗り出す魂胆だったのだ」という説や、「ソ連が英仏独という大国のいずれからも敵視され戦争に巻き込まれる危険を抱えていたので、ドイツか英仏のどちらかと手を結ばざるを得なかった」という説も出ています。
独ソ不可侵条約終結前の二国の状況
ドイツとソ連は「犬猿の仲」でしたが、それぞれの思惑で終結に至りました。しかしこれは世界から見てもとても異様で驚くべきことでした。その背景を見ていきたいと思います。
ドイツの条約終結までの背景
独ソ不可侵条約を終結した時に、ドイツの政権を握っていたのはナチ党の総統「アドルフ・ヒトラー」でした。ヒトラーは「東方生存権」という思想を持っており、アーリア民族(ドイツ人のこと)にとってドイツの土地が狭すぎるので、東方面に広大な植民地を作ってそこにアーリア民族を住ませるという考えを持っていました。
さらにヒトラーはスラヴ人(ロシア人)をユダヤ人同様に劣等民族としてみなしており、東方生存圏を構築した後はウラル山脈よりも東側に追放して何もできないような状態にしなければいけないということも語っていました。その彼がソ連と手を結ぶなどあり得ないと考えられていたのです。
ソ連の条約終結までの背景
ソ連は当時日本と「ノモンハン事件」で対峙しており、 さらにこの頃スターリン書記長によって赤軍大粛清という軍の一斉弾圧を行っており、軍が著しく弱くなっていました。そのため、ソ連は極力他の国と戦争をしたくないと考えている状況だったと考えられています。
独裁体制を築いてからも、スターリンは周囲の人間に対する不信感を無くすことできず、強迫観念に駆られたスターリンは秘密警察を使って、共産党幹部や官僚、軍人たちを次々と逮捕・処刑していました。ソ連軍では優秀な軍人を含む3万人以上が犠牲になったといいます。よって長年の確執でドイツを快く思っていないものの、とても戦争を行う余裕はありませんでした。
独ソ不可侵条約の内容
もちろんこの2国が手を結ぶのには、双方仕方がない理由がありました。要は「とりあえず喧嘩はしないようにしましょう」という約束を交わしたのです。まずは「独ソ不可侵条約」の内容を見ていきたいと思います。
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- 第1条:独ソ両国は、相互にいかなる武力行使・侵略行為・攻撃をも行なわない。
- 第2条:独ソの一方が第三国の戦争行為の対象となる場合は、もう一方はいかなる方法によっても第三国を支持しない。
- 第3条:独ソ両国政府は、共同の利益にかかわる諸問題について、将来互いに情報交換を行なうため協議を続ける。
- 第4条:独ソの一方は、他方に対して敵対する国家群に加わらない。
- 第5条:独ソ両国間に不和・紛争が起きた場合、両国は友好的な意見交換、必要な場合は調停委員会により解決に当たる。
- 第6条:条約の有効期間は10年。一方が有効期間終了の1年前に破棄通告をしなければ5年間の自動延長となる。
- 第7条:条約は直ちに批准し、調印と同時に発効する。
以上ですが、要約すると「お互い不可侵すること・第三国から攻撃を受けたら中立をとること・情報交換しましょう・独ソの紛争は委員会を作って解決しましょう・期限は10年」ということでした。しかしこれは表向きであり、実は秘密協定を結んでいました。秘密協定の方がメインだったのです。
秘密協定の内容
表向きの内容は、無難な内容であるために当初からそれだけではないだろうと世界は内容を疑っていたといいます。事実、独ソ間で以下のような秘密協定を同時に結んでいたといいます。
Wikipedia
- 第1条:バルト諸国(フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア)に属する地域における領土的及び政治的な再編の場合、リトアニアの北の国境がドイツとソビエト連邦の勢力範囲の境界を示すものになる。このことに関連するヴィリニュス地域におけるリトアニアの利権は独ソ両国により承認される。
- 第2条:ポーランド国に属する地域における領土的及び政治的な再編の場合、ドイツとソビエト連邦の勢力範囲はナレフ(Narew)川、ヴィスワ川、サン川の線が大体の境界となる。独ソ両国の利益にとってポーランド国の存続が望ましいか、またポーランド国がどのような国境を持つべきかという問題は今後の政治展開の上で明確に決定される。いかなる場合も独ソ両国政府はこの問題を友好的な合意によって解決する。
- 第3条:南東ヨーロッパに関してはソ連側がベッサラビアにおける利権に注目している。ドイツ側はこの地域には全く関心を持っていないことを宣誓する。
- 第4条:この議定書は独ソ両国により厳重に秘密扱いされるものである。
簡単に要約すると、「ポーランドは占領後、西側をドイツ・東側をソ連で分割すること、バルト三国はソ連のものとする」ということでした。秘密裏で領土の取り分けを決めていたのです。
独ソ不可侵条約の影響
天敵といわれた「ドイツ」と「ソ連」の不可侵条約は世界でどう受け止められたのでしょうか。また、具体的にどういった影響があったのかを見ていきたいと思います。
世界の反応はどうだったのか?
世界はイデオロギー的にも相いれない「ナチズム」と「共産主義」の提携に驚きを隠せませんでした。特に世界の共産主義者や社会主義者、反共主義者に与えた影響は大きいものでした。アメリカ共産党とフランス共産党などは、ソ連の公式見解として発表した「反ファシズムの戦いに乗り出したため」という内容を受け入れています。
ポーランド及びイギリス・フランスは衝撃を受けたものの、ドイツに対する姿勢を変えませんでした。ポーランドはイギリス・フランスに対して、相互援助条約を結んでいます。しかしこの相互条約によってソ連が参入しないため、ドイツはポーランドが孤立化すると考え相互条約の一週間後にはポーランドへの侵攻を開始しました。
そして、それに伴いイギリスとフランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が開戦されることになったのです。結果として「独ソ不可侵条約」は第二次世界大戦を早めるきっかけを作ってしまったといえるでしょう。
日本の反応はどうだったのか?
日本ではかつてソ連を仮想敵国とした「日独防共協定」を結び、同盟も検討中であったため日本の政界が受けた衝撃は計り知れないものがありました。当時日本はソ連との国境紛争「ノモンハン事件」の真っ最中であったため、平沼内閣は日独同盟の締結中止を閣議決定しています。
平沼騏一郎内閣は終結中止を決定した3日後に、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と同盟交渉を中止の旨を声明し、責任を取って総辞職しました。
独ソ不可侵条約の破棄
結果として独ソ不可侵条約は、ドイツがソ連に攻撃をしかけることにより実質無効となりました。その背景には「ヒトラー」と「スターリン」も互いの勢力拡大の為の一時的な協調に過ぎないと考えていただろうということが推定されています。そのガラスのように脆い条約は如何に破棄されたのかを説明していきたいと思います。
破棄になった経緯
そもそもドイツのヒトラーとソ連のスターリンは、お互いを「人類の敵」「悪魔」と批判しあってました。そしてポーランド侵攻に伴ってイギリスとフランスにも宣戦布告し、イギリスと英国空中戦を展開しています。しかしこの戦いは失敗し、ヒトラーは「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」と考えるようになったといいます。
そして1940年にヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」として独ソ戦開始の意思を国防軍に告げ、正式に「バルバロッサ作戦」を指令しました。ドイツ軍が軍備を増強していることは、スターリン達上層部の耳に入っていましたが、嘘の情報をして退けたといいます。しかし1941年にバルバロッサ作戦は発動され、独ソ戦が始まりました。これにより独ソ不可侵条約は無効となってしまいました。
独ソ不可侵条約に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?ヒトラーとスターリンという濃い独裁者同士で行われた「独ソ不可侵条約」でしたが、最初から破る気でひとまず結んだ条約ということを知り、不謹慎な言い方ですが「狸の化かし合い」だなと感じています。
どちらの独裁者もそれは分かっているのでしょうが、表面上は取り繕っていたということですのでなんとも役者だなと驚いています。決して二人とも褒められた人物ではありませんが、自国の国益のために動いた結果なのだろうと平沼内閣ではないですが、「摩訶不思議」と驚いている次第です。
日本とは離れた国で全く考え方も異なる国同士なので分かりづらい所も多々ありますが、少しでも「独ソ不可侵条約」を知ってもらえたら幸いに思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
2022/02/26です。ウクライナ情勢・侵攻について専門家の歯切れが悪いので、自分で調べ始めて、こちらへたどり着きました。
参考になりました。