種田山頭火とは?生涯・人生まとめ【代表作品・俳句や名言、句集も紹介】

「種田山頭火はどんな人なの?」
「山頭火の俳句や句集について知りたい!」
「山頭火の名言って何がある?」

本記事を読んでいるあなたはこのような疑問を持っているのではないでしょうか。種田山頭火は近代日本を代表する俳人で、日本各地を放浪しながら、五七五などの形式にとらわれない「自由律俳句」を多く世に送り出した人物です。同じく「自由律俳句」で有名な尾崎放哉とは人生の生き様から「動」の山頭火、「静」の放哉としてよく比較対象に挙げられています。

種田山頭火

山頭火は大地主の家に生まれたため、裕福な生活環境で幼少期を過ごしましたが、山頭火が9歳の時に母が自殺するという不幸に見舞われるのです。この母の死は晩年に至るまで山頭火の心の中に留まり続け、俳句の中でもその心情が詠まれています。

人生の後半の大部分を放浪流転しながら過ごした山頭火でしたが、この時に行乞記にしたためた俳句や歌が後世になって脚光を浴びるようになるのでした。

今回は日本全国を行脚しながら、自由律の俳句を次々に詠んでいくという型破りな生き方をした種田山頭火に興味を持った筆者が、山頭火の文献を読み漁った結果得た知識を元に、彼の生涯、功績、意外なエピソードに至るまでを紹介していきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

種田山頭火とはどんな人物か

名前種田山頭火(本名:種田正一)
誕生日1882年12月3日
没日1940年10月11日
生地山口県佐波郡西佐波令村 第百三十六番屋敷(現在の山口県防府市八王子)
没地愛媛県松山市 一草庵
配偶者佐藤サキノ
埋葬場所山口県防府市護国寺

種田山頭火の生涯をハイライト

種田山頭火 実家は大地主で金持ちだった

種田山頭火の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1882年12月3日、山口県佐波郡西佐波令村にて種田山頭火誕生
  • 山頭火が9歳の時に母・フサが井戸へ投身自殺
  • 教育課程を順調にこなし、早稲田大学に一期生として入学。しかし神経衰弱に陥り、一年足らずで退学
  • 27歳で佐藤サキノと結婚
  • 1911年、郷土文芸誌「青年」に参加し、外国文学の翻訳や定型俳句を発表
  • 山頭火が36歳の時に弟・二郎が縊死
  • 1925年、43歳にして出家し、耕畝と改名する
  • 味取観音堂での精神安住の生活を投げ捨て、放浪の旅へ
  • 四国八十八ヶ所を巡ったのちに、尾崎放哉の墓を訪ねる
  • 一度、熊本に帰省したのち、再度放浪の旅へ
  • 九州を巡った後に、山口県吉敷郡の「其中庵」に住むことに
  • 良寛芭蕉、西行などの墓を求めて全国を行脚
  • 帰還後、「風来居」に住まいを移す
  • 一年後、死に場所を求めて「一草庵」へ転居
  • 1940年10月11日、友人たちとの句会を終えた後に脳溢血にて帰らぬ人に

生涯の大半を放浪流転の旅につぎ込んだ

種田山頭火の銅像 托鉢僧のような出で立ちで全国を行脚した

種田山頭火は旅をしながら、俳句を詠んだことで有名な俳人です。放浪の旅を始めたのは44歳の時で、そこから、四国八十八ヶ所巡りや、著名な俳人のゆかりの地巡りなどを合わせて、九州から東北までを練り歩きました。

時たま、一ヶ所に留まって生活をしている時期もありましたが、自らと境遇の近い先人たちの遺跡を訪ねたいという衝動に動かされたり、歩き回っていないと精神の停滞を来たすという考えが山頭火の中で渦巻いたりしたため、住処を決めては旅へ出発の繰り返しで人生を歩んでいきました。

山頭火直筆の書

自身でも「行乞は雲の行く如く、水の流れるようでなければならない、ちょっとでも滞ったら、すぐ乱れてしまふ」や「私はまた旅に出た。所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった、愚かな旅人として一生流転せずにはいられない私だった…」という文言を行乞記の中に記録していることからも、旅をせずにはいられない性質だったのでしょう。

旅と酒と俳句をこよなく愛した

山頭火は俳句と同じくらい酒好きだった

山頭火は旅が好きだということは前述の項目で述べた通りですが、旅と同じように愛したのが俳句と酒でした。自由律俳句の作者として尾崎放哉とも並べられていて、生涯において1000句以上もの作品を残しています。そして、その作品の評価は山頭火が亡くなってから数十年して世間に知れ渡るようになるのでした。

山頭火の名前を冠した日本酒

また、山頭火は酒も大好物で、俳句の友人を集めては泥酔するまで飲みまくるという一面もあったそうです。そのため、酒の影響で起こした事件は一つや二つではありませんでした。

「ひとりでいることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作っていることはさみしくない」との記録も行乞記の中に残っており、山頭火にとって旅と酒と俳句がどれほど重要なものであったのかがよくわかります。

旧制中学(現在の高等学校)を首席で卒業した

旧・周陽学舎 現・山口県立防府高等学校

山頭火は幼少期から勉学に優れており、高等小学校、尋常中学校ともに成績上位で卒業をしましたが、特に顕著な成績を納めたのが私立周陽学舎(現在の山口県立防府高等学校)の時で、なんと首席での卒業を果たしているのです。

そして、高等学科を挟んで、当時開校したばかりの早稲田大学へと進学することになるのでした。山頭火は早稲田大学の一期生ということになります。その文科の同級生には小川未明や吉江喬松、村岡典嗣が在籍していました。

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