井原西鶴とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、俳句・小説も紹介】

「才覚」が「西鶴」の語源?

才覚をうまく使うことの重要さを説いた日本永代蔵

西鶴は「日本永代蔵」において、頭を使い、才覚を働かすことで金持ちや成功へと繋がっていくということを説きました。日本橋の越後屋呉服店を例に出し、越後屋は全て現金払い、手代の分業制、薄利多売という新商法を生み出し、金を早く回転させる方法を編み出して成功した、このように頭を使えば富は生まれるのだと結論づけるのです。

「誰もしていないことをやる。それが才覚。主人公は町人ではなく、銭金。」と述べました。「日本永代蔵」ではこの「才覚」という意味の言葉が多用されていることから、「西鶴」というのは「才覚」から来たのではないかと言われましたが、実際は違います。

西山宗因

「西鶴」はもともと「鶴永」という名前で俳諧を発表していました。そして、ある日、師匠である西山宗因の俳号「西翁」から一字をもらい、自分の俳号と合わせて「西鶴」という名前にしたのです。

西鶴の3人の子供

西鶴の句碑(京都市中京区二条寺町)
出典:wikipedia

井原西鶴には3人の子供がいました。息子が2人、娘が1人です。しかし息子2人は早くに養子へ出してしまいます。1675年、西鶴の妻は若くして他界してしまったため、西鶴は娘を男手ひとつで育てることになりました。この娘は盲目であったようです。そんな娘も1692年に西鶴より先に亡くなっています。

死因は脳卒中?眼病も患ってた?

晩年過ごした西鶴庵のあった錫屋町東付近に建つ石碑「西鶴終焉の地」(大阪市中央区谷町3-2)
出典:大阪中心

井原西鶴の死因は結核あるいは脳卒中と言われています。脳卒中は過去にも経験していたようで、残された肖像画を見ると身体の一部に麻痺が残っていた形跡も見られます。そのため西鶴は、脳卒中の再発により亡くなった可能性も指摘されています。

西鶴は47歳の時に、度重なる作品の執筆で過労となりました。その頃の手紙に、眼が痛いと訴えているものがあり、眼精疲労に悩まされていたと思われます。妻や子に先立たれて独り身で過ごさなければならない精神的な負担も大きかったことが想像でき、晩年は心身ともに擦り減った状態だったと考えられます。

西鶴の墓は幸田露伴が見つけた?

誓願寺
出典:大阪霊園ガイド

井原西鶴の墓は、大阪市の誓願寺にあります。西鶴の死後、その墓の場所は長らくわかっていませんでした。しかし1887(明治20)年ごろに誓願寺境内にある無縁墓に押し込められていたものを作家の幸田露伴や朝日新聞社の木崎好尚らによって発見され、再興されたようです。

幸田露伴(1867〜1947)
出典:wikipedia

誓願寺は戦災で寺の資料が消失してしまったため、墓を見つけた事情は明確なことがわかっていませんが、近現代を代表する小説家である幸田露伴は井原西鶴の影響を強く受けて作品を執筆していたことで知られており、無縁墓に埋もれていた西鶴の墓を蘇らせたのも納得できます。

墓石には下山鶴平と北條団水が建立したと残されています。下山は西鶴の版元と考えられており、北條は京都の文人で、西鶴の死後その庵を守っていた人物です。

井原西鶴の代表作品

「好色一代男」

西鶴が好物だった?!「好色一代男」にも登場する饅頭
出典:株式会社 虎屋 – とらや

井原西鶴の浮世草子第一作目です。男女の好色生活を描いた「好色物」というジャンルに属します。1682年に刊行され、主人公である世之介の遊女との生活を描き、町人の生活感情を新鮮な発想で表しました。

「武道伝来記」

「武家伝来記」巻二第二
出典:京都大学

1687年刊行の、武家の生活を描いた「武家物」に属する作品で、32の仇討ちの説話集です。実際の話をモチーフに物語が作られ、敵討ちに失敗する話もあって、武家社会の矛盾を描いていると言われています。

「日本永代蔵」

「日本永代蔵」は全6巻
出典:文化遺産オンライン

日本で最初の経済小説と言われる本作は、1688年に刊行されました。町人の経済活動を写実的に描き、「町人物」と呼ばれるジャンルに属します。お金に執着する人間の強欲、お金に取り憑かれて人生を左右されるといった、人の世の実態に迫った作品としてベストセラーになりました。

1 2 3 4 5 6

コメントを残す