魯山人とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、食へのこだわり、壮絶な人生を紹介】

魯山人の年表

1883年 – 0歳「北大路魯山人の誕生」

京都府愛宕郡に誕生、実の父は魯山人誕生前に割腹自殺

上賀茂神社 父はこの神社の社家だった

北大路魯山人(本名:房次郎)は1883年3月23日、京都府愛宕郡上賀茂村に誕生します。実母・登女の不貞によって出来た子供で、それを嫌った実父・清操は魯山人が生まれる前に割腹して亡くなってしまいました。戸籍の届けとしては上賀茂神社の社家である北大路清操と登女夫妻の次男として提出されています。

家柄は士族でしたが、版籍奉還によって俸禄制、世襲制が排除され、世の情勢も混乱していた時期であったため、家の収入は安定せず、どちらかというと貧しい生活を余儀無くされたのでした。

養子先を転々とした幼少期

最終的に落ち着いたのは木版師の福田家

魯山人は出生後数ヶ月で滋賀県坂本村の農家へ養子にやられるのを皮切りに、養子場所を転々とするようになります。坂本村の農家へ預けられた一週間後に、京都府上京区の巡査・服部良知に引き取られましたが、その夫妻がそれぞれ失踪・病死によりいなくなってしまったため、魯山人の面倒を見られなくなってしまうのです。結局、服部夫妻のもう1人の養子がすでに家庭を持っていたため、その夫婦が世話を焼くことになりました。

しかし、その引取先の夫婦も家族問題でも大揉めし、結果として魯山人が虐待に合うようになったため、これを見かねた近隣の住民が京都府上京区の木版師・福田武造へ相談し、そちらへ引き取られることになりました。この時、魯山人は5歳でした。

1893年 – 10歳「丁稚奉公へ、その仕事中に見かけた『書』に目を惹かれる」

幼少期から簡単な仕事をこなしていた魯山人

6歳で梅屋尋常小学校へ入学し、10歳で卒業すると、そのまま和薬屋に丁稚奉公することになりました。そこで3年ほど働いたのち、養子先である福田武造の木版画制作の手伝いをするようになります。そして、木版画制作のかたわらで、西洋看板を書く仕事も引き受けていくのでした。魯山人は幼いながらも一人前に仕事をこなしていたのです。

書へ興味を持つように

書が描かれた看板のイメージ 亀政の看板は「亀」だった

ある日、和薬屋での丁稚奉公の際に、偶然通りかかった仕出し料理屋「亀政」の看板に書かれた「亀」という書に魯山人は心を奪われます。その看板の「亀」の文字は料理屋の主人の長男である竹内栖鳳が書いたものでした。竹内栖鳳はのちに京都画壇総帥として活躍することになる人物で、魯山人はこの出会いによって書や芸術への興味を深めることになるのでした。

また、この時代には書の懸賞がいくつかあり、魯山人も14歳になった頃から小金を稼ぐために自分なりの書を書いて、なんども応募をしていました。懸賞への参加者は何万人という単位でしたが、魯山人は初回で天の位1枚、地の位1枚、佳作1枚を受賞することになるのです。その後も応募をするたびに優秀作として選ばれることになりました。

1904年 – 21歳「日本美術展覧会・書の部において一等を勝ち取る」

展覧会で一等を勝ち取り、その書が宮内相の役人に買い取られる

魯山人の一行書 作品「千字文」で賞を勝ち取る

20歳の時に受けた徴兵検査を近視のために免除された魯山人は書家の日下部鳴鶴と巌谷一六を訪ね、書の師事をしようとしましたが、あまり自分の趣向と合わず、最終的には書は独学ですべきものと結論づけ、自学自習で書を極めていくことになるのでした。

そのさなかで行われた日本美術展覧会・書の部において、魯山人の書いた隷書「千字文」が一等を勝ち取ることになりました。21歳という若さでの受賞は前代未聞の快挙だった上、この作品「千字文」は宮内相の役人である田中光顕に買い取られることになります。そして、翌年には岡本可亭(漫画家・岡本一平の父で、画家・岡本太郎の祖父)に師事し、内弟子として引き取られることになるのでした。

2年間の修行後、書道教授として独立

魯山人が師事した岡本可亭は画家・岡本太郎の祖父

岡本可亭の内弟子として書の修行に明け暮れること2年、24歳の魯山人は独立して書道教授として生計を立てていくことになりました。書家名として福田鴨亭と名乗るようになり、看板や版画下書き、書道教授を生業として収入を上げていくようになるのです。

また、婚約者である安見タミを京都から呼び寄せ、1908年に結婚することになりました。同年には長男・桜一も誕生しています。

1909年 – 26歳「雑誌『実業之日本』、『少女之友』の題字を担当」

書道家としての仕事が増加し、雑誌の題字を依頼される

雑誌「実業之日本」と「少女之友」から題字の依頼を受ける

魯山人の書が世間に受け入れられるようになり、それに伴って仕事の量が増加していきました。書看板や篆刻などを主な生業としていましたが、1909年、雑誌「実業之日本」と「少女之友」から題字の依頼を受けることになったのです。書家としては最初の大きな仕事となりました。

1910年 – 27歳「朝鮮へ旅立ち、書記として働きつつ篆刻を学ぶ」

朝鮮へ

現在のソウルの街並み

27歳になった魯山人は母・登女とともに朝鮮の京城(現在のソウル)へと渡ることになります。そこでは朝鮮京龍印刷局に勤めることになり、公文書の版画書きに任命されました。仕事終わりの空いた時間には篆刻を習ったり、より良い書を学ぶべく、自ら古名碑、古社寺、古美術などを見学して回ったりしました。

京城で一年ほど働いた後、かねてより会見を希望していた篆刻家・呉昌碩(上海で当代一の篆刻家と称された)を訪ね、篆刻について語り合った後に日本へと帰国しました。

福田大観として小蘭亭の天井画などの名作を残す

魯山人が手がけた小蘭亭の天井画

1912年に帰国すると、朝鮮での書の勉強を生かして、書道教室を開くことになります。その後、近江長浜の紙文具商で素封家(金持ち)の河路豊吉に招かれ、書や篆刻の制作を行う環境を整えてもらうことになりました。

この長浜の地では京都の美術家・内貴清兵衛や富田渓仙、村上華岳らと出会い、関係を深めていくことで、魯山人の芸術的な才能が開かれていくようになりました。その後、魯山人は福田大観と号を変更して、小蘭亭の天井画や襖絵を手がけ、清水の泰産寺では書や篆刻の名作を残すことになります。

1915年 – 32歳「素封家の食客行脚をすることで、食器や料理に関する見識を深める」

北大路姓に復帰することに

1913年に魯山人の兄が亡くなったことにより、母・登女から家督相続をするように促されます。魯山人は長男の桜一を福田家の相続人とし、自身が北大路家に復帰することで合意しました。そして、号を北大路魯卿に変更し、同時並行で北大路魯山人も名乗るようになったのです。

素封家や料理屋と懇意になっていくにつれ、食器や料理に目覚めるように

懐石料理などの豪勢な食事をするうちに食器や料理に目覚めるように

この頃から魯山人は近江長浜、京都、金沢の素封家の食客として招かれたり、金沢の懐石料理屋「山の尾」と懇意になったりする過程で、食器や料理に関しての見識を深め、料理に目覚めていくようになりました。

便利堂の中村竹四郎と共同で古美術店・大雅堂を経営

1917年に知り合い、意気投合した中村竹四郎とともに古美術店・大雅堂を経営していくことになりました。ここで、古美術骨董・陶器を取り扱うかたわらで、その食器を利用しつつ、高級食材を使用した料理を提供するようにもなっていくのです。

1921年 – 38歳「会員制料亭『美食倶楽部』、会員制高級料亭『星岡茶寮』発足」

料理好きが高じて、会員制料亭を発足させることに

星岡茶寮を描いた絵画

1921年、大雅堂での料理提供から発展して、会員制料亭「美食倶楽部」を発足させることになりました。魯山人が自ら食器を制作し、それに合う料理を自分で作るというスタイルを築きます。

そして、その4年後には東京永田町にて、中村竹四郎が社長、魯山人が顧問として、会員制高級料亭「星岡茶寮」も開くことになるのでした。また、茶寮内で「魯山人習作第一回展」を開催し、書や陶器の展示も行うようになるのです。

「常用漢字三体習字帖」を刊行

常用漢字三体習字帖

その間も魯山人は書の制作にも余念がなく、1924年には「常用漢字三体習字帖」を刊行することになりました。その名の通り、常用漢字を3つの書体を使って記録したもので、現代に至るまで何度か改訂され、現在でも復刻版が販売されています。

1 2 3 4 5

1 COMMENT

コメントを残す