北斎漫画とは?内容や作成の背景、与えた影響まで分かりやすく解説

北斎漫画ってどういうものなの?」
「なぜ西洋絵画に影響を与えたの?」

日本で有名なマンガは数あれど、北斎漫画ほど国内外に影響を与えた作品はないと言っていいでしょう。内容のわかりやすさはもちろんのこと、その美術性やクオリティは日本人のマンガ文化の原点と言っても過言ではありません。

しかしながら、その詳細を知っている人はごく僅かではないでしょうか?学校の教科書でもほんの少し紹介される程度で、中身が載っていることはほとんどありません。

今回は北斎漫画の概要とその内容、北斎漫画に触れたい人にぜひ手にとってほしい本や展覧会の情報もお伝えします。ぜひ最後までお付き合いください!

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

北斎漫画とはどんなもの?

北斎漫画十編の一枚。手品のようなものが描かれている。

そもそものお話、北斎漫画とはどんなものなのでしょうか?その名前は知っていても概要については詳しくご存知ない人も少なくないはず。

そんな北斎漫画の概要について、本章では作者の素性と北斎漫画誕生のきっかけとルーツについて迫っていきます。

作者は『富嶽三十六景』の葛飾北斎

作者・葛飾北斎。左上には辞世の句が書かれているため最晩年の姿か。

北斎漫画の作者は、かの有名な浮世絵画家、葛飾北斎です。北斎の代表作といえば、『富嶽三十六景』。富士山をメインに46枚の絵を発表した作品として有名で、大波でおなじみの『神奈川沖浪裏』は現在の日本人も好む作品として知られています。

北斎は90歳という高齢で亡くなるまで膨大な数の作品を発表しました。「狂ったように絵を描く」ことから、晩年の号は「画狂老人」を自称するほど。それだけ絵に情熱を傾けた人物でもあります。

それを裏付ける有名なエピソードとして亡くなる直前に放った一言があります。

天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし
訳 神よ、私をあと5年生かせたら本物の絵を描いてみせるぞ

凄まじいまでの絵への執念を表すエピソードですね!そんな人物によって北斎漫画は誕生したのです。

気が向くままに描いた「スケッチ」

北斎漫画は、北斎いわく、

事物をとりとめもなく気の向くまま漫ろに描いた画

とのこと。つまり、気分や思いつきで描いたスケッチのようなものと言っているのです。漫画とは言っていますが、「漫ろ」に描いた「画(絵)」ということで漫画と名付けたようです。

永楽屋東四郎から出版された北斎漫画第四編も一部。

北斎が北斎漫画を描き始めたのは1812年、52歳ごろと言われています。初版は名古屋の版元・永楽屋東四郎から出版され、たちまち人気となり、結局1878年まで出版され続けました。江戸ではなく名古屋から出版されたというのも驚きですね。

この時北斎は名古屋の門人である牧墨僊のもとに滞在しており、そこで描かれたものが最初の北斎漫画とされています。牧邸に滞在中に描いた北斎漫画の枚数はなんと300枚と言われているます。

真似で始めた?北斎漫画のきっかけ

鍬形蕙斎。北斎と人気を2分したといわれる絵師。

さて、北斎漫画は内容は北斎のオリジナルなのですが、この漫画という発想自体は別の作品から着想を得ていると言われています。

もっとも有名な説の中に、同時代の画家・鍬形蕙斎の『略画式』を真似たというものがあります。これには鍬形自身も回想している文章が残っており、以下のように記しています。

北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり、是れは略画式を蕙斎が著して後、北斎漫画をかき

北斎は絵を描くために研究を怠らない性格で、これ以外にも人体を描くために整骨院に足を運んだり、海に行って波をひたすら眺めたりとさまざまなことをしていました。

自分の絵を完成させるため、ライバルと言われた鍬形からも知恵を拝借するあたり、北斎の本気度がうかがえますね!

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