明治時代ってどんな時代?出来事や年表、重要人物、文化などをご紹介

「明治時代ってどんな事が起きたの?」
「明治時代で活躍した人物はどんな人?」

明治時代は「日本が世界と並び立つために歩み出した」時代です。

世界初の蒸気機関車

1760年代にイギリスが蒸気機関の開発に成功し、工業や交通の面でも様々な発展を遂げた「産業革命」を起こしたことにより、欧米諸国は発展を遂げ、時代は近代へと突き進んでいきました。

この頃、日本はまだ江戸幕府政権下だったのですが、1867年の大政奉還により、江戸幕府が倒れ、新たに明治政府が誕生します。明治政府の重要な目的として掲げていたのが産業革命により発展した「欧米列強」に並ぶための国作りです。本記事では具体的にいくつかご説明いたします。

近代以降の流れはこれまでの時代よりも政治体制などが複雑になるため、歴史の授業でもかなり苦労したという方も多いのではないでしょうか。そこで、今回は大学時代に歴史学のなかでも近代史を専攻していた筆者が、明治時代を大まかにご紹介いたします。

覚えるうえで大事な幹の部分を理解することで、枝葉を付け足すことも可能になります。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

明治時代とはどんな時代?

明治時代はいつからいつまで?

明治天皇

明治時代は、1868年10月23日から1912年7月30日の明治天皇が崩御するまでの期間です。1868年9月に元号が「慶応」から「明治」へと改元され、明治時代へとなりました。なお、改元した時は太陰暦だった為、記録と少しずれがあります。この時、現在まで続く「天皇一代に付き一元号とする」という法律の「一世一元の制(いっせいいちげんのせい)」が施行されてから初めての改元となったのです。

ちなみに、明治天皇の即位は1866年に行われていますが、最初の2年間は明治時代に含まれて居ません。

明治維新によって築かれた新時代

1853年、それまで海外との交流を遮断し、鎖国体制を敷いていた日本に大きな出来事が起こりました。ペリー率いる黒船の来航です。

黒船来航

この黒船来航により、欧米諸国は日本に急接近。国内では外国人を打ち払う攘夷派と海外と積極的に交流すべきであるという開国派に分かれ、様々な争いが起きました。そして、1867年10月に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の命により、政権は朝廷へと変換され約150年に渡って日本を統治してきた江戸時代が終わりを告げました。

二条城大広間にて「大政奉還図」

この改元より前、1868年1月に勃発した「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」では、薩摩・長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕臣・会津藩などの旧幕府軍による争いが怒りました。結果は、新政府軍側が勝利し、この戦争において旧幕府側に協力した藩の大半が大幅に減封や重臣の処分などがされました。

このような出来事があったため、新政府は武家政権時代の「封建制度(ほうけんせいど)」を取りやめ、諸外国のような「中央集権的国家体制(ちゅうおうしゅうけんてきこっかたいせい)」作りを優先しました。そのために、1868年の4月には明治政府の基本方針である「五か条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を発布し、公卿や各藩の諸侯に広く知らしめました。

五か条の御誓文
出典:Wikipedia

1868年4月に軍監の江藤新平らの提案により、明治天皇含む朝廷は江戸へとその政治機能を移し、7月17日には江戸から「東京」へと改称されました。それに続くように、1869年2月には新政府の機関も東京へと移されました。これらの出来事は「御一新(ごいっしん)」と呼ばれ、民衆も何かが変わることを期待していたそうです。

明治天皇の東京行幸

西洋諸国に負けないための富国強兵政策(ふこくきょうへいせいさく)

1869年6月には諸般の領地と領民を天皇へと返還する「版籍奉還(はんせきほうかん)」という政策を打ち出し、各藩の諸侯へと上表しました。この政策は中央集権国家として、日本を改めて統一する意味合いが込められた政策となっています。しかし、この「版籍奉還」では、かつての藩主がそのままその藩の知事となっていたため、これまで通りの支配とあまり変わらないものとなっていました。

諸藩の藩主を集め廃藩置県を命じる様子

この状況を打開すべく打ち出されたのが1871年に発令された「廃藩置県(はいはんちけん)」です。「廃藩置県」では、「藩」と「藩主」をすべて廃止。新たに「県」を設置し、「県知事」がその地域を治めるという管理体制になりました。この結果、日本は「中央集権的統一国家」への道を歩き出すことになりました。

岩倉具視を中心にした岩倉使節団

1871年11月、江戸幕府が西洋諸国と締結した不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の改正と諸外国調査のため、岩倉具視を全権大使とする「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)が1年9か月の洋行を行いました。この間、日本では朝鮮の処遇を巡る「征韓論(せいかんろん)」論争が巻き起こりました。

使節団の目的である不平等条約の改正は思うような成果は得られませんでした。しかし、欧米諸国の文明を触れたことがきっかけで、使節団の面々は日本の近代化を進める意識が強く高まりました。そして、1873年に使節団は帰国し、新たに「富国強兵」政策を打ち出すこととなります。

征韓論争で揺れる議会内「征韓議論」

まず、国内で問題となっていた朝鮮への出兵を取りやめるよう大久保らは西郷、板垣といった面々を説得。結果、西郷率いる6名は官職を辞職し下野することになりました(明六年の政変(めいろくねんのせいへん))。その後、大久保は新たに内務省(ないむしょう)を設立。内務卿に就任すると、様々な政策に取り掛かりました。

特に力を入れたのが「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」です。殖産興業とは、西洋諸国の経済力に対抗すべく打ち出された政策で、機械製工業の導入など日本における「産業革命」のようなものでした。その代表的な場所が、殖産興業のモデルとなるべくして誕生した「官営模範工場(かんえいもはんこうじょう)」です。フランスの技術が導入された生糸工場である「富岡製糸場」をはじめ、それまでの「家内制手工業(かないせいしゅこうぎょう)」から「工場制機械工業(こうじょうせいきかいこうぎょう)」へと日本の産業は発展していきました。

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