寺山修司とはどんな人?生涯・年表まとめ【短歌や名言、死因も紹介】

寺山修司は、昭和時代に活躍したクリエーターです。歌人、脚本家、演出家、映画監督、写真家、エッセイストと多彩な顔を持ち、どの分野においても世界的に評価されており、他界して40年近く経った今でも熱狂的なファンがいることで知られています。

寺山修司

特に有名なのは、劇団「天井桟敷」主宰としての寺山修司の姿です。1960年代以降にブームとなったアングラ演劇を日本で牽引する一人であった寺山は、天井桟敷のメンバーとともに演劇の革命を起こします。既存の概念を壊して突き進む彼の芝居に、日本だけでなく世界中の多くの若者が夢中になりました。

映像の世界でも引っ張りだこの舞台俳優を多く育ててきたのは小劇場演劇です。寺山修司はその第一世代と呼ばれます。今もなお日本のカルチャーを牽引する力を持つ寺山修司とは、何者だったのでしょうか?この記事では、寺山修司の駆け抜けた人生とその功績を通じて、彼の魅力に迫ってみたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

寺山修司とはどんな人物か

名前寺山修司
誕生日1935(昭和10)年12月10日
没日1983(昭和58)年5月4日
生地青森県弘前市紺屋町
没地河北総合病院(東京都杉並区阿佐谷北1-7-3)
配偶者九條今日子(女優としての芸名:九条映子)
埋葬場所東京都八王子高尾霊園

寺山修司の生涯をハイライト

寺山修司自筆の石碑(岩手県北上市)

寺山修司は戦前の1935年に青森で生まれました。空襲を経験し、父を戦争で亡くし、寺山少年は多感な時期を複雑な家庭環境で過ごします。しかし、中学生の時に友達の影響で俳句に目覚めたことで、彼の創作人生の幕が開きます。

寺山の人生で目を惹くのは、人との出会いに恵まれていたことです。寺山自身もその縁を大事にしようとしました。特に演劇は一人では成立しない創作活動であり、寺山は「天井桟敷」のメンバーを自分の家族のように扱い、ともに暮らしました。寺山の芝居はそうしたメンバーとの一体感があったからこそ成立していたのです。

寺山修司の葬儀

若い頃から病に悩まされ続けた寺山でしたが、演劇や映画が世界でも認められた絶頂の時代、肝硬変と診断されます。それでも依頼されれば断れずに仕事を入れ、意識不明で倒れるまで創作活動を続けました。寺山修司の葬儀では、天井桟敷のメンバーが寺山の作品「レミング」の一節を唄って送り出しました。

一番最後でいいからさ
世界の涯てまで連れてって
世界の涯てまで連れてって

自分の葬儀でも、寺山は最高の演出をして旅立ったのです。

大切にした青森訛り

寺山修司は高校生までを青森で過ごしました。寺山は東京へ出てきてからも、青森訛りをそのまま用いていました。周囲の人たちの証言によると、寺山は自らを演出するが如く、その青森訛りを大切にしていたようです。

美輪明宏は寺山修司によって舞台人として見出されたとも言われています。

これは寺山自身に限ったことではなく、役者にもその個性として訛りを直さずに使わせることで、作品に奥行きを作っていたようです。寺山の芝居に出演していた美輪明宏も、長崎訛りをそのまま舞台で台詞として披露していました。

悩ましい母との関係

寺山修司の作品では、母殺しがよくテーマに取り上げられます。その奥底には、母との複雑な関係があったようです。寺山の父が戦死して以降、母・はつは米軍基地で働くようになりますが、寺山が中学生の時に青森に一人残して福岡へ行ってしまいます。これは母・はつがオンリー(特定の外国人と愛人契約を結んだ売春婦)であったのではないかとも言われています。

母・はつが働いていたといわれる福岡県芦屋基地は現在航空自衛隊の基地になっています。

母・はつにとって、寺山の社会的地位などは関係なく、ただただ母と息子の関係のみが全てだったようです。寺山は母がどれだけ勝手なことを言おうと、我慢して言う通りにしていたようで、母・はつの扱いに天井桟敷のメンバーはいつも悩まされていました。しかし、そんな母へのややこしい感情があったからこそ寺山のユニークな作品が生まれたと考えると、複雑な思いになります。

死因は医者が見落とした?腹膜炎

寺山修司の死因は肝硬変と腹膜炎のために敗血症となったことでした。ネフレーゼの治療の際の輸血が原因で肝硬変を起こしたと考えられています。ここに急性腹膜炎を併発したわけですが、この診断が遅かったがために治療が遅れ、寺山の死を早めたと、寺山の秘書を務めた田中未知が著書で書いているのです。

寺山修司と田中未知

この件に関しては、その腹膜炎が見抜けなかった医師が、この診断が遅れたことに対し「劇的な誤謬」と表現していることにも驚きます。もし腹膜炎だと早くに気づき治療していたら、寺山は肝硬変で亡くなっていたとしても、もう少し穏やかで緩やかな死であったのではないかと思われます。

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