第五福竜丸事件(ビキニ事件)とは?事件の経緯や影響を分かりやすく解説

「第五福竜丸事件って何?」
「何が原因だったの?」
「第五福竜丸事件による影響は?」

第二次世界大戦に対する日本と世界各国との平和条約である「サンフランシスコ平和条約」が締結されてから2年後の1954年に、日本のマグロ漁船が被ばくする事件が起こりました。第二次世界大戦中に広島と長崎に投下された原子爆弾による被ばくに次ぐ、「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」です。

被ばくした船にちなんで「第五福竜丸事件」と呼ばれたり、被ばくが起こった場所がマーシャル諸島ビキニ環礁であったため「ビキニ事件」とも呼ばれています。

この事件がきっかけでのちの日本に様々な影響を与え、日本においての反核運動の原動力となり世界に誇る特撮怪獣「ゴジラ」が生まれるきっかけにもなりました。

この記事ではそんな「第五福竜丸事件」の経緯や影響、事件を扱った作品などを紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

第五福竜丸事件とは何か?

事件の概要は?

第五福竜丸

1954年3月1日午前6時45分、アメリカはマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆「ブラボー」の実験を行います。水爆の爆発によって飛散された「死の灰」と呼ばれる放射能を帯びたサンゴ片が辺りの海に降り注ぎ、近くで操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくしました。

マーシャル諸島ビキニ環礁

この時「第五福竜丸」はアメリカの設定した危険水域の外で操業していましたが、水爆の威力が当初の見積もりよりも大きく、予想より広くの範囲で放射能を帯びた灰が降り注いでしまったために被ばくしてしまいました。

危険を察知した第五福竜丸の乗組員たちはすぐに操業していた海域から脱出を図りましたが、数時間に渡り放射能を浴び続けたため船員23名全員が被ばくしました。

アメリカ政府は事件を大きくしないため第五福竜丸の被ばくを小さく見積もります。当時日本政府も平和条約を締結してすぐだったためアメリカを刺激しないようにという思惑もあり、アメリカに強く意見できなかったとみられています。

その結果、アメリカ政府は賠償金としてではなく好意での見舞金という形で200万ドル(当時約7億2000万円)を支払い、日本側はアメリカの責任は追及しないという条件で事実上の事件の終結を迎えました。

事件の原因となった水爆実験

ビキニ環礁で行われたキャッスル作戦・ブラボー実験

アメリカ合衆国は1945年7月16日に核実験「マンハッタン計画」によって史上初めての原子爆弾を炸裂させました。1946年からは現在マーシャル諸島共和国となったマーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁において合計67回に渡り核実験を行っています。

1952年に行われた「アイビー作戦」において史上初の水爆の爆発実験が行われ、1954年の「キャッスル作戦」において水爆の小型化が試され合計6回の爆発実験が行われました。

第五福竜丸が被ばくしたのはこの「キャッスル作戦」の第一回目の「ブラボー実験」によってでした。当時アメリカ軍はこの水爆の威力を4トンから8トンと見積もっていましたが、実際には15トンもの威力があったとされています。

第五福竜丸事件の被害

亡くなった久保山愛吉さん

第五福竜丸に乗船していた乗組員全員はもちろんのこと、船体やこの時水揚げされていたマグロも被ばくが認められました。事件から半年後には無線長だった久保山愛吉さんが亡くなり、第五福竜丸事件における唯一の被害者となりました。

また事件後アメリカは危険海域を拡大したため、第五福竜丸以外にも数百隻の漁船、2万人を超える被ばく者がいるとみられています。

事件によって被爆したマグロは焼津や東京に水揚げされましたが、「汚染マグロ」として大量に廃棄されることになります。

水揚げされた汚染マグロ

特に3月15日の築地市場にマグロが水揚げされた際にはセリが中断され、行政の指導により敷地内の地中に埋められています。埋めた地点には第五福竜丸事件を忘れないため「原爆マグロ」の塚が建てられました。現在は東京都立第五福竜丸展示館に移設されています。

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