北条時政とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や初代執権の活躍、家紋や家系図についても紹介】

北条時政の功績

功績1「後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせる」

日本一の大天狗と呼ばれた後白河法皇

1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡後、頼朝は時の権力者・後白河法皇から「守護・地頭の設置」を認めさせる必要がありました。後白河法皇の交渉役を務めたのが時政であり、時政は千騎の兵を連れて入京しています。

守護は軍事指揮官・行政官であり、地頭は公領や荘園の管理をする役職です。これらの任命権を鎌倉幕府が担う事で、朝廷ではなく武士が政治をする体制を作ろうとしたのですね。

時政は公卿・吉田経房を通じて後白河法皇と交渉を行い、「守護・地頭の設置」を認める勅許を得る事に成功。鎌倉幕府発足の足がかりを作ったのです。

時政は入京時に「守護・地頭の設置の説得」だけでなく、「京都の治安維持」「平氏残党の捜索」等の任務をこなしました。後に時政の職務は京都守護と呼ばれ、朝廷の監視役となる六波羅探題の前身となるのです。

功績2「比企能員の変で日企氏を追放!幕府における北条氏の地位を引き上げる」

北条時政と比企能員の関係図

歴史を学んでいると、頼朝死去後には北条氏がすぐに鎌倉幕府の実権を握ったと勘違いするかもしれません。実際には北条氏は有力御家人の一角に過ぎず、他の有力御家人が台頭する可能性もありました。

その代表が比企一族です。頼家の妻・若狭局は比企能員の娘でした。頼家は母・政子の実家である北条氏のりも比企氏との結びつきを強めており、若狭局との間に出来た一幡を将軍にする事を考えていたのです。

もし一幡が将軍になれば、将軍の外祖父の立場は時政から比企能員に移り、北条氏は血筋の意味でも比企氏に劣る事になり、最悪の場合粛清される可能性もあったのです。

比企能員の変により比企一族は滅亡。若狭局や僅か5歳の一幡も殺害されています。現在の価値観では残酷に感じるかもしれませんが、当時は生きるか死ぬかの世界であり、北条氏にとっては比企能員の変は大きな功績なのです。

北条義時の名言

りもる山のいちごさかしく成にけり

伊豆の地で時政と頼朝が狩をした時に、頼朝に向けて詠んだ連歌です。頼朝が自分の庇護のもとで立派に成長した事を喜ぶ歌です。

頼朝の暗殺疑惑もある時政なので、本心は実のところは分かりまへん。ただ時政も歌人としての一面があった事が分かりますね。

北条時政の人物相関図

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のキャストであり人物相関図

この相関図はキャストだけでなく、登場人物の役柄も書かれており、複雑な人間関係を学ぶ上でもおススメです。時政役の坂東彌十郎はもちろんの事、義時役の小栗旬や源義経役の菅田将暉等も見どころでしょう。

北条義時にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「北条氏の家紋は三つ鱗!由来は大蛇だった?」

北条氏の家紋である三つ鱗

北条氏の家紋は3つの三角形を鱗の形に見立てた「三つ鱗」です。この家紋の由来はなんと大蛇でした。

これは時政が子孫の繁栄を江ノ島弁財天に祈願した21日目の夜の事。時政のもとに弁財天という女神が現れ「非道を行なえば家が滅びる」とお告げを残し、蛇に変化して海中に消えたそうです。

時政はこの時に残された3枚の鱗を家紋にする事を決めました。比企能員の変や実朝暗殺未遂等、非道と言う点ではかなり怪しいものの、北条氏の一族は鎌倉幕府の中で大いに繁栄したと言えますね。

豊後大神氏の家紋 左三つ巴
出典:Wikipedia

なお遠く離れた豊後(現大分県)の大神氏も似た大蛇伝説を持ち、家紋は「丸に三つ鱗」となっています。家紋研究家の中には、北条氏のルーツはこの大神氏ではないかと推測する人もいるのです。

都市伝説・武勇伝2「北条時政の先祖は本当に平氏?謎に包まれた家系図」

北条氏の祖とされる平直方(疑問説も多い…)

北条氏は自らを「桓武平氏の平直方の子孫」と称しています。これが正しいなら時政と平清盛ら平家一門は遠い親戚になるのですが、疑問視もされているのです。

北条氏の家系図はいくつか存在するものの、系譜は全て異なるのです。一応祖父が時家、父が時方もしくは時兼と言う点に相違はない為、時家が実在の確認出来る北条氏の祖と言われています。

鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」でも時政の出生はうやむやになっています。「高貴な血筋であった」と系譜を繋げる事も出来ない程、時政の一族は小さな地方豪族に過ぎなかったのかもしれません。

もし時政が地方の豪族に過ぎなかったのならば、時政は僅か1代で鎌倉幕府の執権に登りつめた事になります。時政は日本の歴史における下克上の1人なのかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝3「源頼朝暗殺未遂の黒幕は北条時政?謎の多い曽我兄弟の仇討ち」

曽我兄弟の仇討ち(歌川国芳画)

1193年に頼朝は暗殺未遂事件に巻き込まれます。それが「曾我兄弟の仇討ち」という事件ですが、それに時政も関与していたという説があるのです。

1193年5月に頼朝は富士の鷹狩りを行いますが、その最中に曾我祐成と曾我時致の兄弟が、親の仇である工藤祐経を討ち取りました。仇討ちは達成したにもかかわらず、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲うつもりでいたのです。

曽我兄弟の弟・時致と時政には繋がりがあった…

頼朝の暗殺は未遂に終わり、曽我兄弟も討死・斬首されるものの、なぜ2人が頼朝の宿所を襲うつもりだったのかは不明です。一説では曽我兄弟を操っていたのは時政ではないかとも言われているのです。

実は弟の時致の元服において加冠を行ったのは北条時政であり、両者には繋がりがありました。兄弟は事件の顛末について深く語らなかった為、真相は闇の中です。

ちなみに「曾我兄弟の仇討ち」から6年後に頼朝は死去。未だに多くの謎があり、こちらについても北条氏の暗殺が示唆されているのです。

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