オーストリア=ハンガリー二重帝国とは?歴史年表まとめ【成立から崩壊まで詳しく紹介】

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは、かつてヨーロッパに存在していた、ハプスブルク家が治める多民族連邦国家です。現在はEU加盟国の1つであるオーストリア共和国として知られています。

オーストリア共和国の国旗

「オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあったの?」
「オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあったのか、また、オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について詳しく紹介していきます。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について、成立から崩壊まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは

オーストリア帝国とハンガリー王国の同君連合

オーストリア=ハンガリー二重帝国の国章

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは、オーストリア帝国とハンガリー王国の同君連合として成立した多民族連邦国家です。前身であるオーストリア帝国は、ボヘミアやモラヴィア、シュレジエン、スロヴァキア、トランシルヴァニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの様々な地域を領土に抱える大国でした。

当時、帝国内において諸民族による独立運動が活発化しており、支配層でありながら少数派であったドイツ民族は権力の失墜を恐れ、妥協策を図ります。その後、オーストリア皇帝のフランツ=ヨーゼフ1世はハンガリーの独立運動を懐柔し、形式的な独立を認めました。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

そして、オーストリア帝国とハンガリー王国がそれぞれ独自の政府を持った結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生したのです。しかし、軍事、財政、外交の面においては、オーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねるフランツ・ヨーゼフ1世が掌握していました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国はいつ成立した?

オーストリア=ハンガリー二重帝国は1867年に成立しました。18世紀末に起きたフランス革命が終わり、その影響を受けて自由主義とナショナリズムが拡大した19世紀は、世界的に激動の時代となったのです。

1848年、当時のヨーロッパにおける国際秩序であったウィーン体制が崩壊し、西欧社会は大きな転換期を迎えていました。その中で衰退しつつあったオーストリア帝国は、サルデーニャ王国やプロイセン王国に敗れるなどして、国際的な地位が下落。そして、帝国の弱体化は国内に多数存在していた諸民族の独立運動を引き起こすことになったのです。

また、1867年は日本においても大きな時代の転換点でした。四侯会議の崩壊、徳川慶喜による朝廷への大政奉還、そして坂本龍馬の暗殺が起きた年だったのです。翌年には明治維新が行われて本格的な近代化改革が進み、日本は明治時代を迎えました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した1867年に暗殺された坂本龍馬

オーストリア=ハンガリー二重帝国はどこにあった?

オーストリア=ハンガリー二重帝国が支配していた領域

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、首都であるウィーンを中心に中東欧の広大な領土を保有していました。国内には様々な民族が居住しており、多民族連邦国家という形で存在していたのです。

また、二重帝国が成立した後に開催されたベルリン会議によって、オーストリア=ハンガリー二重帝国は、かつてオスマン帝国の統治下にあったバルカン半島中部に位置するボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得。そして、1908年にオスマン帝国内で発生した青年トルコ革命の混乱に乗じて、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。

その結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビア王国から強い反発を受け、同じスラブ系民族の国家であるロシア帝国との関係も悪化したのです。それ以降、オーストリア=ハンガリー二重帝国とドイツ帝国によるパン=ゲルマン主義を軸とする領土拡大は、バルカン半島諸国やロシア帝国が掲げるパン=スラブ主義と衝突していくことになります。

オーストリア=ハンガリー二重帝国はなぜ崩壊した?

オーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊に至った理由は、第一次世界大戦で敗北したことにありました。敗戦後に、帝国内部に抱えていた諸民族が次々と独立していったのです。

パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義が鋭く対立していたバルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、ヨーロッパ情勢は一触即発の状態になっていました。その中で発生したサラエヴォ事件をきっかけに、第一次世界大戦が始まったのです。

そして、4年にわたる総力戦となった第一次世界大戦において、オーストリア=ハンガリー二重帝国はイギリス・フランス・ロシア帝国を中心とする三国協商側に敗北してしまいます。停戦協定後、帝国内にあった多数の民族が独立を宣言。その結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体されたのです。

第一次世界大戦後のヨーロッパの地図

オーストリア=ハンガリー二重帝国とハプスブルク家の関係

ハプスブルク家の紋章

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、神聖ローマ帝国の時代から続くオーストリア系ハプスブルク家の君主によって統治されたハプスブルク帝国です。

ハプスブルク家出身のオーストリア皇帝であったフランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立と共に、ハンガリー国王を兼任することになりました。68年に及ぶ長い在位で、国民から愛されたフランツ・ヨーゼフ1世は「国父」と呼ばれ、オーストリアを象徴する存在だったのです。

しかし、フランツ・ヨーゼフ1世は第一次世界大戦の最中に死去。後継者となったのはカール1世でしたが、即位した2年後にオーストリア=ハンガリー二重帝国は敗戦国となり、カール1世はスイスに亡命することになります。最終的に、皇室財産の多くを新生のオーストリア共和国に没収されてしまったため、カール1世はハプスブルク帝国の最後の皇帝となったのです。

オーストリア=ハンガリー二重帝国における最後の皇帝カール1世
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