アフリカの年とは?原因や独立国、至った経緯を分かりやすく解説

「アフリカの年って何?」
「アフリカの年に独立した国々は?」
「アフリカの年で多くの国が独立できた理由を知りたい」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?アフリカの年とは、欧米諸国の植民地となっていたアフリカの16カ国(のち、17カ国)が一斉に独立した1960年の有名な呼び名です。

アフリカに広大な植民地を持っていたフランスのド・ゴール大統領が、植民地の独立を容認したため多くのアフリカ諸国が独立を果たしました。

今回はアフリカの年とは何か、アフリカの年にどんな国々が独立したか、どうして、一斉にアフリカ諸国が独立することができたかなどについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アフリカの年とは?

アフリカ諸国が独立を達成した年代(黄色が1960年に独立した国々)

アフリカの年とは、100年以上、欧米諸国の植民地とされてきたアフリカの国々が一斉に独立を果たした1960年の別称です。この年だけで、16カ国(1960年中にマリ連邦からセネガルが分離独立したため、最終的に17カ国)が独立国となりました。

第二次世界大戦後、戦争の痛手から経済的に苦しむ宗主国(植民地を支配していた国)が植民地を維持する力を失ったことでアフリカ諸国に独立のチャンスが巡ってきました。独立したアフリカ諸国は国際連合で存在感を増し、アメリカ・ソ連の二大勢力も無視できない存在となります。

アフリカの年に独立した国々

1960年に独立を果たしたアフリカの国々は旧フランス植民地、旧イギリス植民地、旧ベルギー植民地です。これらの国々の背景についてまとめます。

旧フランス植民地

フランス領西アフリカ

19世紀後半、フランスはアルジェリアなど北西アフリカからサハラ砂漠を横断し、東アフリカのジプチやアフリカ大陸南東のマダガスカル島を結ぶルート上を植民地にしようとしていました。このフランスの植民地政策を横断政策といいます。こうして、フランスはアフリカで広大な植民地を支配することになります。

フランス政府がアフリカの植民地の独立を容認したことを受け、セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ダホメ(現在のベナン)、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカルの14カ国が1960年に独立しました。

旧イギリス植民地

縦断政策を推し進めたセシル・ローズ

イギリスも積極的なアフリカ進出を行いました。イギリスが目指したのは南アフリカ植民地からエジプトまでのルート上を植民地化することです。アフリカ大陸を南北に縦走することから、イギリスの植民地獲得政策を縦断政策といいます。

アフリカにあるイギリス植民地のうち、エジプトや南アフリカは独立を果たし、ガーナなども1960年に独立済みでした。そのため、1960年に独立するのはナイジェリアとソマリアのみとなります。

旧ベルギー領コンゴ

ベルギー領土コンゴは、アフリカ分割の負の側面を象徴する植民地です。各国がアフリカを分割する中、コンゴ盆地はベルリン会議においてベルギー国王の私有地とされました。ベルギー王レオポルド2世は現地住民を強制的に働かせ天然ゴムなどを採取させました。

手首を切り落とされるコンゴ人と利益を独占するベルギー国王レオポルド2世

天然ゴムの採取量が目標に足りなかった場合、働かされていた黒人労働者は手首を切り落とすなどの残虐な刑罰を受けます。あまりに非人道的な支配に対し、他の欧米列強やベルギー国民がレオポルド2世を強く非難しました。

その結果、コンゴはベルギー政府の管轄下に移ります。国王の私有地だった時代に比べ待遇は改善されましたが、それでも自由のない植民地に変わりありませんでした。このベルギー領コンゴもコンゴ共和国として1960年に独立を果たします。

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