ウォーターゲート事件とは?事件の経緯や真相、題材になった作品を紹介

ウォーターゲート事件の重要人物

リチャード・ニクソン大統領

リチャード・ニクソン大統領

リチャード・ニクソンは1913年生まれのアメリカ合衆国の政治家で、第36代副大統領と第37代大統領を歴任しました。

ニクソン大統領が着任した当時はベトナム戦争の真っ最中で、反戦運動が過激化していた時代でした。大統領選挙中に掲げていた公約である「戦争からの早期撤退」を実現するべく、帝王的大統領制と呼ばれるホワイトハウスに権力を集中させた政権で政策にあたりました。

ベトナム戦争終結に向けての交渉や当時ソ連と対立していた中国との外交の開始、1972年5月にはソ連を訪れ米ソ両国間の軍縮に成功するなど外交政策には高い評価を得ています。1969年には日本の佐藤栄作首相と会談を行い1972年には沖縄が返還されました。

ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相とニクソン大統領

しかし1972年に起こったウォーターゲート事件によって国民からの支持を著しく失い、アメリカ合衆国で唯一任期中に辞職した大統領となりました。

侵入犯「ウォーターゲート・セブン」

実行犯の5人

ウォーターゲート・ビルの民主党本部に侵入して現行犯逮捕されたのはバーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・W・マッコード・ジュニア、フランク・スタージスの5人でした。

彼らのうち3人はキューバ人の退役軍人、1人はCIAの工作員、残る1人はニクソン大統領の再選委員会員というメンバーでした。

最終的に実行犯5人に加えホワイトハウスの元非常勤顧問であったエヴェレット・ハワード・ハントと大統領再選委員会財政顧問ジョージ・ゴードン・リディも逮捕されたことによって、侵入に関わった7人の被告たちはのちに「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれるようになりました。

「ディープ・スロート」ことマーク・フェルト

「ディープ・スロート」ことマークフェルト

事件が起こった直後からアメリカの新聞社「ワシントン・ポスト」は記者たち独自の調査を基に、様々なスクープを掲載していきます。この一連のスクープには事件の内部情報に詳しい情報提供者が存在しており、その人物は「ディープ・スロート」と呼ばれていました。

長年「ディープ・スロート」の正体は不明でしたが事件から33年後の2005年に、事件当時FBI副長官だったマーク・フェルトが「ディープ・スロート」は自分だと名乗り出たため正体が判明しました。

パトリック・グレイ

事件当時のFBI長官代行であり事件にも大きく関わっていたパトリック・グレイが前任のFBI長官が亡くなったあと長官代行を任命されたことに、フェルトは大きなショックを受けたと言います。このことが「ディープ・スロート」となった一つの要因だったことは間違いないでしょう。

ウォーターゲート事件に関係するその他の事件

ピッグス湾事件

ピッグス湾事件で戦ったキューバ人兵士たち

侵入犯のうち3人がキューバ人の退役軍人でしたが、彼らが関わっていた軍事作戦が「ピッグス湾事件」でした。

「ピッグス湾事件」とはアメリカに亡命していた在米キューバ人部隊がCIAの支援を受け、キューバに侵攻しフィデル・カストロ政権の打倒を試みた事件です。「第一次キューバ危機」とも呼ばれています。

フィデル・カストロ

1961年4月初め、反カストロ軍はキューバ空軍基地を空襲しますが、予定の7分の1程度しか戦闘機を破壊できず作戦は失敗に終わります。続く4月17日、部隊はピッグス湾ヒロン浜への上陸を開始、この時上陸した反カストロ軍の約1500人に対してキューバ政府軍は約20万人の大軍勢でした。

早々に物資補給船を撃沈された反カストロ軍は、弾薬・食糧・医療品などが底をつき劣勢に立たされます。結果、4月19日に政府軍に投降し114名が戦死、1189名が捕虜となるなど侵攻作戦は大失敗に終わりました。

ペンタゴン・ペーパーズ

ニューヨーク・タイムズのスクープ

1971年にニューヨーク・タイムズがスクープした国防総省秘密文書が「ペンタゴン・ペーパーズ」で、アメリカがベトナム戦争に参戦するために行った政策や秘密工作などが記された極秘文書でした。

この「ペンタゴン・ペーパーズ」以降にアメリカ合衆国は、連邦政府内からの情報漏洩を防ぐため特別調査チームを設置しました。調査対象は当時のベトナム戦争反対の活動家や報道関係者、ホワイトハウス職員から民主党員までが含まれました。

この特別調査チームの中心人物として調査対象者たちに工作を行っていたのが、ウォーターゲート・セブンとして数えられたゴードン・リディおよびハワード・ハントでした。

1 2 3 4

コメントを残す