チェルノブイリ原発事故とは?原因から被害・死者数、現在の様子まで解説

通称「象の足」とは

撮影された「象の足」
出典:Wikipedia

「象の足」とは、チェルノブイリ原発事故の結果生まれた炉心溶融物の通称です。何層にも折り重なっており表面が皺だっていること、黒鉛を含んでおり黒ずんだ色であることから、「象の足」と名付けられました。

あまりの硬度に差し向けられた遠隔操作ロボットのドリルでは崩すことができず、狙撃手による弾丸により破片(サンプル)を採取。その主成分は、二酸化ケイ素(70〜90%)、ウラン(10〜20%)のほか、チタン、マグネシウム、ジルコニウム、グラファイトなどを含んでいます。なお、1986年12月に発見された当初は毎時8000レントゲンの放射線を放っており、5分程度で人の半数致死量に相当するほど危険な状態でした。

事故原因

チェルノブイリ型原発の構造

事故後のソ連の報告では、事故原因は「運転員の規律違反」とされました。しかしその後の調査により、そもそも設計に問題があったり、安全への配慮が希薄であったなど根本的な組織体制や運営上の失態であったことがわかっています。ポジティブスクラムとよばれる原子炉の特性や、そもそもセーフティカルチャーが欠如していたことが主原因とされました。

チェルノブイリ原発事故の事故原因

どの程度の被害が発生したの?死者数は?

一瞬にして世界史に残る原発事故となった

死者は約4000人

チェルノブイリ原発事故による死者はどれだけいたのでしょうか。

1986年8月にソ連が公開した報告書によると、事故直後に病院に搬送された約300人のうち、240人が急性放射線障害と診断され、うち28名が死亡しています。現場火災で死亡した者などを含めて、事後による死者は当初31名とされました。その後、2005年に「チェルノブイリ・フォーラム」が発表したところによると、急性放射線障害による死者、急性放射線障害から回復後に死亡した者、小児甲状腺がんによる死者は約60人とされています。この他、1986年~1987年のリクビダートル2200人、事故直後に避難した30キロ圏内住民140人、高汚染地域居住者1600人、合計で約4000人とされています(後述するリクビダートルの死者数を含め、異説があります)。

事故処理に従事した「リクビダートル」も犠牲に

チェルノブイリ原発事故では、多くのリクビダートルと呼ばれる人が作業に従事しました。リクビダートルとは、ロシア語で「清算をする人」を意味しており、原発での事故処理作業に従事をした人びとを指しています。高い放射線の中、事故処理作業に従事することは直接命の危険にさらされる文字通り命がけの作業でした。

その総数は60万人~80万人とされています。中でも1986年~1987年にかけて動員された20万人が大きな被ばくを受けました。平均年齢は35歳程度、平均被ばく量は120ミリシーベルトとされていますが、1991年から1998年に行われたロシア居住リクビダートル約66000人の追跡調査によると死亡数は4995件(7.6%)とされています。

汚染被害により数十万人が避難

チェルノブイリ原発事故によるセシウム137の拡散状況

チェルノブイリ原発事故により拡散した放射性物質は、4月中にはヨーロッパの各地で、5月には日本を含む北半球全域で観測されています。事故の翌日4月27日に原発至近のプリピャチ市4万5000人が、5月3日~9日にかけて原発周辺30キロから9万人の合計13万5000人が避難をしました。

また、事故後3年ほど経過すると、30キロ圏内に高汚染地域が広がることが判明。1989年7月にベラルーシ議会は追加で11万人の避難を決定しています。事故直後からの避難者数は、ウクライナ16万人、ベラルーシ13万人、ロシア5万人余りの計35万人とされ、自主避難者を含めると推計40万人~50万人が故郷を離れたのでした。

事故対応はどのように行われたか?

応急対応

事故対応に使用されたヘリや装甲車は、多くが放射能汚染され使用できなくなった

事故直後にまず行われたのが、火災の消火作業でした。事故発生の5分後、発電所消防隊が現地に到着し、隣接するタービン建屋と3号炉の屋根に起こる火災の消化にあたります。数時間後に作業は完了しますが、原子炉だけは燃え続けていました。この作業では17名の作業員が病院へ搬送され、うち6人が死亡しています。

また、燃えさかる原子炉に対しては有効な手立てがなく、上空から砂や鉛、ホウ素を投下するしかありませんでした。4月27日以降5月1日までの間に鉛2000トン、砂1500トンが投下されています。投下された資材の多くは原子炉ホールに散乱し原子炉までは至っておらず、また投下の衝撃によって放射性物質の拡散が起こるというデメリットもありました。

石棺化

「石棺」により封じ込めがされたチェルノブイリ原発

放射性物質の拡散をふせぐためには、事故を起こした4号炉そのものを頑丈なコンクリートで固めてしまう他ありませんでした。そのため6月から11月までの5か月間で作られたのが、安全閉じ込め構造物(オブジェクト・シェルター)通称「石棺」です。高い放射線のためにロボットでの作業ができず、この石棺を作るためにも多数のリクビダートルが投入されます。とりわけ、屋上での作業は被爆を抑えるためがれきをシャベルで数回すくって放り投げ、数分で退去するという過酷なものでした。深刻な被曝を受けつつも作業に従事する彼らは当時「バイオ・ロボット」と呼ばれています。

再稼働と全廃炉まで

事故後も隣接する原発は運転を続けた

これだけの大惨事を起こしたチェルノブイリ原発ですが、驚くべきことに、事故後も1号炉~3号炉は運転を続けています。これには、ウクライナ国内の電力不足が背景にありました。そのうち2号炉は1991年に火災を起こし、原子炉の損傷が激しいと判断されて停止しました。次いで1996年には国際的な取引に応じるかたちで1号炉を廃炉とし、2000年には当時のウクライナ大統領・レオニード・クチマが3号炉を停止させています。チェルノブイリ原発事故から全ての原発が廃炉となるまで、じつに14年の歳月が流れたのでした。

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