木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

木戸孝允の名言

京都市・河原町にある木戸孝允像

人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。

こちらは「自分の短所を補うには、人の優れた部分を取り入れるべき」という意味です。木戸の師であたる吉田松陰に送った手紙に残されています。

相手の長所を見抜き、自分の糧にする。そういう謙虚な気持ちがあるからこそ、木戸は長州藩の指導者になれたのです。

死而後已(ししてのちやむ)

これは「死ぬまで努力を続ける」という意味です。出典は論語であり、木戸が幅広い教養を持っていた事が分かります。文字通り木戸は、死の直前まで日本の事を大切に思い、努力を続けたのでした。

一橋の胆略決して侮るべからず、実に家康の再生を見るが如(ごと)けん

一橋とは最後の将軍となった「徳川慶喜」の事です。彼は「家康の再来」と呼ばれる程に聡明でした。慶喜のリーダーシップと見識の深さに、倒幕派の志士達は追い詰められていきます。

相手との戦いに勝つ為には、決して相手を侮らない事です。敵であっても敬意を持ち、冷静に分析・対応する事で、見えてくるものがあるはずです。木戸達は慶喜を侮る事なく策略を行い、新政府を樹立しました。

木戸孝允の人物相関図

坂本龍馬を中心とした人物相関図

こちら坂本龍馬を中心にした幕末の人物相関図です。幕末に暗躍していたのは薩摩や長州だけではありません。幕府や朝廷、土佐などの様々な勢力がそれぞれの思いを胸に行動していたのです。

木戸孝允にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「10の名前を持つ男?桂小五郎から木戸孝允に改名」

現在の池田屋跡(現在は居酒屋が経営されている)

木戸は生涯に10回以上も改名をしています。木戸は池田屋事件を経て幕府や会津藩から追われ、各地を潜伏します。捜査の手から逃れる為に偽名を使ったのです。新堀松輔・広戸孝助などまだまだあります。

幕末に木戸孝允が桂小五郎と名乗っていた事はご存知でしょう。ただ木戸は長州藩の藩医・和田家の次男で、もともとは和田小五郎でした。やがて木戸は桂家の養子になり、桂小五郎と名乗ります。

木戸は池田屋事件の後で長州藩に戻り、藩政改革を行います。ただ木戸は幕府から追われた身です。「桂小五郎」という名前を名乗ると、生きているとバレてしまいます。そのため長州藩は木戸姓を木戸に与えたのです。

薩長同盟を結んだ頃の木戸孝允

ちなみに木戸はその後も「貫治」「準一郎」と名乗り、孝允という名を使っていません。孝允と名乗るのは、戊辰戦争が終わってからでした。

ちなみに「孝允」という名は、木戸が持っていた本当の名前である「諱(いみな)」です。昔の人は諱で名前を呼ぶ事を避け、通称で呼び合っていました。

ただ明治になり、全ての人が「姓」と「名」を戸籍登録する事が決まり、諱と通称を両方持つ事は禁止されます。その為に木戸は諱である「孝允」の名を名乗るようになったのです。

都市伝説・武勇伝2「イケメンで剣術も超一流?モテモテだった木戸孝允」

千代田区にある練兵館跡地

これまでの写真を見て分かる通り、木戸はとてもイケメンです。更に木戸は剣術も超一流でした。木戸は江戸の三代道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、たった一年で塾頭となりました。

木戸が塾長を務めたのは嘉永6年(1853年)から5年間。この間に木戸の腕前は江戸中に轟きます。一説では新撰組局長となる近藤勇が「桂小五郎には手も足も出なかった」と述べたとされます。

更に安政4年(1857年)に行われた剣術大会で、木戸は坂本龍馬と対戦。龍馬が敗れたと記録する史料も見つかっているのです。

木戸の妻となった幾松(松子)

イケメンで剣術も一流な木戸です。当然木戸は行く先々でモテました。そんな木戸が生涯の伴侶に選んだのは、京都で出会った芸妓・幾松です。

幾松は木戸が京都で潜伏している頃、新選組や幕府の役人から木戸をかくまい続けました。幾松のおかげで木戸は命を繋ぎ、倒幕を果たすのです。木戸と幾松は明治維新を経て夫婦となりました。

都市伝説・武勇伝3「死因は胃ガン?肝臓ガン?木戸孝允を襲った数々の病気とは?」

肝臓ガンの症状

木戸は明治10年(1877年)に43歳の若さで亡くなります。死因は「大腸ガンの肝臓転移」という説が濃厚です。木戸は死の間際に膿と血が混じった便や、肝臓の腫瘍の悪化などの症状がみられていました。

木戸の死因は従来は「胃ガン」と言われていました。それは木戸を診察したドイツ人医師・シュルツが「極めて難治の胃病」と診断した事が根拠になっています。

木戸は結果的にガンの転移で亡くなったものの、様々な病気に悩まされていました。明治維新を迎えた頃から、慢性的な腹痛や下痢に襲われています。更に明治6年(1873年)には落馬で頭を打ち、頭痛にも悩まされました。

木戸はもともと鬱になりやすい性格でした。幕末は血気盛んな藩士の上に立ち、明治には政策実行の為の激務が続き、気の休まる日はなかったと思われます。おのずと酒の量も増えていき、体への負担は増える一方でした。

木戸が亡くなる頃、九州では西郷隆盛を総大将にした西南戦争が勃発しています。木戸は薄れゆく意識の中、大久保の手を握り締めてこのように言い、亡くなりました。

西郷もいいかげんにしないか

木戸は最後まで日本の将来を憂いながら、この世を去ったのです。

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