阿部正弘とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や子孫、功績も紹介】

死因は癌かストレスか?

阿部正弘の亡くなった大名屋敷跡には、現在は東京海上日動本社ビルが建っている(東京都千代田区丸の内1-2-1)

阿部正弘の死因は明確なことはわかっていませんが、肝臓癌という説が有力のようです。お酒好きだったとも言われますし、一般的に長期間ストレスを抱えるとがんのリスクが高くなる傾向があることを考えると、老中首座という重責による負荷は肝臓癌を悪化させる原因に十分なり得たでしょう。伊澤伯軒という福山藩の藩医が江戸城の老中屋敷で最期を看取りました。

死因としては働きすぎによる過労死や、阿部正弘に恨みを持つ人物による暗殺という説もあります。しかしこれは、裏を返せばそれほど激務が続いていたということです。長きにわたって多くの批判を受ける矢面に立ち、日本の将来に対する責任が正弘にのしかかっていたことの表れでもあります。そして何より、色々な説が出回るほど正弘の死は突然だったのです。

阿部正弘に子孫はいるのか?

阿部正直は物理学者として著名な寺田寅彦からの助言で活動写真(映画)を使った雲と気流の研究を行った。

阿部正弘の息子たちは子孫を残すことなく亡くなっていますが、娘の寿子が第10代福山藩藩主阿部正恒(まさたけ)に嫁ぎ、その子孫が続いています。明治から昭和時代を生きた第11代阿部家当主阿部正直は理学博士として著名で、富士山を中心とした雲の研究を行い、のちにその研究結果は飛行機事故の原因追求にも役立てられました。

1974年に生まれた、雅楽頭系酒井家宗家29代目の酒井忠輝も阿部正弘の血を引いています。馬術の選手としても知られるオーストラリアの実業家です。

阿部正弘の功績

功績1「ペリー来航に対し日本人としての対処方法を考える」

海軍創設に携わった勝海舟に対し、阿部正弘は藩や幕府のためではなく日本の将来のために動くよう話したという。

阿部正弘の最大の功績は、藩や幕府といった概念から解き放ち、この国に住む人は皆日本人であるという意識を芽生えさせたことでしょう。列強の船が次々と押し寄せる中、この国を守るためには皆で一丸となって立ち向かう以外に方法はないと考え、正弘はあらゆる立場の人間の意見を求めました。これは日本史の上でも新しい時代へと移り変わる大きな転換点の一つと言えます。

1854年にペリーが下田に再度来訪した時の様子

ペリー来航の折には時間的制約もあり、正弘が考えうる最上の選択として開港許可、通商不可という内容の日米和親条約を結びましたが、亡くなる直前には交易によって富国強兵を目指すという意思を示していました。これは明治政府の方針にも通じる考え方であり、正弘がもし長生きしていたら、新政府でも活躍したのではないかと思わせられます。

功績2「安政の改革を行う」

島津斉彬は阿部正弘の早すぎる死をいたく悲しみ、天下のために惜しいことをしたと述べた。

ペリー来航を受けて、阿部正弘は安政の改革を行います。まず公議を尊重しようと、有能な旗本を登用し、有力大名や朝廷の協力を得て挙国体制を整えます。朝廷にペリー来航の報告をする、島津斉彬など外様大名の意見を聞くなど、従来の江戸幕府の国政運営とは全く違う形を整えました。

現在の東京大学の前身の一部は洋学所(蕃書調所)へと遡ることができる。

そして、列強への対応力を養うため、西洋技術を取り入れます。軍事科学の導入のために洋学所(のちの蕃書調所)を設立し、一般人も入学できるようにしました。さらに武家諸法度で禁止していた大船建造の禁を解き、海軍創設に向けて動き出します。長崎に海軍伝習所を設け、勝海舟や榎本武揚がここで育ちました。

現在、第三台場は「お台場海浜公園」の一部として一般に開放されている。

また、江戸湾の防御のために、品川沖に砲台(台場)を作りました。この洋式砲台設置を命じられた江川太郎左衛門(英龍)は代官をしている伊豆韮山に反射炉を築造し、大砲の鋳造を目指しました。正弘は若くして亡くなりましたが、安政の改革により新しい時代を担う若者たちを育てる土壌を作り上げたのです。

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