戊辰戦争とは?原因や流れ、主要人物をわかりやすく解説【年表付き】


「戊辰戦争ってどんな戦争だったの?」
「戦いが多すぎてよくわからないな…」
「どうしてこの戦争は起きてしまったの?」

戊辰戦争とは、明治新政府を樹立しようとする薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍による内戦です。1868年1月にはじまり1869年6月に終結しました。内戦のはじまった年(慶應4年=明治元年)の干支が「戊辰」であったため戊辰戦争と名づけられています。

今回は戊辰戦争について、戦争に至った原因と背景、有名な戦いを明らかにし、さらに歴史に埋もれた悲劇や戊辰戦争を扱った作品について解説したいと思います。※なお、記事中の日付は旧歴に従っています。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

戊辰戦争とはどんな戦争だったのか?

戊辰戦争をもっとも象徴する会津若松城の戦い

戊辰戦争
戦争鳥羽伏見の戦い、上野戦争、
北越戦争、会津戦争、函館戦争
年月1868年1月4日~1869年5月18日
交戦戦力新政府軍旧幕府軍
薩摩藩、
長州藩、
土佐藩、
佐賀藩、
その他新政府方
諸藩
奥羽越列藩同盟、
蝦夷共和国、
幕府陸軍、
幕府海軍、
その他幕府方
諸藩
死者数約8420人
(新政府側3550人、
旧幕府側4690人)
結果新政府軍の勝利、
旧幕府勢力は完全に解体

戊辰戦争の流れを簡単に解説すると

薩長同盟の約定書、これより両藩が新政府軍の中核となってゆく

はじめは劣勢だった新政府軍

圧倒的勝利をおさめた新政府軍ですが、鳥羽伏見の戦いにおいては戦力5000しかなく、旧幕府軍の1万5000に対してあきらかに劣勢でした。それもそのはずで、新政府軍といえど当初は薩摩藩、長州藩に土佐藩を加えた三藩の連合軍に過ぎなかったのです。

味方から援軍を求められた西郷隆盛は援軍などないことを伝えた上で「皆、死せ。おいも死す」と応えたと伝わっています。しかし、新政府軍が「錦の御旗」を掲げると戦況が一変。賊軍になることをおそれた藩が新政府軍に味方をするようになり、逆転勝利をおさめます。

江戸城開城と会津の戦い

徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜

戊辰戦争最大の山場は江戸城開城と会津戦争です。新政府軍の西郷隆盛と幕臣の勝海舟が会談して無血開城にみちびいた話は有名ですね。おかげで江戸の町は火の海にならずにすみました。本当は徳川慶喜を討ち時代の変化を示したかった新政府軍。しかし、絶対恭順をつらぬく慶喜をそれだけの罪に問う理由がありませんでした。

その身代わりとなったのが会津藩です。会津藩主の松平容保は京都守護職をつとめ、新選組を配下に置き、長州や土佐の浪士を取締りました。新政府軍の恨みを一身に背負ってしまった会津藩は、恭順を願い出ますが却下されてしまいます。追い込まれた会津藩は東北諸藩と「奥羽越列藩同盟」を結成して抗戦、最後はろう城の末に敗れ去りました。

最終決戦の地は函館

奥羽越列藩同盟が敗退し、のこる幕府方勢力はさらに北の蝦夷地へと逃れます。拠り所となったのが、函館に築かれた日本初の西洋式城郭であった五稜郭。戊辰戦争最後の激戦に、新選組など幕府方も抵抗を見せますが、最後は総裁の榎本武揚が降伏して幕を閉じました。

戊辰戦争が起きるまでの背景

長州征討により失墜する幕府権力

第二次長州征討

幕末、幕府がその権力を失墜させるきっかけとなったのが長州征討です。池田屋事件、禁門の変、下関戦争と大きなダメージを受けた長州藩に対し、幕府はさらに追い討ちをかけようと1864年と1866年の二度にわたり長州征討に乗り出します。しかし、第二次長州征討では幕府軍は大敗。幕府の権力は失墜してしまいました。

大政奉還で逃げ切りをねらった徳川慶喜

大政奉還が歴史の流れを一気に変える

徳川慶喜が将軍として最後に行った政治工作が大政奉還です。いったん政治を朝廷に返し、その上で朝廷の権威にもとづく新政権を主導すれば、攘夷派の追撃から逃げきれる--。そう考えた幕府は土佐藩の進言を受けて大政奉還を行います。一方、薩摩藩・長州藩は慶喜に押さえつけられた四侯会議の失敗からも、徳川勢力を完全に除くため武力倒幕を計画しつつありました。

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戊辰戦争の原因は?

戊辰戦争の原因は、大政奉還のあと権力を奪われた旧幕府軍が新政府に対して反発を強めたことです。具体的には王政復古での徳川家処分とこれにつづく薩摩藩邸焼き討ち事件が原因となり、新政府を担う薩摩・長州と幕府の緊張はピークに達しました。

王政復古と徳川家処分

明治天皇(奥)の御前で激論を交わす岩倉具視と山内容堂

1867年10月14日、徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を上奏します。これに対し朝廷は徳川慶喜の処遇を決めるため会議(小御所会議)を召集し、12月9日には王政復古の大号令を発します。徳川慶喜に対しては、役職を辞任することや領土を返上することを命じました。ただ、新政府内でも山内容堂、松平春嶽は慶喜を擁護します。討幕派はこの情勢に危機感をもちました。

薩摩藩邸焼き討ち事件

焼き討ちされた薩摩藩邸

1867年12月25日には、江戸の薩摩藩邸が幕府方によって襲撃されるという事件が発生します。武力倒幕のきっかけがほしい薩摩藩は幕府方を挑発しようと放火や強盗をくり返し、江戸市中の警護にあたっていた庄内藩の屯所を襲撃。これに対し老中・稲葉正邦が薩摩藩邸の襲撃を命じています。この事件は戊辰戦争の大きな火ダネとなりました。

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