三国志演義とはどんな物語?成立からあらすじ、三国志との違いも紹介

「三国志演義」と「三国志」の違いは?

今回のテーマである三国志演義と、そのもととなった「三国志」にはいくつかの大きな違いがあります。すべてを列挙するととても収まりきらないので、今回は、主な違い3つをご紹介します。

成立年代が違う

三国時代の勢力図

まず一番に違うのは、成立年代です。先にできたのは「三国志」の方で、蜀の家臣であった陳寿(ちんじゅ)によって書かれました。正確な成立年代は不明ですが、西暦280年以降には完成していたと言われています。

この「三国志」は、1冊の本ではありません。それぞれの国ごとの書かれた「魏史」「呉史」、そして「蜀史」の3冊をまとめて「三国志」と呼んでいるに過ぎないのです。このうち、「魏史」の当時の日本について書いてあるのが「倭人伝」。そう、卑弥呼率いる邪馬台国の記事が書かれている書物なのです。

一方の三国志演義の方は、それから約1000年以上経った元の時代に、羅貫中の手によって書かれました。当時の時代を生きた陳寿の手によるものと、1000年後の羅貫中の手によるものの違いがあるのです。

「小説」か「歴史書」かが違う

三国志演義の古書は今でも少ないながら流通している

2つ目の違いは、読み物としての違いです。三国志演義が「小説」なのに対して、三国志はれっきとした「歴史書」なのです。

先にできた三国志は、その時代を彩った3国の成立から滅亡までを「事実として」書いてあります。そのため、あらすじでお話したようなドラマティックなものではなく、内容は非常に味気ないものになっています。正統派の歴史書なので、この点はある意味仕方ありません。

しかし、三国志をもとに作られた三国志演義の方は、小説と言うだけあって、心理描写や感情表現、人間関係がこれでもかと言うほど盛り込まれています。もちろん、内容の根幹には歴史書としての三国志があるのですが、娯楽的な読み物としても十分な面白さを持っているのです。

登場人物が違う

実在しないことが分かっている絶世の美女とされた女性、貂蝉

3つ目の大きな違いは、登場人物が若干異なる点です。三国志よりも、三国志演義のほうが登場人物が多いのです。

例えば、漢王朝の実権を一時的に握った董卓と、その養子である呂布(りょふ)の関係を壊す原因となった美女、貂蝉(ちょうせん)がそれです。彼女に関しては、モデルとなった人物はいるものの、「貂蝉」という名前は三国志の中には一度も出てきません。小説である三国志演義を、より面白くするために羅貫中が作り上げた架空の人物なのでしょう。

このほか、元黄巾賊で蜀の忠臣である周倉(しゅうそう)、蜀の武将であり現在は神と崇められる関羽の養子、関索(かんさく)も架空の人物であることがわかっています。しかし、彼らもまた、三国志演義をドラマティックにしてくれる重要な人物なのです。

三国志演義に出てくる名言やことわざ

三国志演義には、さまざまな名言や、現代に続くことわざが数多く収録されています。中には「え、これも?」というものもあるでしょう。ここでは、数ある三国志演義の名言・ことわざの中から、特に有名なものを5つ、紹介します。

兵は神速を尊ぶ

「兵は神速を尊(たっと)ぶ」といったとされる曹操の参謀、荀彧

少し詳しい方であれば、このことわざは「孫子」が発祥ではないかと思う人もいるでしょう。しかし、それは曹操が幹部教育のテキストとして「孫子」に後年書き足したもので、「兵は神速を尊ぶ」が初めて使われたのは三国志演義の中なのです。

曹操の忠臣であった軍師、荀彧(じゅんいく)が進言したのが始まりと言われています。この言葉を気に入った曹操が、テキストとしての「孫子」作成の際に採用したのではないでしょうか。

三顧の礼

三顧の礼を描いたもの

劉備が諸葛亮を召し抱えるときのエピソードが由来のことわざです。軍師を必要としていた劉備は、天才の名高い諸葛亮を迎えるため、彼の家を3度訪れ、3度目にしてようやく対面できたというものです。しかも、その3度目も、劉備は昼寝していた諸葛亮が起きるのをずっと待っていたというのですから驚きです。

ここから、人に礼を尽くして、自分のチームや組織に人を迎え入れることの意味で使われる言葉となりました。

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