正岡子規とはどんな人?生涯年表まとめ【代表作や死因、漱石との関係も紹介】

正岡子規(まさおかしき)は、明治時代の文学者です。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句や「病床六尺」という随筆などが有名ですね。

子規は俳人でありながら歌人でもあり、また国文学研究者でもありました。俳句や短歌の世界を革新し、「新しい日本語」の創出にも力を入れました。日本文学の世界を縦横無尽に活躍した文学者といえます。

正岡子規
出典:Wikipedia

とはいえ、正岡子規は34歳で亡くなるまでの7年間、ほとんど寝たきりの状態で仕事をしていました。最後の随筆「病床六尺」には、自身の提唱した「写生」を使って病床での出来事が淡々と、しかし明るく描かれています。

病床にありながら文学の世界を縦横無尽に活躍した子規。彼の34年の生涯は、苦しいながらもとても濃いものでした。この記事では、自分でも短歌や俳句を作る筆者が正岡子規の功績や名言、その生涯をご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

正岡子規とはどんな人物か

名前正岡子規
(本名:常規)
誕生日1867年10月14日
没日1902年9月19日
(享年34歳)
生地伊予国温泉郡藤原新町
没地東京市下谷区上根岸
配偶者なし
埋葬場所東京都北区・大龍寺

正岡子規の生涯をハイライト

1883年、上京時の写真。一番右が正岡子規
出典:趣味時間

正岡子規は1867年10月14日、伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)に生まれました。気が弱くて、周りの子供からいじめられやすい子供だったといいます。13歳で松山中学に入学し、仲間と漢詩に熱中しました。

政治家になりたくて16歳で上京、17歳のときに東大予備門に入学します。この東大予備門で出会ったのが生涯の友・夏目漱石です。漱石と交流を深め始めたころ、子規は初めて喀血し結核と診断されます。

23歳で文科大学(現在の東京大学文学部)に入学。哲学科に入学したのですが、すぐに国文学科に転科し文学者を志すようになりました。在学中にジャーナリスト・陸羯南(くがかつなん)が社長を務める日本新聞社に入社し、新聞「日本」を基盤に俳句革新を始めました。

1892年、箱根旅行での正岡子規
出典:Tenki.jp

1894年に日清戦争が起こると、子規は従軍記者として清国に渡りました。けれども終戦後、帰国中に第喀血を起こし重体に陥ります。故郷の松山に帰り、そのころ松山中学で教師をしていた夏目漱石の家に居候しました。

東京に帰った後、子規は脊椎の結核である「脊椎カリエス」と診断されます。痛みに耐えながら文学活動は続け、句会や歌会を催したり、文芸誌「ホトトギス」に全面協力したりしています。俳句の革新に取り組みながら、「歌よみに与ふる書」では短歌にも一石を投じています。

病床では、「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病床六尺」などの随筆も執筆しました。特に「病床六尺」は、亡くなる2日前まで新聞「日本」で連載しています。1902年9月19日、子規は34歳の若さで亡くなりました。

予備校在学中に夏目漱石と出会う

子規が亡くなるまで交流を続けた夏目漱石
出典:Wikipedia

正岡子規と夏目漱石は1889年、東大予備門在学中に出会いました。2人は共通の趣味である寄席の話から親しくなったといいます。その頃に子規が書いた「七艸集(しちそうしゅう)」に漱石が批評を寄せるなど、2人は文学上の同志でありよきライバルでもありました。

漱石が愛媛・松山中学に赴任していたときに住んでいた「愚陀仏庵」には、日清戦争に従軍記者として赴いた後の子規がおよそ50日間ほど同居しています。子規は帰国中に喀血を起こして重病人となっていましたが、愚陀仏庵では松山在住の俳人たちと句会を催すなどしています。漱石もこの頃から俳句を本格的に始めました。

1900年8月が2人の別れとなりました。イギリス留学を控えた漱石が、もうあまり起き上がることもできなくなっていた子規を訪れたときです。漱石がイギリス滞在中も2人は文通を続けていましたが、1902年9月に子規は亡くなりました。

漱石は帰国後、子規が編集に力を入れていた文芸誌「ホトトギス」でデビュー作「吾輩は猫である」を連載しました。漱石の小説「三四郎」にも、子規がちらりと登場します。2人の文豪は固い絆で結ばれていたのでしょう。

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野球の殿堂入りを果たしている子規

「打者」「死球」などの日本語を作ったのも子規
出典:デイリー新潮

子規は、松山から上京後の学生時代に野球と出会いました。その頃アメリカから伝来したばかりだった野球に子規は熱中し、キャッチャーとして活躍しています。現在でも使われている「打者」「走者」「死球」などの用語を翻訳したのも子規です。

さらに子規は、幼名の「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」という号も自分につけています。短歌にも次のように野球を詠み込みました。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

死因は結核

1898年、病床で仕事をする子規
出典:産経ニュース

正岡子規は結核で亡くなりました。初めて喀血したのが22歳ごろなので、この頃には結核にかかっていたと考えられます。結核菌は脊椎に転移し、30歳のときには「脊椎カリエス」と診断されました。

亡くなるまでのおよそ7年間を病床で過ごした子規ですが、文学への情熱や好奇心は衰えませんでした。布団の中で筆をとり、原稿を書いて「墨汁一滴」「病床六尺」などを新聞「日本」に連載しました。また、友人・中村不折からもらった絵具を使って、庭の草花や果物を写生した「草花帖」「菓物帖」も遺しています。

正岡子規の子孫

正岡子規研究所所長の正岡明さんは子規の子孫
出典:正岡子規研究所

子規は34年の生涯を独身で通したため、子供もいません。子規の遺した原稿などは、妹・律が管理しました。律は2度結婚したのですが離婚していて、正岡家に戻って子規没後の家を守りました。

律には子供がいなかったため、叔父・加藤拓川の息子(つまり子規と律のいとこ)を養子にもらっています。現在、正岡子規研究所を主宰している正岡明さんはこの養子の息子で、律の孫にあたります。明さんは樹木医としても活躍していて、子規にちなんだ庭を造園したこともあるそうです。

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