木曽義仲(源義仲)とはどんな人?生涯・年表まとめ【彼の最期や妻、子孫も紹介】

「木曽義仲ってどんな人で何をした?」
「木曽義仲と巴御前の関係は?」
「木曽義仲の最期は??」

このような疑問を持つ方もいるでしょう。木曽義仲とは平安時代末期に活躍した武将です。平家から源氏へ時代の転換点となる戦いの中で活躍し、特に平家の大軍を少数で打ち破った俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが有名です。この戦いをきっかけに、勝負の天秤は源氏に大きく傾きます。

木曽義仲の肖像
出典:Wikipedia

また、木曽義仲は女武将の巴御前が仕えた主君でもあります。そのような激動の時代に華々しい活躍をした木曽義仲ですが、現在の知名度は残念ながらそれほど高くなく、それどころか礼儀を知らない乱暴狼藉者と評されることもありました。

そこで、今回は木曽義仲の生涯や功績、彼の最期、そして巴御前との関係について紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

木曽義仲とはどんな人物か

名前木曽義仲(源義仲)
誕生日1154年(久寿元年)
没日1184年3月4日(寿永3年1月20日)
生地武蔵国の大蔵館
(現在の埼玉県比企郡嵐山町)
没地近江国粟津(現在の滋賀県大津市)
配偶者藤原伊子
埋葬場所朝日山義仲寺(滋賀県大津市馬場)

木曽義仲の生涯をハイライト

木曽義仲の銅像
出典:一般社団法人嵐山町観光協会

木曽義仲は平安時代末期の武将で源義賢の次男として武蔵国で生まれました。義仲はあの鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟にあたります。

しかし、2歳のときに父親が殺され、父の味方だった者たちの手を借りて、義仲は信濃国木曽谷(現在の長野県)へ逃れます。木曽の豪族である中原兼遠の元で育ち、木曽の名を名乗るようになりました。

木曽義仲は27歳のときに皇族の呼びかけもあり、平家打倒のため挙兵します。家臣の巴御前と共に、俱利伽羅峠の戦いで平家の大軍を打ち破る大活躍で入京を果たしました。

しかし、その後は当時の天皇と後継者問題で対立し、源頼朝が命じた源義経と範頼が率いる軍に粟津の戦いで敗北し、31歳の若さで人生に幕を下ろします。

怒りっぽいが豪快で優しい性格だった

怒りっぽくも情に厚い性格

木曽義仲は怒りっぽいところもあるが、豪快で優しい性格だったと言われています。俱利伽羅峠の戦いで平家を打ち破り、入京するにあたって義仲に最後に立ちはだかったのが比叡山延暦寺でした。

彼は比叡山に対して、源氏に味方しなければ、容赦なく攻め滅ぼすという最後通牒を突き付けました。これには義仲の怒りっぽい面が現れていると思います。一方で命の恩人の死に涙したり、自身の最期には巴御前が主君に殉じようとしますが、逃げて生きるようよう促すなど、優しい一面も持ち合わせています。

このような短気という欠点を持ちながらも、優しく魅力あふれる木曽義仲であったからこそ、彼を慕う家臣たちは絶望的な状況でも彼を裏切らず、戦いの中で散っていったのかもしれません。

家臣たちからよく慕われていた

木曽義仲の人物相関図
出典:富山県

木曽義仲は天皇や公家の人々とはその性格から対立しがちで、結果的には自身の破滅を招くことになります。しかし、一方で家臣たちから慕われており、巴御前の他にも、木曽義仲四天王と呼ばれた今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠の4人は最後まで義仲に付き従い、忠誠を尽くしました。

特に、今井兼平と樋口兼光は義仲が木曽に落ち延びた際、育ての親となった中原兼遠の息子であり、義仲は彼らを信頼し、重要な場面で2人を起用します。また、源頼朝・義経とは従兄弟の関係で、最終的には対立しますが、父親を頼朝の兄に殺されてもなお、平家打倒のために当初は頼朝との衝突を避けるなど合理的な一面も持ち合わせています。

源頼朝とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や性格、家系図も紹介】

そのような人情味あふれる人柄でありながらも、武将として私情を挟まない合理的な判断を下す義仲を家臣たちは慕っていたのかも知れません。

1 2 3 4

コメントを残す