徳川秀忠とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因も解説】

1616年 – 37歳「家康の死去」

大御所家康が他界

江戸幕府最初の武将 家康の死去

秀忠が家康の発病を聞いたのは、1月22日でした。23日には側近の青山忠俊を見舞いに使わし、自身も2月1日、江戸を立って駿府に向かっています。家康は4月17日に他界しますが、秀忠はずっと駿府に留まっていました。

家康の死期が近い頃の秀忠とのエピソードが史料に残っています。家康が、自分が死んだら天下がどうなると思うか秀忠に尋ねると、秀忠が、天下は乱れるでしょうと答えます。家康はその秀忠の答えに満足していた様子だったというのです。

命尽きそうな人に声をかけるのであれば、普通は安心させるような言葉をかけるのでしょうが、家康としては、秀忠が常に危機感を持って政権運営にあたる姿勢を持っていると確認できたのが嬉しかったと思われます。

家康の遺骸は久能山に移され、秀忠は4月22日に久能山の神廟に詣でた後、24日に駿府を発ちました。

家康の神号

家康が他界して、秀忠の最初の仕事となったのは、家康の神号をどうするかという問題でした。

議論が重ねられましたが、最終的には秀忠が「東照大権現」とするように命じます。後水尾天皇も、秀忠の意向を尊重したため、全て将軍である秀忠優位の形で進められました。

千姫の再婚

千姫

大坂城から助け出された千姫は、まだ19歳でした。秀忠は千姫を伊勢桑名藩主、本多忠政の嫡子である本多忠刻に輿入れさせました。

この千姫の再婚にあたっては、俗に千姫事件と呼ばれる出来事が起こります。

千姫が大坂城から脱出する際に助けたのは坂崎出羽守直盛でした。千姫を公家に再嫁させたいと考えていた秀忠は、公家に顔の広い坂崎出羽守に仲介を頼み、輿入れが決まります。しかし千姫自身が公家に嫁ぐことを嫌がったため、本多忠刻に嫁ぐことになったのです。

この事態に怒ったのが坂崎出羽守でした。それなら千姫を嫁入り行列から奪って公家の元に連れて行こうと考えます。結局この計画は秀忠に伝わってしまい、坂崎出羽守は自害、坂崎家は改易となりました。

忠輝に対する処断

松平忠輝

家康の他界によって秀忠がまず手をつけたのは、実弟忠輝の処分でした。松平忠輝は、家康の六男です。伊達政宗の長女、五郎八姫を正室に迎えていました。

忠輝については、素行の悪さや義父伊達政宗との幕府転覆の密議など、真偽はともあれいろいろな噂が取りざたされています。しかし忠輝が処分される最大の理由となったのは、大坂夏の陣での失態でした。

忠輝は、真田幸村隊と戦っていた伊達政宗の軍勢が苦戦しているのを見つつも援護しなかったのです。

政宗としては、家康の息子である忠輝を危険な目にあわすわけにはいかないという思いから、わざと出兵させなかったのかもしれないですが、秀忠は弁明の機会を与えませんでした。

「大坂夏の陣図屏風」

忠輝は家康の見舞いにも駆けつけるものの、秀忠が面会を許しませんでした。忠輝に謀反の噂があったからです。謀反は噂でしたが、大坂夏の陣の問題で謹慎処分を受けていた忠輝が、家康に不満を持っていたことは事実だったと考えられます。

家康の死後、秀忠は忠輝の所領没収、改易、そして伊勢国朝熊に流罪としました。忠輝自身に問題があったことはもちろんですが、秀忠が二代目将軍として、徳川幕府の安定を最優先とし、たとえ身内でも問題があれば厳しく対処することを示す事件でもありました。

1619年 – 40歳「御三家の成立」

御三家の成立

徳川頼宣

家康は尾張徳川家と水戸徳川家を創設していましたが、秀忠は家康の第十子であった頼宣を和歌山藩に封じ、紀伊徳川家としました。家康は子供達に、兄秀忠によく仕えるよう遺言したと言われています。

御三家は、徳川宗家存続のために創設されたと言われていますが、実際に7代将軍家継で宗家は断絶したため、御三家から将軍が出されました。万が一を考えた家康や秀忠に、先見の明があったと言えるでしょう。

福島正則の改易

福島正則

家康ができなかった秀忠独自の政策として、徳川が天下を取る上で世話になった大名の取り潰しがあります。その代表格が福島正則でした。

福島正則はもともと秀吉子飼いの武将でした。豊臣に対して恩義を感じるものの、石田三成には従えず、関ヶ原の戦いでは東軍に味方しました。

しかしあくまで秀頼には忠誠を誓っていたので、江戸幕府が開かれてのちも秀頼が最優先と考える福島正則は、徳川にとって危険人物であったのです。

1617年、豪雨のため広島城が被災しました。福島正則は城の修復が必要と考えます。1615年に定められた武家諸法度にて、城の修復は必ず幕府に届け出てから行うように決められていました。

広島城

福島正則は修復を申し出ていたのに幕閣に握りつぶされたとか、許可がなかなか下りなかったので無断で修理したとか、いろいろ言われていますが、結局、正則は城の修復を行った罪で武家諸法度違反に問われたのは事実です。

福島正則は改易処分を受け、出家します。

この事件は、もし家康が存命中であったなら、改易処分のような大事にはならなかったのではないかと言われています。なぜなら、福島正則自身が、家康になら弁明もするけれども、秀忠には何を言っても意味がないといった発言をしたと記録にあるからです。

福島正則の発言は、家康との関係が、利害関係を超えた濃いものであったからかもしれませんが、逆に言うと、私情も挟むことがない秀忠だったからできた処断でもありました。そして家康自身もそれを望んでいたように思います。

大坂の直轄化

福島正則の改易を受けて、正則の旧領を中心に大名の転封がなされ、大坂は幕府の直轄になりました。

大坂城を中心に、徳川家ゆかりの大名たちを配置し、西国における幕府の軍事拠点となります。もちろん軍事的な意味だけではなく、大阪の経済力を幕府が握るという意義もありました。

9月には、秀忠は新たな大坂城の設計も指示しました。徳川家の威信にかけ、秀吉が築いた大坂城よりも大きいものを目指したようです。最近の発掘調査からは、秀吉が建てた大坂城を覆い隠すように土を盛り上げ、江戸時代の大坂城が築かれたことがわかっています。

1620年 – 41歳「和子の入内」

徳川和子

禁中並公家諸法度という法からもわかる通り、家康と秀忠は、朝廷対策に力を入れていました。東福門院和子の入内も、そのための一手であったと考えられます。

武家の娘が入内するのは、平清盛が徳子を高倉天皇に輿入れさせて以来でした。実に450年ぶりです。それを思うと、和子を入内させることで、徳川家が朝廷にも影響を与えるほど権力があることを世間にアピールできるという思惑があったのではないでしょうか。

和子の入内は家康存命中から話がありましたが、和子自身の成長を待つ必要があったこと、そして豊臣家を滅ぼして江戸幕府が盤石な体制になりつつあったこのタイミングが、世間に徳川の威信も示せる一番良い時であろうと考えたのでしょう。

立花宗茂の所領復帰

立花宗茂

秀忠は大名の取り潰しも多く行いましたが、逆に取り立てた大名もいました。立花宗茂です。関ヶ原の戦いで西軍に属して改易となり、浪人をしていましたが、秀忠は陸奥棚倉で一万石を与えた後、1620年には旧領の柳川で大名に復帰させました。

この処遇は立花宗茂の、義侠心に溢れ、清廉潔白な人柄に秀忠が惚れ込んだためとも言われています。今でも戦国武将の中で大変人気の高い立花宗茂ですが、存命中も秀吉を始め家康や加藤清正など多くの武将たちから評判の高かった武将だったようです。

1622年 – 43歳「元和大殉教」

元和大殉教

キリスト教への規制が始まる

戦国時代から江戸時代初期にかけては、キリスト教の布教の背景に複雑な事情が絡み合っているせいで、ややこしいものになっていました。

江戸幕府は当初キリスト教を黙認していました。しかし、徐々にキリスト教禁止を明確に示すようになります。

理由の一つとして、キリスト教布教にあまり熱心ではないオランダが貿易に参入するようになり、幕府がキリスト教布教と貿易を分けて考えるようになったためです。

スペインやポルトガルはキリスト教の布教にも力を入れていたので、幕府は徐々にスペインとポルトガルを遠ざけるようになります。

東南アジアのための貿易拠点とする目的があった

この事態の裏には、オランダの思惑もあります。オランダが当初関心を持っていたのは、日本との貿易品よりも、東南アジア地域で得られる香料でした。そのための寄港地として日本は利用されていました。

東南アジアでオランダは、イスパニア勢力との抗争を続けていました。1619年にはイギリスとの間でイスパニア勢力を駆逐するための協定を結び、防御艦隊を編成します。平戸を母港としたオランダとイギリスの艦隊は、ポルトガルやスペイン、中国の船を拿捕し貿易品を略奪していました。

この関係性から、オランダは幕府に近づき、スペインやポルトガルの中傷をしたと言われています。スペインやポルトガルが、キリスト教布教で日本を侵略する企みがあると伝えたというのです。

「大坂夏の陣図屏風」

また、時期的な問題として、大坂の陣が起こっています。禁教令に異を唱える者たちが、幕府に対する反感から、大坂城に集まって豊臣側につくことも幕府は恐れていました。そのため、布教の主軸となる宣教師の摘発に重点を置いて動いています。

秀忠としては、キリスト教信徒が信仰のために団結して運動を起こすことも危惧していたと思います。江戸幕府の基盤作りを進めている時期でしたから、警戒するのはある意味当然のことです。

元和大殉教図

こういった流れの延長線上で起きたのが、元和の大殉教でした。

1620年にオランダとイギリスの防御艦隊が捕まえてきた外国人2人が、2年に及ぶ拷問の末に宣教師であることを白状します。7月、宣教師が乗っていた船にいた水夫や商人を斬首しました。

そして8月には、これまで捕らわれていた宣教師とその宿主、家族が処刑されます。合計55人の殉教でした。

この事件は国内はもちろん、海外にも大々的に報告がなされました。そういった事情と幕府の取り締まり強化の結果、宣教師の密入国はほとんどなくなります。秀忠の、キリスト教に対する断固とした姿勢がはっきり見て取れる事件です。

有力外様大名の処分

福島正則の改易でわかるように、秀忠は政権強化のために大名の取り潰しを積極的に行っていました。中でも有力外様大名であった出羽山形藩五十七万石最上義俊の改易は、規模の大きいものでした。

最上家といえば、伊達政宗の伯父であった最上義光が有名です。1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄が怪演していましたね。義俊は義光の孫にあたります。

「長谷堂合戦図屏風」より直江兼続を追撃する義光

義光が関ヶ原の戦いの際、上杉封じ込めを行ったことを評価し、家康は戦国時代の最上家の本領をほぼ安堵する形で五十七万石という大大名のまま残していました。秀忠は石高が大きすぎることに危惧していたのでしょう。改易の機会を狙っていたと思います。

改易の理由は、最上義俊の素行の悪さと家中の内紛でした。酒ばかり飲んで政務をおろそかにしている義俊に家臣たちが怒り、義俊の叔父にあたる義忠を家督につけようと画策していたことが幕府に伝わったのです。

秀忠は最上義俊を改易にし、近江三河一万石に格下げしました。秀忠の大名取り潰し、改易処分は合計二十三家にものぼっています。将軍権威を高める効果的な方策であったのでしょう。

本多正純の失脚

秀忠が改易処分を下したのは、外様大名だけではありませんでした。家康の懐刀と言われた本多正信の子、本多正純も改易になっています。

本多正純の失脚は、宇都宮釣り天井事件がきっかけだったと言われています。

秀忠が家康の七回忌で日光に参詣した帰途、宇都宮城に泊まる予定でしたが、宇都宮城主本多正純が秀康を殺そうと、宿泊部屋に仕掛けを作っていると密書が届いたせいで取りやめにしたというのです。

宇都宮城

この事実関係は不明です。ただ、正純は年寄筆頭という幕府政治の中枢にある役職に就き、宇都宮十五万石という禄高も持っていることから、権力を持ちすぎていることを周囲に快く思われていなかったことは想像できます。

加えて、秀忠にも正純を処分したい心情がありました。まず、大久保忠隣の失脚は、本多正信、正純親子にしてやられたという思いがあったでしょう。大久保忠隣は秀忠を側近として支えていた武将でした。しかし秀忠はこの一件にほとんど関われなかったのです。

権力を持ちすぎた本多正純は疎まれていた?

もう一つの可能性として、秀忠は、家光の代における政権運営を考えた際、将軍以上に力を持ちそうな本多正純はいない方が良いと考えたかもしれません。

結局、本多正純は、最上義俊の改易処分に伴い山形城へ出向いた際、突然改易を申し渡されます。十五万石は収公するものの、出羽国由利に五万五千石を与えるというお達しでした。

しかし正純は固辞します。正純は秋田の佐竹義宣に預けられ、横手に配流と決まり、亡くなりました。

1623年 – 44歳「家光が三代将軍となる」

松平忠直の改易

松平忠直

秀忠の三女、勝姫が嫁いでいた松平忠直が改易されたのは、秀忠が将軍職を退く直前のことでした。

松平忠直は六十七万石という徳川一門で最大の大名でした。忠直は大坂夏の陣での戦功もある上、血筋では秀忠の兄、秀康の子供であり、秀忠の娘を正室に迎えているという状況に、胡座をかいていた節があります。

わがままを言っても自分は大丈夫といった驕りから、ちょっとした不満ですぐ文句を言い続け、だんだんと鬱屈した気分になっていったのかもしれません。

酒色に耽る、近習や小姓を手討ちにする、参勤交代では病気だと言い出して途中で帰るなど、常軌を逸した行動が史料には残されています。今でいう鬱状態だった可能性もあります。

事態を重く見た秀忠は、忠直を隠居させ配流にしました。家光への政権移譲の前に忠直を処分しているあたりは、息子家光に対する父秀忠の思いやりのようにも感じられます。家光に引き継いで困らせてしまいそうな要件は、秀忠が対応して決着をつけたのです。

家光が三代将軍に就任

家光へ家督を譲る

5月12日に江戸を発った秀忠は、6月8日に二条城に入ります。7月27日、伏見城で家光が将軍宣下を受けました。家光に将軍職を譲った秀忠は、大御所としてこれ以後の幕府政治に関わることになります。

秀忠はしばらく二条城に留まり、閏8月1日、シャムの使節を引見します。使節が持っていた国書は、シャム国王から日本国王「秀忠」に宛てたものでした。

シャム国王が将軍交代を知らずに秀忠に国書を送っているとはいえ、使節がきた時点で家光が将軍になっているのであれば、家光が返事をしてもおかしくないのですが、返書は秀忠の名で出されています。外交権は大御所秀忠が握っていたということでしょう。

東福門院和子が興子内親王を出産

この年、後水尾天皇に輿入れしていた和子が、第一皇女興子内親王を出産しています。のちの女帝、明正天皇です。

明正天皇

1624年 – 45歳「家光への権利移譲」

秀忠の隠居パフォーマンス

1月23日、秀忠は軍事指揮権の象徴である馬印と旗を家光に譲ります。そして4月29日、秀忠は本丸を出て西の丸へ移ります。表面的には家光に全権を移し、秀忠は隠居するかのように見えました。

1625年 – 46歳「大御所としての秀忠」

秀忠が握る領知宛行権

将軍職は退いた秀忠ですが、家康の大御所時代のように、新将軍に全ての権利を譲ったわけではありませんでした。

7月から12月にかけて譜代大名と旗本を対象に多くの領知朱印状が出されています。これは大名や旗本が新将軍に対して忠誠を誓い、それに対して行われる所領、知行の確認書です。家光への代替わりのタイミングで行われました。

この朱印状を交付したのは家光ではなく秀忠でした。大名や旗本への領知宛行権は、秀忠が掌握していたのです。

1626年 – 47歳「朝廷との良好な関係」

後水尾天皇が二条城へ行幸

後水尾天皇

9月6日から後水尾天皇は二条城へ行幸します。家光が天皇を迎えるために禁裏へ向かい、秀忠は二条城で迎えました。後水尾天皇は10日まで、舞楽や管弦、能楽などを楽しみました。11日、秀忠は太政大臣に任じられています。

この行幸は、徳川に臣従するほとんどの大名が動員されました。これによって世間に徳川の権勢を示したことになります。また、後水尾天皇は和子を中宮としていることも相まって、徳川幕府と朝廷との関係が良好である証ともなりました。

小督の死去

唯一の女性となった小督

秀忠、家光が二条城で後水尾天皇を迎えている最中、江戸で小督が危篤に陥ります。小督の死因は伝わっていないのでわかりませんが、9月15日に他界しています。

小督危篤の知らせが届いても、秀忠も家光も状況的にすぐに江戸に戻ることができませんでした。仕方なく家光は側近や典医を江戸城へ向かわせます。家光の弟忠長は京都から江戸城へ急ぎ戻りましたが、臨終には間に合いませんでした。

小督は家光によって増上寺に埋葬されました。現在は夫秀忠とともに合葬されています。

1629年 – 49歳「紫衣事件」

紫衣事件

事の起こりは1627年7月まで遡ります。後水尾天皇が二条城へ行幸した翌年です。後水尾天皇が幕府に相談もなく僧に紫衣を与えたとして、禁中並公家諸法度違反だと幕府が問題にしました。朝廷より幕府が上位にいることを明示するものでした。

こうした幕府の圧迫に抵抗しようと、1629年11月8日、後水尾天皇は突然譲位します。

明正天皇

実際には、後水尾天皇の譲位問題については、この数年間何度も取りざたされていたことでした。譲位ということは次に誰が即位するかという問題もありました。和子が産んだ親王が次々に夭折してしまったという悲しい事情も重なりました。

紆余曲折ありつつも、秀忠は12月27日、結局後水尾天皇の譲位と和子の産んだ興子内親王の即位を認めました。明正天皇は、奈良時代に即位した称徳天皇以来、859年ぶりの女性天皇でした。

1631年 – 51歳「秀忠が病に倒れる」

忠長事件

徳川忠長

徳川家の恩人や親類までも二代目将軍として厳しい処断を下してきた秀忠でしたが、家光の弟忠長については最後まで処遇を悩んだ様子がわかります。

最終的に秀忠が忠長を蟄居させたのは、1631年5月。小督が他界して5年後のことでした。小督は忠長を幼少の頃は殊の外可愛がっていましたし、忠長自身も母小督を慕っていましたから、小督存命中にはできなかった決断なのかもしれません。

秀忠は、忠長の蟄居を解かないまま、臨終を迎えます。

秀忠の病

晩年は病に苦しむ

秀忠は5月7日以降、目を患っています。そして6月になると微熱が続き下痢が止まらない症状が出始めました。7月17日には病状を公にします。21日に病気平癒祈願を五山に命じました。30日、胸の痛みがはじまります。

9月に朝廷の使者が見舞いに訪れていますが、病状は重くなる一方で、12月半ばには一時重体となりました。

1632年 – 52歳「秀忠死去」

秀忠の臨終

どうにか年は越したものの、正月の大名たちの年賀の挨拶を受けるだけで精一杯という状況でした。

1月23日、危篤。24日、秀忠はついに帰らぬ人となりました。享年五十二。奇しくも先に身罷った小督の享年と同じでした。

徳川秀忠の関連作品

徳川秀忠に関連するおすすめ書籍・本・漫画

葵 ー 徳川三代

NHK大河ドラマの原作です。徳川家康、秀忠、家光の話ですが、ほとんど秀忠が主役と言っていいストーリーです。偉大な家康の息子であり、江戸幕府の形を整えた家光の父でもあるという板挟みの秀忠ですが、ただの繋ぎではなく有能な将軍として描いています。

風雲児たち 2巻

徳川秀忠とお静の方とのロマンスが語られ、秀忠の人間的な部分に親しみが湧く漫画です。秀忠に対して、パッとしない二代目というイメージぐらいしか持ってない人に、ぜひお勧めしたい本です。秀忠に自然と興味が湧くと思います。

徳川秀忠「凡庸な二代目」の功績

NHK大河ドラマの時代考証も担当する歴史学者、小和田哲男氏による著作です。徳川秀忠の生涯を、史料をもとに丹念に紐解いていきます。秀忠に対する歴史的評価を知るのに最適な一冊です。

おすすめ動画

徳川家康没後400年記念 特別展 大関ヶ原展

関ヶ原の戦いに関連した武具や書状を展示していました。実際に武将たちが使っていたものや、書いた文字を見ると、過去の歴史が身近に感じられるものです。徳川秀忠の具足も展示されていました。

PV第3弾「戦国無双〜真田丸〜」

ゲームのイケメンキャラクターで人気のある戦国武将も多いですが、徳川秀忠もその一人。自分が秀忠になったつもりで、合戦に参加したり調略に挑戦したりできるのは楽しいですね。

国宝「三日月宗近」「岡田切吉房」VR

刀剣ブームで大人気となっている国宝の太刀、三日月宗近は、高台院から秀忠に贈られたものと伝わっています。天下五剣のうちの一つで、日本史上最高に美しい刀剣と言われます。ブラウザゲーム「刀剣乱舞ONLINE」の刀剣男子、三日月宗近も人気が高いですね。

おすすめ映画

関ヶ原

司馬遼太郎原作「関ヶ原」の映像化作品です。石田三成から見た関ヶ原の戦いが主軸の映画なので、秀忠はほとんど出てきませんが、関ヶ原の戦いのスケール感や迫力は、この時代を描いた作品の中でも屈指のものです。天下分け目の戦いをリアルに感じられます。

千銃士

徳川秀忠は種子島銃を愛用していたと言われています。このアニメでは、その銃を擬人化したイケメンキャラクター「ヒデタダ」が登場します。趣味が温泉というあたり、秀忠らしい温和な雰囲気を感じますね。

ミュージカル「刀剣乱舞」〜葵咲本紀〜

ゲームから始まった刀剣乱舞ですが、ミュージカル版は2018年に紅白歌合戦にも出場し、世間の認知度が上がりました。「葵咲本紀」では、刀剣男子に加えて人間役として徳川秀忠も登場します。

おすすめドラマ

NHK大河ドラマ 江

賛否両論ある大河ドラマでしたが、江が主役であるが故に、江と秀忠との関係を丁寧に描いていたのが印象的です。秀忠役の向井理は、屈折した青年期の影のある表情に始まり、二代将軍という重責を担う覚悟を決めた表情まで、意思を持った秀忠の成長を好演していました。

NHK大河ドラマ 真田丸

徳川秀忠を星野源が演じて話題になりました。常にみんなに言われ放題、翻弄されてばかりですが、二代目としての貫禄を見せ始める終盤まで、つい応援したくなる秀忠でした。星野源のおかげで、秀忠は皆に愛されるキャラクターになったように思います。

新春ワイド時代劇「影武者 徳川家康」

このドラマでは、影武者の家康と秀忠の対決が描かれます。秀忠を憎々しげに演じたのは山本耕史。こういったヒール役を演じさせると、本当にいい味を出す役者です。家康役の西田敏行を始め、時代劇に慣れた役者が顔を揃えていて、今でも評判の高いドラマです。

関連外部リンク

徳川秀忠についてのまとめ

いかがでしたか?

徳川秀忠は、戦国の世には珍しい真面目で誠実な武将でした。大河ドラマ「真田丸」で秀忠を演じた星野源は、時代劇っぽい喋り方はできるだけしないよう普通に話すようにしたとインタビューで回答。確かに秀忠は、この性格ゆえに周囲から浮くような存在だったと思います。

戦国時代は個の時代ですから、どう考えても秀忠は戦国武将らしくない人です。しかし、家康はそこを秀忠の長所と見ていたのでしょう。

群雄割拠の時代は終わった後安定の時代に必要なのは、今までとは違うタイプの人間でした。秀忠は、時代に必要とされた人間だったのです。

この記事で徳川秀忠に関心を、人生の教訓を持って帰っていただけたなら幸いです。

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