水戸黄門のモデル!徳川光圀とはどんな人?【性格や名言、死因、逸話について紹介】

徳川光圀の略歴年表

1628年
徳川光圀、水戸で誕生

徳川光圀は、寛永5年(1628年)に常陸国水戸藩(現在の茨城県水戸市周辺)で誕生しました。

しかし、兄である徳川頼重も含めて父・徳川頼房にとっては望まない子だったため家臣の家で育てらています。

1634年
次男なのに世継ぎに!?

徳川光圀は後継ぎとして認められ世継ぎとなるための教育を受けてます。

長男である頼重が次男のような扱いをうけ、モヤモヤの取れない徳川光圀は非行に走っていきます。

1657年
大日本史編纂

明暦の大火にショックを受けた徳川光圀は水戸藩を挙げての「大日本史」の編纂を開始します。
1661年
殉死を禁止

父・頼房の遺言により、家臣の殉死を禁じます。
1691年
徳川光圀、隠居する

養子である綱條に家督を譲った徳川光圀は、隠居の地である西山荘(茨城県常陸太田市)での隠居生活を始めます。

1701年
徳川光圀、亡くなる

徳川光圀は、食道がんが原因でこの世を去ります。

徳川光圀の具体年表

1628年 – 1歳「徳川光圀、水戸で誕生」

父の徳川頼房(とくがわよりふさ)

徳川光圀は、寛永5年(1628年)に常陸国水戸藩(現在の茨城県水戸市周辺)で誕生しました。

父は、初代江戸幕府将軍・徳川家康の十一男である徳川頼房(とくがわよりふさ)、母は久子という女性でした。

しかし、徳川光圀が生まれる前、久子は徳川頼房の正式な側室ではありませんでした。このことから、徳川頼房とは三男として誕生はしたものの、兄である徳川頼重も含めて父・徳川頼房にとっては望まない子だったのです。

このことから、幼い頃から家臣である三木家で育てらています。

1633年 – 6歳「次男なのに世継ぎに!?」

小石川後楽園

徳川光圀は、1632年に水戸城に入城を許され、その翌年には後継ぎとして認められるのでした。そして、江戸の小石川邸(現在の小石川後楽園・東京ドーム周辺)に入って、世継ぎとなるための教育を受けていくのです。

しかし、光圀は兄・頼重を差し置いて世継ぎになったことに対して複雑な感情を抱くようになります。長男である頼重が次男のような扱い。

これが、徳川光圀がグレてしまう要因の一つであったとされています。

1645年 – 18歳「徳川光圀、「史記」に感銘を受ける」

グレていた青年時代を過ごしていた徳川光圀は、18歳となったある日、とある書籍と運命の出会いを果たします。それは、司馬遷(しばせん)が書き記した「史記」という書籍でした。

司馬遷

その中の「伯夷伝」を読んだ徳川光圀は、これまでにない感銘を受けます。「伯夷伝」とは、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)という兄弟の、家督を譲りあう話です。

これに感銘を受けた徳川光圀は、これまでの悪行を強く反省し、その生活ぶりを360度変え、すさまじい勢いで勉学に励んだんだそうです。

同じころ、兄の頼重は、讃岐高松(現在の香川県高松市周辺)12万石の大名となっていました。水戸藩の長男にもかかわらず、四国の大名となり、本家の後継ぎに慣れなかった兄の辛い立場を思った徳川光圀は、「兄への償い」について考え始めるのでした。

1657年 – 30歳「明暦の大火と大日本史編纂」

明暦の大火

1657年、歴史の教科書でも取り上げられるくらいの大きな火事が発生します。明暦の大火と名付けられたこの大火事によって、人名だけでなく歴史的に価値のある貴重な資料も多く焼失しました。

これにショックを受けた徳川光圀。何故かというと、徳川光圀を更生させたきっかけである歴史書「史記」も例外ではありませんでした。

徳川光圀が編纂した大日本史

明暦の大火後、徳川光圀は水戸藩を挙げての「大日本史」の編纂を開始したのです。

「大日本史」は、徳川光圀の没後1906年に、第13第水戸藩主の徳川圀之(とくがわくにゆき)の代で完成するのでした。

1661年 – 34歳「水戸藩での殉死を禁止」

兄・頼重への償いについて徳川光圀がたどり着いたのは、「兄の子を養子に貰い、家督を継がせ、水戸藩の血筋を兄に返す」というものでした。

こうしてひそやかに決意を固めた徳川光圀でしたが、父・頼房が水戸城で亡くなります。その時に頼房からの遺言がありました。それは、「家臣を殉死させてはならない」というものです。

殉死の禁止

当時、主君が亡くなるとその部下も後を追うように切腹などで殉死していました。しかし、これを止めるようにと父・頼房から遺言を預かったのです。

徳川光圀は、父・頼房が亡くなったことで腹を切ろうとした家臣のもとへ一人一人訪ね歩き、殉死をしないように禁じたそうです。

兄への償いを実行

そしてついに、兄・頼重への償いを実行に移す時が来ました。

第2代水戸藩主となった徳川光圀は、兄・頼重の息子を養子に欲しい旨、これを断ったら家督相続を断り仏門に入る、と言ったんだとか。

それだけ、徳川光圀の兄に対する償いの決意は固かったのです。

結果、兄・頼重は自分の息子である網條(つなえだ)を養子に出し、第3代水戸藩主に据えることとなったのです。

1665年 – 38歳「徳川光圀、朱舜水を招く」

朱舜水像

徳川光圀は、明(当時の中国)の儒学者、朱舜水を招きます。朱舜水の儒学を元に、徳川光圀は新たな学問である水戸学を発展させていきます。

1684年 – 57歳「徳川光圀、蝦夷地を探検する」

徳川光圀は、この時巨大な船・快風丸を建造し、とある場所へ探検へ向かいます。それは、未開拓の地である蝦夷地(当時の北海道)です。

蝦夷地への探索に乗り出す

三度目の航海で石狩まで到達した徳川光圀ら一行は、蝦夷でしか手に入らないような鮭や熊やラッコ・トドの皮を持って帰還しています。これにより、水戸藩全体で幕末までにかけて、蝦夷地に強い関心を持ったとされています。

ですが、藩主である徳川光圀自身が冒険に関与していたことから、幕府側も文句が言えなかったようで、これ以降の探検は実現することはありませんでした。

1690年 – 63歳「徳川光圀、隠居する」

1690年、徳川光圀は幕府から隠居の許可を得て、正式に兄の息子である綱條が水戸藩主を継ぐことになりました。

江戸から水戸へ帰還した徳川光圀は、しばらく水戸城で過ごしたのち、翌年に隠居の地である西山荘(茨城県常陸太田市)での隠居生活を始めます。

1701年 – 73歳「徳川光圀、亡くなる」

徳川光圀の墓所 瑞龍山

徳川光圀は、食道がんを患っていました。それが原因か、食料不振が目立っていました。そして、1701年に食道がんが原因でこの世を去ります。

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爆笑!ふたりの水戸黄門


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徳川光圀についてのまとめ

徳川光圀について、余すことなくご紹介しました。きっと、時代劇「水戸黄門」でのイメージとはかけ離れたその生涯に、驚きを隠せなかったことでしょう。

かくいう筆者もそのうちのひとりです。

将軍にモノ申せる人物である事は経歴からもわかりますが、ドラマのように諸国漫遊の旅をしていたわけではなく、副将軍という立場上、江戸にいることが多く、参勤交代もなく、さらに水戸に帰るには許可が必要だったというのですから、そのギャップに驚きです。

今回の記事で、徳川光圀のイメージが覆り、さらに奥深く知りたい!という気持ちが出てきたのでしたら、幸いです。

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