ヘンデルの生涯・年表まとめ【音楽性や名言、代表曲についても紹介】

ヘンデルにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「富と成功の代償?ヘンデルは肥満だった?」

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

たっぷりとした二重あごのヘンデルの肖像画は、皆さんもどこかで見たことがあるかと思います。ヘンデルはよく食べる上に美食好きで、お酒も沢山飲んだようです。若い頃から仕事は順調で、生涯独身でしたのでお金も好きなように使えたのでしょう。

若い頃のヘンデルの肖像画は端正な顔立ちの青年でしたが、30歳過ぎ頃から太りはじめ、35歳頃の肖像画はすっかり中年太りをしています。これらの肖像画が現すように、ヘンデルは肥満だったと伝わっています。

肥満のせいもあり病気に苦しめられた

晩年にはオペラの人気低迷や借金、劇場とのトラブルなどのストレスが蓄積し、50歳過ぎ頃に脳卒中で倒れて半身不随になりました。その後オラトリオの成功でヘンデルの人気は復活しますが、健康面では血栓症などの影響による視力障害に悩まされます。

その後もヘンデルは高血圧症や狭心症などの肥満による健康障害に苦しめられましたが、満ち足りていた栄養分のおかげか当時蔓延していた感染症などとは無縁だったようで、74歳まで生きました。不思議なことに当時としては長生きだったようです。

都市伝説・武勇伝2「J.S.バッハとの関係①こんなにも正反対だった?」

「バロック音楽」と聞くと、日本ではJ.S.バッハを思い浮かべる人も多いでしょう。ヘンデルとJ.S.バッハは同い年で、2人とも1685年にドイツで生まれました。同じ国で生まれた同い年の2人ですが、性格や生涯は正反対だったようです。少し面白いので比べてみたいと思います。

ヘンデルバッハ
性格・行動的、屈託がなく明るい、物怖じしない
・躁鬱が激しい一面があった
・厳格で敬虔、真面目
・物静かだが頑固で怒りっぽい一面もあった
家柄父親は公爵付きの外科医、一家に音楽家はいない代々続く辻音楽師の一族
作曲ジャンルオペラ、オラトリオ、オルガン曲などオペラ以外ほぼ全て
来歴・国際派。イタリア留学後、イギリス出張を繰り返し、イギリスに帰化。
・劇場で活躍し、聴衆のためにエンターテインメントのための作品を作曲した
・地元密着主義。生涯ドイツから出なかった
・教会や宮廷からの依頼のために大量の楽曲を作曲した
結婚・生涯独身
・晩年まで浮名を流し、女優などとスキャンダルをおこした
・二度結婚(最初の妻は死別・遺児のために再婚)
・愛妻家でどちらの妻とも夫婦仲は良かった。子だくさんであった
知名度当時世界的に一番有名な音楽家・作曲家息子が有名になったため、そこそこの知名度。地元では教会の偉い先生
ファン貴族から庶民まで幅広い聴衆に人気現代でも演奏家、作曲家にファンが多い

バッハは死後あらゆる作曲家たちに音楽的な天啓を与えたため、日本では「音楽の父」と呼ばれています。また、ヘンデルがバッハに匹敵する巨匠であることを示すためにヘンデルのことを「音楽の母」などと呼ぶこともありますが、これらの呼び方は日本独自の現象であり、実はあまり一般的ではありません。

都市伝説・武勇伝3「J.S.バッハとの関係②不運な共通点も?」

同じ女性に縁談を持ちかけられる

正反対だった2人ですが、降りかかった不運は共通しています。これもまた悲しくも興味深いのでご紹介したいと思います。

まずは若い頃のお話です。2人ともブクステフーデというオルガンの先生に師事し、彼から娘との結婚を持ち掛けられました。当時バッハとヘンデルが若干20歳過ぎくらいなのに対し、ブクステフーデの娘は30歳を超えていたといわれています。

当時68歳と高齢だったブクステフーデは娘のことが気がかりだったようで、娘との結婚の見返りに聖マリア教会のオルガニストという若い2人にとっては破格の地位を交換条件にしたようですが、バッハ、ヘンデルともに、この突然すぎる縁談にはさすがに驚いて逃げ出してしまったようです。

また、2人は性格は正反対でしたが体型はそっくりでした。ヘンデルも太っていましたが、バッハも超、が付くほどの大食漢(一食の摂取カロリーは約2800kcalほど)で、肥満体型だったという噂です。更には2人とも過労気味でストレス要因も多かったのか、高血圧・脳卒中という病歴が共通しているところも何とも言えません。

二人とも晩年は視力を失ってしまった

晩年のバッハは白内障(おそらく糖尿病による症状)に悩み、ジョン・テイラーというイギリス人の医師の手術を受けます。ヘンデルもバッハの手術と同じ年にこのテイラー医師の手術を受けたようですが結果は2人とも大失敗、この手術によって視力を完全に失ってしまいました。

ヘンデルとバッハは、対照的な個性を持ちながらも同じ苦労をしていたようです。更にこの2人は運命のいたずらによって生涯のうち一度も会うことはなく、お互いの音楽に影響を与え合うこともありませんでした。

ヘンデルの簡単年表

1685年
ヘンデル誕生

ヘンデルは神聖ローマ帝国のハレで生まれました。ヘンデルの父は代々の公爵に仕える従僕兼外科医で、息子には法律家になって欲しかったようです。しかしヘンデルは幼い頃より音楽の才能をあらわしており、父が仕えていたヴァイセンフェルス公爵の支援によって音楽教育を受けていました。
1702年
ハレ大学に入学

ヘンデルは父の望み通り法律の勉強をするために進学しますが、音楽への情熱は捨てきれず同時期にハレ大聖堂のオルガニストとしても活動をはじめます。この頃にテレマンという作曲家と知り合い、生涯を通じて親交を深めることになります。
1703年
リューベック、そしてハンブルクへ

ヘンデルは作曲家・オルガン演奏家のブクステフーデにオルガンを習いにリューベックに行き、一時はブクステフーデの後任を目指しますが、ブクステフーデが自らの地位と娘との結婚を交換条件にしたために辞退しました。また同年ヘンデルはハンブルクへに出て初めてのオペラ作品「アルミーラ」を作曲しました。
1706年
イタリア留学

ヘンデルは当時音楽の最先進国であったイタリアに留学しました。ローマではコレッリやドメニコ・スカルラッティなどバロック時代を代表する作曲家達と知り合い、共に切磋琢磨していたようです。
1709年
イタリアでオペラの成功

ヴェネツィアで上演されたオペラ「アグリッピナ」が成功し、20回を超えるロングラン上演を達成しました。イタリアオペラの中心地のひとつであったヴェネツィアで、外国人の作曲家がここまで受け入れられるのは異例だったようです。この成功でヘンデルは一躍ヨーロッパで有名になります。
1710年
ロンドンへ初めての出張

帰国したヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長に命じられますが、ロンドンへの出張中に発表したオペラ「リナルド」がまたしても15回というロングラン上演を達成し大ヒットしました。しかし数年後にロンドンのイタリア・オペラの流行は一時下火になります。
1720年
アカデミー設立

王立音楽アカデミーというオペラの運営会社が貴族たちによって設立され、ヘンデルは中心人物の一人となりました。しかしアカデミーの経営が杜撰だった上に歌手同士のポジション争い、更にはイタリア・オペラの衰退とあって17年後にアカデミーは倒産します。
1737年
アカデミー倒産、病に倒れる

アカデミーが倒産し、同年ヘンデルも脳卒中で倒れてしまいました。1730年代になるとヘンデルのオペラも流行遅れのものとなり、以後ヘンデルがオペラを作曲することはありませんでした。
1741年
オラトリオ作曲家として復活・「メサイア」の大ヒット

オペラの作曲をやめた2年後あたりからヘンデルはオラトリオを精力的に作曲します。今日も「ハレルヤ・コーラス」で有名な「メサイア」がこの年に発表され好評を博しました。
1751年
両目を失明、作曲活動を断念

両目の視力を失ったことにより、ヘンデルがこの年以降に作曲することはありませんでした。しかしその後も演奏活動は続けていたようです。

1759年
ヘンデル没

ジョン・テイラーによる眼科手術に失敗し、73歳と高齢だったヘンデルの体力はその後急激に落ちました。そのまま1759年に74歳で死去、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

ヘンデルの年表

1685年 – 0歳「ヘンデル誕生」

音楽家がいない家系に生まれる

ヘンデルの父親は公爵に仕えており(従僕兼外科医)、また祖父は細工職人で、音楽に関係する仕事をしている人が一人としていない家系でした。当時音楽家が育つ環境としては珍しいものでしたが、他にヘンデルのような家庭に生まれた有名な作曲家は、「椿姫」などのオペラで有名なヴェルディや、映画「アマデウス」に登場するサリエリなどがいます。

バロック時代の副業事情

ヘンデルの父親は公爵に仕える外科医でしたが、副業で理髪師をしていました。また同じ時代の作曲家・ヴィヴァルディはカトリックの司祭を務める傍ら、理髪師の副業をしていたようです。理髪師の仕事は当時定番の副業だったことが伺えますね。

1709年 – 24歳「斬新なオペラ・セリア「アグリッピナ」の大ヒット」

実は反骨精神の強いオペラ作品

アグリッピナの胸像

「アグリッピナ」は2世紀頃のローマを舞台にした皇帝ネロの母親・アグリッピナの権謀術数を描いたドラマで、音楽の格調高さと生々しい人間ドラマとのコントラストが魅力の作品です。ヘンデルは当時イタリア・オペラの中心地であったヴェネツィア上演を成功させ、27回のロングラン・ヒットを記録しました。

オペラ・セリア(英雄もの)でありながら権謀術数を弄する悪女が活躍し、その企みに翻弄される正義のヒーローや可憐なヒロインも実はなかなか腹黒く、皇帝や皇太子は無知で間抜けな人物として描かれました。この斬新な人物描写が物議を醸しながらもヒットの要因だったようです。意外にも若い頃のヘンデルの作品は、「オペラ・セリア」の枠に嵌らない攻めの作品が多いのです。

現代でも比較的上演される作品

この作品はヘンデルのオペラの中では比較的現代でも観ることができるオペラです。カストラート役が皇太子役や皇帝・父役と女性歌手やカウンターテナーに比較的代わりやすいことも関係しているかも知れません。また前衛的な演出を施されることも多く、何かと話題になる作品でもあります。

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