ラクシュミー・バーイーは、かつてインド中部に存在したマラーター同盟の中の小さな王国・ジャーンシー藩王国の王妃です。
世界史上でも希少な「戦場に立って戦った女性」であり、その指揮官としての能力の高さは、敵対したイギリス軍の将軍からも高く評価されるほどだったと伝わります。現在でもインド各地には、ラクシュミーの銅像が数多く建てられており、インド旅行に行く機会などがあれば、おそらく彼女の銅像を一つも見ずに帰ってくることは、まずありえないでしょう。
日本における歴史上では「インド大反乱の指導者の一人」とされ、さほど取り上げられることの無い彼女ですが、2019年に、ゲーム『Fate/Grand Order』にてプレイアブルキャラクター化されたことから、日本での知名度も徐々に高まってきています。
この記事では、そんなラクシュミー・バーイーについて、前述のゲームより名前を知り、そこから史実の彼女について調べたあげくに「そうだ、インド行こう」となっている筆者がまとめさせていただきます。
この記事を書いた人
ラクシュミー・バーイーとはどんな人?
名前 | ラクシュミー・バーイー (幼名:マニカルニカ) |
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誕生日 | 1835年ごろ |
没日 | 1858年6月18日 |
生地 | 不明 |
没地 | インド マディヤ・プラデーシュ州 グワーリヤル県・グワーリヤル市 グワーリヤル城 |
配偶者 | ガンガーダル・ラーオ (1842年~1851年) |
埋葬場所 | 不明 |
異名 | 「インドのジャンヌ・ダルク」 |
ラクシュミー・バーイーの前半生は?
ラクシュミー・バーイーの前半生については、ほとんど記録に残っておらず、正確な部分は分かっていません。生年一つとっても、1835年ごろという説と1828年ごろという説が混在しており、正確なところは謎に包まれています。
出自についても、没落したマラーター貴族の出身だとされ、幼い頃はマラーター同盟の元宰相にあたるバージー・ラーオ2世によって養育、幼いながらに剣術や馬術の才能を持っていたとも言われていますが、その辺りも信ぴょう性のある記録は残っておらず、伝説の域を出ない情報のようです。
一方で、幼名は「マニカルニカ」だったこと。幼い頃に母を亡くし、父によって育てられたため、当時の女性としては珍しく幼い頃から読み書きの教育を受けていたという事は分かっています。
そんなラクシュミーが歴史の表舞台に姿を見せるのは、1842年。ジャーンシー藩王国の王・ガンガーダル・ラーオに嫁いでからでした
ラクシュミー・バーイーの人物像は?
世界史上でも珍しい、戦場に立った女性指揮官であるラクシュミー。そんな彼女はやはりと言うべきか、強いカリスマ性と美貌、そして膨大な知識を持った才女であったと伝わっています。
特にその知識は、現在の基準で見てもかなり上位に位置するほどのものであり、インド大反乱が起こる直前、交渉での和平を申し入れるために、イギリスから派遣された役人へ送った書簡からは、ラクシュミーがインドの歴史や法律のみならず、ヨーロッパ全体の法律や歴史、文化に精通していた事実を読み取ることができます。
更に政治家や指揮官としての能力だけでなく、戦士とのしての能力も一流であったらしく、一度イギリス軍に逮捕された際には、自身の手で護送兵を切り殺して脱出したという逸話も残っています。
正に文武両道。ラクシュミー・バーイーは、美貌と武勇と知性を兼ね備えた、まさに完璧超人のような女性だったのかもしれません。
ラクシュミー・バーイーの評価は?
ラクシュミー・バーイーが、インド各地に銅像を建てられるほどに愛されている人物だというのは、概要の部分に書かせていただいた通りです。しかしラクシュミーに対する高い評価は、実はインド国内からの評価だけに留まりません。むしろインド国外からも、ラクシュミーに対する高評価の声は上がっています。
しかも面白いことに、ラクシュミーに対する国際的な高評価のほとんどは、彼女と敵対していたはずのイギリスから寄せられているのです。
ラクシュミーとたびたび激突することになったイギリス軍の指揮官、ヒュー・ローズは、彼女の守る城を中々落とせない理由について「理由は十分すぎるほど明らかだ。彼らは王妃(ラクシュミー)のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ」と発言。ラクシュミーが戦死した際には、彼女の遺体を火葬して、敵将としてではなく高貴な人物として、礼を尽くした葬儀を挙げたことが記録されています。
他にもイギリス軍の士官から「もっともすぐれた、もっとも勇敢なるもの」と評価されるなど、敵味方を問わずに高い評価を受けているラクシュミー。彼女についての詳細な記録があまり残っていないことが、残念でなりません。
ラクシュミー・バーイーの名言は?
我がジャーンシーは決して放棄しない(メーレー・ジャーンシー・ナヒン・デーンゲー)
ラクシュミー・バーイーは一体何がすごいのか?
すごさ1「「ジャーンシーは放棄しない」揺るがない不屈の精神」
ラクシュミーが生きた当時、インドはイギリスによって植民地化され、様々な不利益を被せられている時期でした。
とりわけ「後継者のいない藩王国は、無条件に東インド会社に併合する」という、いわゆる「失権の原理」と呼ばれる政策は猛威を振るい、ラクシュミーが嫁いだジャーンシー藩王国も、「失権の原理」によって併合が決まってしまいます。
ラクシュミーは病気の夫に代わり、書簡などで藩王国の存続のために尽力をしますが失敗。そしてやってきてしまった併合の当日。城の接収に来た特使に向けて、ラクシュミーは気丈に言い放ったのです。
我がジャーンシーは決して放棄しない
この言葉は、ジャーンシー藩王国を決して手放さないという彼女の不屈の精神がよく表れた言葉として、現在でも良く知られる言葉となっています。
すごさ2「馬に乗り、剣を振るい、銃を撃つ。正しい意味での”戦う女性”」
やはりラクシュミーのすごいところと言えば、戦場に立って自ら戦った女性であるところでしょう。実際インドには、馬にまたがって剣を掲げる彼女の銅像も存在しています。
前述した護送兵を斬り殺しての脱出など、その武勇も折り紙付き。実際インド大反乱の際には、一人だけイギリスとの徹底抗戦を主張して孤立するなど、下手な武人よりも武人気質な部分が見られる記録も残っています。
また、銅像や絵画では民族衣装を着ていることが多い彼女ですが、実際には絹のブラウスと西洋風の乗馬ズボンを着て、いつでも戦闘に出られる格好をしていたとか。下手な男性よりもはるかに男らしい、彼女の勇敢さが窺い知れます。
ラクシュミー・バーイーにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「女神ラクシュミー」とラクシュミー・バーイー
実はヒンドゥー教の奉ずる神の中には、ラクシュミーという女神が存在しています。日本でラクシュミー・バーイーの名を有名にした『Fate/Grand Order』では、その名前の一致がシナリオ中の重要な要素となるのですが、史実のラクシュミーはどうだったのでしょうか?
正確な部分だけを考えるなら「無関係」もしくは「名前の由来」程度としか考えられません。しかしラクシュミー神が司るのは「美・幸運・豊穣・富」。豊かなインドを目指して戦った、美しき女指揮官ラクシュミー・バーイーには、もしかすると女神ラクシュミーの加護が宿っていたのかもしれないと考えるのも、中々に面白い考察ではないでしょうか。
都市伝説・武勇伝2「インドのジャンヌ・ダルク」だけじゃない?ラクシュミーの異名
女性でありながら最前線で侵略者と戦った経歴から、「インドのジャンヌ・ダルク」という異名を持つラクシュミーですが、実は彼女には「インドのブーディカ」という通称も与えられています。
ブーディカとは、ローマ帝国の侵略に立ち向かった、古代ブリタニアの女王のこと。現在のイギリスにもあたる地域を治め、ローマからの侵略に立ち向かったブーディカと、そのイギリスの侵略からインドを守るために戦ったラクシュミー。戦線に立った女戦士という経歴は似ていますが、少々の皮肉を感じざるを得ません。
ラクシュミー・バーイーの生涯歴史年表
1828年or1835年 – ??歳「この世に生を受ける」
ラクシュミー・バーイーの誕生
ラクシュミー・バーイーの出生は記録に残っておらず、正確なことは分かっていません。記録されているのは、幼名の「マニカルニカ」という名前。幼い頃に母を亡くし、父によって教育を受けたということぐらいです。
通説では、没落したマラーター貴族の出身であるとされ、マラーター同盟の元宰相であるバージー・ラーオ2世によって保護・養育されていたとされていますが、確たる証拠が残っているわけではないようです。
また、幼い頃から剣術や馬術の才能を発揮していたともされていますが、これにも確定的な証拠が残っているわけではなく、ラクシュミーの幼少期については、現在でも解明が待たれている状況となっています。
1842年 – xx歳「ジャーンシー藩王国に嫁ぐ」
ジャーンシー王妃となる
この年、インド北部のジャーンシー藩王国の王、ガンガーダル・ラーオに嫁いだラクシュミーは、交通の要所として栄えたジャーンシーの王妃として、自身も優れた才覚を発揮するようになります。
ラクシュミーの名前が歴史書に見られるようになるのも、このあたりからです。
1851年 – xx歳「第一子の病没」
子を設けるが……
ガンガーダル・ラーオとの間に待望の第1子を設けますが、その子は生まれてすぐに病に倒れて死去。
以降もガンガーダルとラクシュミーは子宝に恵まれず、ジャーンシー藩王国は併合の危機に立たされてしまいます。
「失権の原理」
ジャーンシー藩王国が併合の危機に立たされたのは、当時のインドを支配していたイギリスが推し進めた「失権の原理」という政策によるものでした。
「失権の原理」は、「血縁的な直系の後継者(王子)がいない藩王国は、王の没後に東インド会社に併合される」というもの。養子である後継者が認められず、子宝に恵まれなかったガンガーダルとラクシュミーは、書簡などでインド総督のダルフージーに訴え、なんとかジャーンシーの存続を図ろうとしました。
1853年~1854年 – xx歳「夫・ガンガーダルの死と、ジャーンシーの併合」
ガンガーダルの急逝
必死にジャーンシー藩王国の存続を図ったガンガーダルとラクシュミーですが、その努力は実を結ばず、この年にはガンガーダルが重い病に倒れてしまいます。
これにより実子が望めなくなったラクシュミーは養子をとり、これまで以上に精力的にジャーンシーの存続のために尽力。インド総督のダルフージーに「末期養子による後継の認可」を嘆願する書簡を送りますが、これも突っぱねられてしまいます。
そして1853年の12月、ガンガーダルが急死。これによりジャーンシー藩王国の併合が決定してしまいます。
戦いの始まり
ガンガーダルが病没し、併合が決まったジャーンシー。城も東インド会社のものとなり、1854年の2月27日、いよいよラクシュミーが王宮から追い出される日がやってきます。
王宮に仕えていた者たちが涙を見せる中、ラクシュミーは城の接収に来た特使に、毅然とした態度でこう言い放ったと伝わっています。
我がジャーンシーは決して放棄しない
その言葉こそが、ラクシュミーの戦いの始まりの言葉となりました。
1857年 – xx歳「インド大反乱が勃発」
ジャーンシーの反乱軍の旗印となる
ジャーンシーを追われて以降、隠棲していたラクシュミーでしたが、この年にはインド各地でイギリスへの反乱が勃発。
ジャーンシーでも反乱の気勢が上がり、反乱がスタート。反乱軍はジャーンシー城のイギリス軍を虐殺し、これによって隠棲していたラクシュミーにも、反乱を先導したという疑いがかかってしまいます。
このイギリスからの嫌疑と、ジャーンシーの民衆からの懇願を受けたラクシュミーは、反乱軍の指揮官として反英活動に加担。私財で雇った傭兵や、民衆から募った義勇兵を自ら指揮し、イギリス軍への抵抗活動を本格的に開始させました。
ジャーンシー城の戦い
反乱軍の指揮官となったラクシュミーは、ジャーンシー城でイギリス軍と激しい戦闘を繰り広げることとなります。
とはいえ、当時の最新鋭の重火器を持つイギリス兵に対し、ラクシュミー率いる反乱軍は女性や子供を含む義勇兵がほとんど。どうみてもその差は歴然であり、半日も陥落しなければ善戦と呼べるような有様でした。しかしラクシュミーのカリスマ的な指揮能力と民衆の強い思いによって、ジャーンシー城は半月の間陥落せずに持ちこたえたようです。
この戦いを指揮していたイギリス軍の指揮官、ヒュー・ローズは「城が落ちない理由は、十分すぎるほど明らかだ。彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ」と手記に残しています。
1858年 – xx歳「グワーリヤル城にて凶弾に倒れる」
砦の陥落と脱出
義勇兵や傭兵を纏め上げ、イギリス軍相手に善戦していたラクシュミーですが、4月には砦が陥落。ライフルを手に戦う覚悟だったラクシュミーでしたが、民衆から懇願され、辛くも砦を脱出します。
この脱出の際に、一度イギリス兵に囚われたようですが、護送兵を自ら斬り殺して再び逃走したという逸話も残っています。
こうして生き延びたラクシュミーは、カールピーで他の反乱指導者たちと合流。しかしイギリスとの交渉の落としどころを探る他の指導者と、徹底抗戦を主張するラクシュミーでは反りが合わず、女性であることも手伝って彼女は孤立してしまうこととなりました。
グワーリヤル城の戦い――戦死――
反乱軍指導者の中で孤立したラクシュミーでしたが、それと時を同じくしてカールピーも陥落。脱出したラクシュミーは、イギリス側に立ったグワーリヤル藩王国のグワーリヤル城を無血で開城させ、ここを拠点として戦いを続けます。
ラクシュミーのカリスマ性や、グワーリヤル城を無血開城させた手腕を恐れたイギリス軍は、城に大軍を差し向けて交戦。6月16日に総攻撃を開始します。
そしてその総攻撃の最中である6月18日。最前線で指揮をしていたラクシュミーは狙撃を受けて死亡。2日後の6月20日に、グワーリヤル城は陥落しました。
この攻撃にも参加したヒュー・ローズは、部下に対して「ラクシュミーの遺体を辱しめることは許さない」と厳命。彼女を敵の指揮官としてではなく、高貴な人物として礼を持って火葬したと伝わっています。
ラクシュミー・バーイーの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
王妃ラクシュミー―大英帝国と戦ったインドのジャンヌ・ダルク
ラクシュミー・バーイーの生涯が纏められた歴史物語です。
記事の通り、あまりエピソード自体が多くないラクシュミーですが、この本はそれらのエピソードを上手く膨らませ、物語としても面白くためになる作品に仕上げています。
この記事でラクシュミーに興味を持った方は、まずはこの1冊から彼女について追ってみてはいかがでしょうか。
大英帝国の盛衰: イギリスのインド支配を読み解く
直接ラクシュミーに関わるというよりは、「なぜ彼女たちは反乱を起こしたのか」という歴史的な動きが知りたい方にお勧めの一冊です。
エンタメ系の本ではないため難解ではありますが、その分様々な歴史的事情を垣間見ることができる、骨太の一冊となっています。
おすすめの映画
マニカルニカ ジャーンシーの女王
ラクシュミー・バーイーを主人公に据えた映画作品です。2020年1月3日公開だったこともあり、筆者はみることができていませんが、予告編だけでもラクシュミーの勇壮さが伝わってくれるのではないでしょうか。
関連外部リンク
ラクシュミー・バーイーについてのまとめ
イギリスという巨大な勢力に対し、圧倒的不利な状況の中でも逃げずに立ち向かった不屈の女傑・ラクシュミー・バーイー。
筆者自身も最近になってゲームから知った人物でしたが、エピソードを知れば知るほど魅力的な、世界史上のマイナーな人物としておくには勿体ない人物であるように感じました。「戦う女性」というと、最近では「社会に出て自立している女性」の比喩表現として用いられることが多いですが、ラクシュミーの場合は正しく「戦う女性」だったと言えるでしょう。
彼女のエピソード自体はさほど多くありませんが、彼女の戦った時代のインドやイギリスには、さらに多くのエピソードや人物が目白押し。この記事でラクシュミーに興味を持った方がいらっしゃれば、それらの方を調べてみるのも面白いかもしれません。
それではこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。