吉田東洋は1816年から1862年まで土佐藩(現在の高知県)で活躍した政治家です。藩政に関わり土佐藩の近代化を進めていく中、土佐藩を支える人物も育成して幕末から明治にかけて活躍した人物を輩出していきました。
土佐藩を近代化に導こうと奮戦努力し、富国強兵政策を実行して土佐藩の軍勢の近代化に導いたり、さらには後身の育成に励み明治日本の人材を育成したりしています。
最終的にはその富国強兵政策が仇となって暗殺されてしまうのですが、幕末の土佐藩を作ったのはまさしく彼だと私は思っています。
今回は土佐藩の近代化の礎を築き上げた吉田東洋について幕末を知り尽くしたこの私が解説していきたいと思います!
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
吉田東洋とはどんな人か?
名前 | 吉田東洋(正秋) |
---|---|
誕生日 | 1816年 |
没日 | 1862年5月6日 |
生地 | 高知城下帯屋町 |
没地 | 高知城下帯屋町 |
配偶者 | 後藤琴 |
埋葬場所 | 筆山公園墓地 |
吉田東洋の生涯をハイライト
1816年、吉田東洋は土佐藩士の四男として生まれますが、兄が早く亡くなったために跡継ぎになります。成人してからは土佐藩13代目の藩主のもと、藩政改革に着手しますが、藩主が病気で亡くなったために1度は職を失います。
その後15代目の藩主・山内容堂に見出され、藩政改革を主導する立場になります。若者への教育も忘れず、私塾を開いて多くの若者に活躍する可能性を与えました。東洋の教育により多くの若者が成長、幕末の土佐藩を左右するようになりました。
土佐藩において東洋の存在はとても重要でしたが、家柄は関係ないとする門閥打破、鎖国を止めて外国と貿易をする開国貿易、外国に太刀打ちできるような近代的な軍隊を作る軍制改革など、その主張はあまりにも革新的でした。
東洋の主張は、外国人は徹底的に追い払うべきだと考える尊皇攘夷派の土佐勤王党の人々、そして武士としての立場にこだわる土佐の保守派の人々には受け入れられませんでした。結局1862年、東洋は土佐勤王党によって暗殺されてしまったのです。
実は思いやりがある?義理堅い人物だった東洋
トラブルメーカーと言われることが多かった吉田東洋ですが、後藤象二郎とは深い繋がりがありました。そこには東洋の思いやりと義理堅さを感じることができます。
後藤象二郎といえば、幕末の土佐藩士でありながら、明治になっても政治家・実業家として活躍した者として有名です。彼は吉田東洋の甥にあたります。東洋の妻・琴の兄の子どもが象二郎ですが、11歳のときに父親が亡くなったため、東洋が引き取って育てました。
ただ育てるだけでなく、自らが開いた私塾でも学ばせ、熱心に教育します。結果、象二郎は大政奉還にも関わり、土佐は明治維新に大きな役割を果たすことになりました。
本人の資質もあったでしょうが、東洋が象二郎をこのように成長させたと言えます。
尊王攘夷とは正反対な吉田東洋の思想は?
吉田東洋の考えは公武合体と富国強兵でした。
公武合体というのは当時の土佐藩や薩摩藩などが考えていた思想で、朝廷と将軍家が協力していきペリー来航以降の国難をなんとか乗り越えようとしたもの。
土佐藩は初代藩主である山内一豊の時代から幕府にご恩があるため倒幕をすることは最後の最後まで考えていなかったのです。
ちなみに公武合体の反対の考え方が尊王攘夷論。尊王攘夷論とは要するに「天皇を尊び、さらには否が応でも外国人を追っ払え」という思想。
かなり危険な思想でしたが、この考えは長州藩、水戸藩が中心となって広まっていき、のちに吉田東洋を暗殺する土佐勤王党もこの考え方を持ち合わせていました。
吉田東洋と藩主の関係は?
吉田東洋と藩主(山内容堂)の関係はまさしく持ちつ持たれつなものでした。
元々吉田東洋自体が藩の重鎮になるべき人物でしたが、山内容堂は特に吉田東洋を気に入っており、度々問題行動を起こした時には最終的に復活させています。
これはやはり山内容堂が吉田東洋の実力を買っていたのではないかと思われますね。
吉田東洋の死因や暗殺された理由は?
吉田東洋の死因は暗殺によるもの。
吉田東洋は土佐藩の近代化のために尽力しましたが、そのあまりにも急激な改革は保守派の藩士や尊王攘夷論を主張する土佐勤王党らからしたら邪魔そのものだったのです。
さらに吉田東洋は上にも書いた通り公武合体派だったので彼がいる限り尊王攘夷は行われない。それなら彼を暗殺して尊王攘夷にひっくり返せばいいのだと土佐勤王党のリーダーである武市半平太は考えたのです。
その結果、吉田東洋は講義から帰宅途中に土佐勤王党のメンバーによって暗殺されてしまったのでした。
吉田東洋が影響を受けた人や与えた人
吉田東洋と坂本龍馬の関係はあった?
吉田東洋と坂本龍馬。
実はこの2人は関係はほとんどなく、それどころか吉田東洋を暗殺した実行犯である土佐勤王党のメンバーの1人でもあったのです。
しかし、坂本龍馬は土佐勤王党とは微妙に考えが異なっており、吉田東洋が暗殺される15日前に土佐藩を脱藩。暗殺に関わることなく土佐藩から姿を消したのでした。
吉田東洋と吉田松陰は親戚なのか?
吉田東洋と吉田松陰。両方とも幕末に活躍した『吉田』なのですが、あっているのは結局名前だけ。吉田東洋の出身は藤原北家の藤原秀郷の子孫とされているのに対して、吉田松陰は大内氏の子孫。
大内氏はかつて存在した百済の王族の子孫であるため藤原氏とは関係もゆかりもありません。
さらにこの頃は現在とは違って勝手に他の藩に行くことは不可能に近いものであったため、関係はなかったと考えられています。
吉田東洋と岩崎弥太郎の関係は?
のちに三菱財閥を築き上げる岩崎弥太郎。その岩崎弥太郎が勉学に励んでいたのが吉田東洋の私塾でした。
弥太郎は吉田東洋から様々な知識を与えられ、吉田東洋が藩政に復帰するとそれに同行して長崎に出張して大清帝国の情勢を調査をしていました。
吉田東洋が暗殺された後は土佐勤王党に活動を妨害されるものの、吉田東洋の意思を受け継ぎ商業を中心に活動を展開。そしてその後三菱財閥を築き上げるまでに至ったのです。
吉田東洋の功績
功績1「土佐を雄藩にするために!身分制度を飛び越えた東洋」
東洋の時代には、土佐にはまだ厳しい身分制度が残っており、武士は上士と下士に分かれていました。そのため、上士よりも下に位置づけられていた下士は、決して出世をすることはありませんでした。
しかし東洋の開いた塾には身分を問わずに若者が集まり、能力があれば藩の役職に付くことも可能だったのです。
塾生には岩崎弥太郎がいましたが、先祖が下士の身分を売ったために当時の身分は浪人。そんな彼が藩に取り立てられるのは、当時としては画期的でした。
藩政を改革するために身分制度は不要と考えた東洋は、土佐の若者たちに大きな可能性を与えたのです。
功績2「土佐藩で富国強兵政策を推進」
吉田東洋の最大の功績といえば土佐藩を幕末の雄藩に育て上げたことだと思います。
明治時代、日本では薩長土肥と呼ばれる四つの藩が中心となって政治運営されていくようになりますが、この藩たちに共通していることは全て藩政改革を断行していること。
土佐藩では吉田東洋が中心となって土佐藩を育てて兵を近代化するいわゆる富国強兵政策が推し進められていき、軍制改革や殖産興業などが推進されていきました。
東洋亡き後、この考えはのちに土佐藩の中心となる後藤象二郎などに受け継がれていき、土佐藩は雄藩へと変わっていくようになったのです。
功績3「日本の基礎を築いた人材を輩出」
吉田東洋の3つ目の功績は土佐藩に関わる人たちが東洋の塾に通っていたことです。
吉田東洋はとあることがきっかけで一旦藩の政治から離れることになったのですが、その時に開いた私塾ではのちに土佐藩の中心人物となっていく乾退助(板垣退助)、後藤象二郎、岩崎弥太郎、福岡孝弟(五箇条の御誓文を書いた人)などが通っていました。
のちにこの人たちは『新おこぜ組』と呼ばれていくようになります。
吉田東洋にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「意外とトラブルメーカー」
土佐藩のために必死に働いていた吉田東洋ですが、彼は事あるごとに何か問題を起こしているいわゆるトラブルメーカーの一面も持ち合わせていました。
例えば21歳の時には吉田のお手伝いさんと口論に発展しそのままの勢いで斬殺。さらには藩主の参政として藩主の政治をサポートする立場にあるのにもかかわらず、酒の席で酔っ払って幕府の家臣を殴打したりするなどその性格はあまり良いものではなかったのだそう。
ちなみに民衆からの評価も良いものとはいえず暗殺されてしまいその首が近くの川にさらされた時には「内々の 巧みがもれて首が無し 気味が吉田と言わぬ者無し」との狂歌が詠まれるほどだったとか。
都市伝説・武勇伝2「東洋なら信長と言ってくれる」
吉田東洋はその知識の深さや家柄から藩主に対して講義を行う立場にありました。そのため吉田東洋が暗殺された後そのことを懐かしむこともしばしばあったようです。
山内容堂が酒の席にて「俺が武将であれば、誰に似ておるか」と尋ねたところ、家臣がみんな「毛利元就がお似合いかと」と答えたらしく、容堂は寂しそうに「東洋ならば、織田信長と答えただろう」と言ったとされています。
ちなみに吉田東洋は暗殺される直前の講義の内容は織田信長が本能寺の変で横死する直前の話であったそうです。何か運命的な何かがあったのでしょうかね。
吉田東洋の生涯歴史年表
1816年「吉田東洋土佐藩に生まれる」
吉田東洋は1816年、土佐藩の上士の次男として生まれました。
ちなみに、吉田東洋の祖先は戦国時代に長曾我部元親に仕え、土佐藩初代藩主山内一豊から家臣として迎えられていました。
当時の土佐藩には、武士階級においては上士と下士という身分に分かれており、山内家が土佐を統治する以前から山内家の家臣だった人の子孫は上士、山内家が土佐を統治する以前に長宗我部家に仕えていた家臣だった人の子孫は下士として分裂していました。
そして基本的には下士が出世することはほとんどなく、上士が現れたら道を譲らなければいけませんでした。そのため、吉田東洋みたいな例はほとんどなかったのです。
1842年「郡奉行として土佐藩にかかわる」
1842年。吉田家の家督を継いだ吉田東洋は舟奉行、次に郡奉行として土佐藩に使えるようになります。
郡奉行という役職は藩の家老の命令を受けて地域の年貢を徴収する役職でいかに吉田東洋が藩主から期待がかかっていたのかがよくわかります。
吉田東洋は当時の藩主である山内豊熙の側近として土佐藩の民政や藩政改革に着手し、土佐藩で飢饉が起こった時に餓死者を出さないように年貢米を備蓄しておく蔵屋敷を設立することを進言したりしてました。
1848年「東洋上方に赴く」
土佐藩に仕えた吉田東洋でしたが、1848年に山内豊煕が亡くなると郡奉行を辞めさせられ、いきなり無役になってしまいました。
吉田東洋は仕方なく上方(近畿地方)に赴き、伊勢国の斎藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎ら各地の漢学者や学者などと交流を深めていくことになります。
ちなみにこの頃同じく土佐藩士であった後藤正晴の遺児である後藤象二郎の養父となって養育したりしていました。
1853年「再び土佐藩に戻る」
しばらく藩から離れていた期間がありましたが、1853年に山内容堂によって参政に抜擢。実は容堂は土佐藩の改革を実行しなければならないと思っており、保守派による藩政をなんとかして抑えるために当時革新派と呼ばれていた吉田東洋が大抜擢されたのです。
容堂は東洋を家老を押しのけるほどの地位につかせて東洋は当時西洋から伝わっていた近代式の武器や軍隊の育成、海軍の強化による海防強化・土佐藩の身分制度改革などの藩政改革を断行し、藩主の側近中の側近として藩政改革を強行していくようになります。
1857年「高知に私塾を構える」
吉田東洋は藩の側近ということもあって参勤交代に伴って江戸へ。
江戸にて藤田東湖ら著名な知識人らと親交を結ぶのですが酒宴で藩主の姻戚に殴打する大問題を起こしてしまい、藩の側近から一転して罷免(クビ)にされ、さらに家禄を150石に減らされ無理やり隠居させられてしまいました。
仕事を失ってしまった東洋は、自分の復活は無理だろうと土佐に戻った後郊外に私塾を開き人材の育成に尽力するようになります。
義理の甥であり養子てあった後藤象二郎を始め、乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士に自分の経験や知識を教えていき、後に「新おこぜ組」と称される一大勢力として幕末期の土佐藩に大きな影響を与えました。
1857年「藩政にふたたび復帰する」
藩政から退いた吉田東洋でしたが、やはりその才能を無駄にするのはあまりにももったいことだと思っていた山内容堂は1857年に吉田東洋を藩政に復帰させます。
吉田は再び参政として藩の政治に関わるようになり、再び強固な富国強兵政策を推し進めていくことになります。
土佐藩の根深い身分制度や長崎に人材を派遣して開国貿易を行うなど様々な改革を行っていましたが、当時日本では尊王攘夷派が根強く吉田東洋のような考えは外国に魂を売っている逆賊だと思われてしまうことになるのです。
1862年「帰宅途中に暗殺」
こうして藩政に戻った吉田東洋でしたが、そのあまりにも急進的な考え方は保守的な藩士や外国人を忌み嫌っており尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となります。
さらには東洋を一番の頼りにしていた山内容堂も、安政の大獄の煽りを受けて謹慎となり、藩主を引退。藩主を引退した後土佐藩では土佐勤王党を始めとした尊王攘夷派が猛威を振るうことになってしまいます。その熱はかつて容堂に仕えていた憎き東洋に向けられることになったのです。
そしてその対立を東洋は抑えることができずに吉田東洋は講義の帰宅途中に土佐勤王党のメンバーによって暗殺されてしまいました。
その後、土佐藩は一時的に保守派によって藩政が主導されることになるのですが、土佐勤王党が弾圧されると後藤象二郎や板垣退助と言った吉田東洋の教え子によって土佐藩は幕末を迎えることになるのです。
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吉田東洋についてのまとめ
吉田東洋はその急進的な考え方や、強硬な政策によって反感を買ってしまい暗殺されてしまいましたが、彼の理念はその後養子である後藤象二郎によって受け継がれていくことになります。
暗殺犯である土佐勤王党が政変によって壊滅すると土佐藩では吉田東洋が育てた人材が土佐藩の重役に次々と就任。そして後藤象二郎と板垣退助はのちに自由民権運動の旗頭として活躍していくようになったのです。
あまり知られていない吉田東洋ですが、彼は土佐藩を幕末の主役級にした第一人者だったのですね。