雪舟とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や逸話も紹介】

室町時代に活躍した水墨画家である雪舟は「画聖」とも呼ばれ、日本だけでなく水墨画発祥の地・中国でも高い評価を得ています。しかし雪舟と聞いて「名前は知っているけどその生涯はよく知らない」という人は多いのではないでしょうか。

雪舟

それもそのはず、雪舟は国宝に認定されている作品が6つもあるにも関わらず、本人が多くを語らない人物だったせいなのか雪舟に関する文献などはとても少なく、その生涯の多くは謎に包まれている偉人です。

そしてなんと日本人で初めて海外の切手に描かれた日本人でもあったり、手掛けた庭園が日本全国各地にあったりと「水墨画家ではないの?」と知れば知るほど謎が深まる偉人でもあります。

そんな謎に魅せられた一人である美術史大好きの私が、雪舟の謎多き生涯をお伝えします。彼の生涯を知ることで、彼をより身近に感じたり勇気づけられたりするはずです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

雪舟とはどんな人物か

名前雪舟(せっしゅう)
誕生日1420年(応永27年)
※推定
没日1506年(永正4年)8月8日
※諸説あり
生地備中国赤浜
(現在の岡山県総社市)
没地島根県益田市
※諸説あり
配偶者なし
埋葬場所島根県益田市 大喜庵
※複数箇所あり

雪舟の生涯をハイライト

雪舟が幼いときに修行した宝福寺
引用:宝福寺 – Wikipedia

雪舟は、室町時代中期に活躍した僧侶です。1420年に備中国(岡山県の一部)に生まれました。雪舟は小田氏という武士の家の子です。あとつぎと考えられていなかったようで、幼いころに総社市の宝福寺に入れられました。

10歳のころ、雪舟は臨済宗の大寺院である相国寺に移ります。このころ、臨済宗の寺院は最先端の学問や芸術を学ぶのに最適な場所でした。中国からの書籍(漢籍)を数多く所蔵していたからです。

また、臨済宗の僧侶たちは作庭や水墨画についての専門知識を持っていました。雪舟も相国寺でこれらの知識を学んだと考えられます。相国寺の僧侶の中でも周文は水墨画の名手として知られていました。雪舟は周文のもとで禅僧としても画家としても多くを学びます。

雪舟が山口で絵の作成に使っていた「雲谷庵」(復元)
引用:雪舟 – Wikipedia

1454年頃、雪舟は山口に移り住みました。山口は守護大名大内氏の本拠地です。大内氏は明との勘合貿易を行っており、大陸文化に接しやすい街でした。雪舟は山口で10年近く過ごします。

1467年、雪舟は遣明船に乗り込み中国にわたりました。そこで彼は明だけではなく、それ以前の元や宋の絵画を模写し技術を修得します。また、印象に残った中国の風景を数多くスケッチしました。

現在の天橋立
引用:天橋立 – Wikipedia

1469年、帰国した雪舟は大内氏の領国である北九州や山口県、島根県西部で活動します。その後、活動範囲を京都周辺に拡大。「天橋立図」などを描きました。彼の正確な没年は不明ですが、1502年または1506年に亡くなったとされます。

雪舟の本名は「諱(いみな)」

京都市上京区にある相国寺

雪舟の生家は小田氏という武家だと言われています。そして雪舟は17歳の時に京都の相国寺に入り、諱(いみな)として等楊という名をもらいます。諱は、生涯変わることの名前、つまり本名ですね。

なので雪舟というのは画号(ペンネームのようなもの)なんです。ちなみに雪舟は画号として他に「拙宗」や「雲谷」などを名乗っている時期もありました。

雪舟が描く水墨画の特徴

雪舟は、中国水墨画の模倣に過ぎなかった日本の水墨画のレベルを飛躍的に向上させました。水墨画が日本で本格的に描かれるようになったのは12世紀から13世紀のこと。初期の水墨画では禅宗関連の僧侶や花鳥画が描かれることが多かったようです。

雪舟の師である周文の「水色巒光図」
引用:周文 – Wikipedia

室町時代になると水墨画の幅が広がりました。特に、風景画を描く「山水図」が多く描かれます。雪舟もまた山水図を多く描きました。彼はこれまでの水墨画と比べ、力強い筆致で輪郭を描きます。また、遠近感を巧みに利用し絵に奥行きを持たせました。

雪舟は過去の水墨画の技法と宋・元・明の時代の中国絵画の技術を組み合わせ日本独自の水墨画の技法を開発したといってもよいでしょう。

僧侶の顔も持つ雪舟

山口にある常栄寺・雪舟庭

国宝指定最多記録を持っている雪舟ですが、実は雪舟は純粋な画家ではなく禅僧、お坊さんなんです。

雪舟は幼少時、宝福寺で禅僧としての修行を積みますが、お経の勉強よりも絵を描くことのほうが好きだったそうです。そして当時の禅僧にとっては絵を描くことも修行の一つと捉えられていました。雪舟のように絵を中心に修行していた禅僧のことを画僧(がそう)と呼びます。

なので雪舟も修行の一環として絵を描いていたのですね。本人は修行という感覚はあまりなかったのかもかもしれませんが、そこは本人のみぞ知る、というところですね。

ちなみに雪舟は水墨画だけでなく庭園を作ったりもしていました。雪舟が手掛けた庭園は「雪舟庭」とも呼ばれ、今でも全国各地でみることができます。特に医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は「雪舟四大庭園」と呼ばれていて有名です。

尾形光琳に影響を与えた

尾形光琳の「紅白梅図屏風」
引用:尾形光琳 – Wikipedia

雪舟の絵は、およそ200年後に活躍した江戸時代の絵師尾形光琳に影響を与えました。尾形光琳は「燕子花図屏風」や「紅白梅図屏風」で有名な元禄時代を代表する画家ですね。豪華な「八橋蒔絵螺鈿硯箱」でも知られています。

京都生まれの光琳は京都有数の呉服屋に生まれました。しかし、彼の放蕩癖などのせいで家業は傾きます。彼は画家として生計を立てようと決心し、江戸の上りました。この時、彼は雪舟の水墨画と出会ったようです。光琳は雪舟の水墨画を模写します。この影響か定かではありませんが、晩年、光琳も水墨画を残しています。

女性事情のなかった雪舟

雪舟の恋愛事情は?

雪舟は禅僧であることを生涯貫いたため、奥さんやそれに類する女性に関するエピソードは皆無です。

江戸時代の浮世絵師たちは春画(アダルトな作品)を描くことも当たり前であったり、海外の芸術家は女性事情は乱れていたりしますが、それに比べると対照的ですごく真面目な生涯だったようです。

雪舟の代表作

四季山水図巻(しきさんすいず)

「四季山水図巻(山水長巻)」
引用:雪舟 – Wikipedia

「四季山水図巻」は別名「山水長巻」といいます。雪舟が67歳の時に描きました。雪舟を保護した大内氏を滅ぼした毛利氏が代々家宝として受け継いだ水墨画ですね。墨一色ではなく、要所要所に藍や朱といった淡い色彩がちりばめられているのが特徴です。

南宋時代に院体画とよばれる絵画技法を完成させた夏珪(かけい)の画風にならいました。雪舟が持っていた水墨画の技法のほとんどがみられることから、彼の最高傑作とも評されます。

破墨山水図(はぼくさんすいず)

「破墨山水図」
引用:破墨山水 – Wikipedia

「破墨山水図」は、破墨とよばれる技法で描かれた山水図という意味です。破墨とは、薄墨で描いたものの上に、濃い墨で描くことで立体感を出す水墨画の技法のこと。

ただ、この作品は「破墨」というより、墨をはね散らす「溌墨」の技法だとする遺賢もあるようで、専門家の中でも意見が分かれています。

天橋立図(あまのはしだてず)

「天橋立図」
引用:雪舟 – Wikipedia

「天橋立図」は、日本三景の一つである天橋立を描いた水墨画。天橋立を東側から描いたもので、雪舟最晩年の作品です。描かれている二つの寺院(智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍)から、描かれた年代は1501年から1506年と推定されました。

天橋立を引き立てる素晴らしい構図と周辺の山々を描く墨の美しさは雪舟のこれまでの技術の総決算ともいえる内容です。これを、80歳で、しかも現地に赴いて描いたというのは驚異的ではないでしょうか。

国宝認定された作品数6点、重要文化財に認定された作品は19点と日本美術界でもトップクラスの作品を多く残している雪舟の代表作は以下です。

秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)

秋冬山水図

日本の水墨画に多大な影響をもたらした雪舟の革新的な表現が見て取れる、国宝にも認定されている作品です。特に中央の太い線は断崖の輪郭線を強調するために描かれたものだと言われています。

慧可断臂図(えかだんぴず)

慧可断臂図

こちらも国宝に認定されている作品です。雪舟が77歳の時に描いたとされています。
個人的には岩肌の陰影がまさに岩肌だと分かる描き方をされていて気に入っています。

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