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雪舟の生涯・年表【性格や死因、代表作品についても紹介】

室町時代に活躍した水墨画家である雪舟は「画聖」とも呼ばれ、日本だけでなく水墨画発祥の地・中国でも高い評価を得ています。しかし雪舟と聞いて「名前は知っているけどその生涯はよく知らない」という人は多いのではないでしょうか。

雪舟

それもそのはず、雪舟は国宝に認定されている作品が6つもあるにも関わらず、本人が多くを語らない人物だったせいなのか雪舟に関する文献などはとても少なく、その生涯の多くは謎に包まれている偉人です。

そしてなんと日本人で初めて海外の切手に描かれた日本人でもあったり、手掛けた庭園が日本全国各地にあったりと「水墨画家ではないの?」と知れば知るほど謎が深まる偉人でもあります。

そんな謎に魅せられた一人である美術史大好きの私が雪舟の謎多き生涯をお伝えします。彼の生涯を知ることで、彼をより身近に感じたり勇気づけられたりするはずです。

雪舟とはどんな人?

名前雪舟(せっしゅう)
誕生日1420年(応永27年)
※推定
没日1506年(永正4年)8月8日
※諸説あり
生地備中国赤浜
(現在の岡山県総社市)
没地島根県益田市
※諸説あり
配偶者なし
埋葬場所島根県益田市 大喜庵
※複数箇所あり

雪舟の本名は?

京都市上京区にある相国寺

雪舟の生家は小田氏という武家だと言われています。そして雪舟は17歳の時に京都の相国寺に入り、諱(いみな)として等楊という名をもらいます。諱は、生涯変わることの名前、つまり本名ですね。

なので雪舟というのは画号(ペンネームのようなもの)なんです。ちなみに雪舟は画号として他に「拙宗」や「雲谷」などを名乗っている時期もありました。

雪舟は画家?

山口にある常栄寺・雪舟庭

国宝指定最多記録を持っている雪舟ですが、実は雪舟は純粋な画家ではなく禅僧、お坊さんなんです。

雪舟は幼少時、宝福寺で禅僧としての修行を積みますが、お経の勉強よりも絵を描くことのほうが好きだったそうです。そして当時の禅僧にとっては絵を描くことも修行の一つと捉えられていました。雪舟のように絵を中心に修行していた禅僧のことを画僧(がそう)と呼びます。

なので雪舟も修行の一環として絵を描いていたのですね。本人は修行という感覚はあまりなかったのかもかもしれませんが、そこは本人のみぞ知る、というところですね。

ちなみに雪舟は水墨画だけでなく庭園を作ったりもしていました。雪舟が手掛けた庭園は「雪舟庭」とも呼ばれ、今でも全国各地でみることができます。特に医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は「雪舟四大庭園」と呼ばれていて有名です。

雪舟の女性事情は?

雪舟の恋愛事情は?

雪舟は禅僧であることを生涯貫いたため、奥さんやそれに類する女性に関するエピソードは皆無です。

江戸時代の浮世絵師たちは春画(アダルトな作品)を描くことも当たり前であったり、海外の芸術家は女性事情は乱れていたりしますが、それに比べると対照的ですごく真面目な生涯だったようです。

雪舟は一体何がすごいのか?

すごさ1「国宝認定されている作品が画家の中で最多」

国宝「山水長巻」(部分)

雪舟の作品で国宝認定されている作品は6点。これは画家の中で最多記録となっています。また重要文化財に認定されている作品は19点で、これだけでも日本の美術史に多大な影響を与えたことが分かります。

ただ、意外にも雪舟が有名になったのは亡くなった後の江戸時代。当時、美術界を牛耳っていた狩野派が雪舟を師として仰いだことがキッカケで有名になりました。その頃から雪舟作とする贋作も増加したそうです。

すごさ2.「水墨画の本場・中国でも認められている画家」

南宋時代の水墨画家・ 李迪の『雪中帰牧図』

雪舟は初めて明へ渡った画家だと言われていますが、それだけでなく水墨画の本番・中国(当時の明)でもとても高い評価を受けました。滞在した天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」という称号を与えられ、北京では政府の建物に飾るための絵を依頼され、作品は「国の至宝」として称賛されました。

現代においても、中国では雪舟から水墨画の技術を学ぼうとする動きが再燃しているそうです。

すごさ3.「外国の切手に描かれた最初の日本人」

雪舟がモデルとなったロシアの切手

雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人でもあります。

1956年(昭和31年)にスウェーデンのストックホルムで開かれた世界平和会議で世界平和文化人10人が選ばれ、日本代表として雪舟が選ばれました。それを記念してソビエト連邦(現在のロシア)とルーマニアで雪舟が描かれた切手が発行されることになりました。

選定理由は公表されていないようですが、室町時代に海を渡り異文化交流の橋渡しをしたことやその後、中国にも多大な文化的影響を与えたこと選定の理由だと考えられます。

雪舟の代表作は?

国宝認定された作品数6点、重要文化財に認定された作品は19点と日本美術界でもトップクラスの作品を多く残している雪舟の代表作は以下です。

秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)

秋冬山水図

日本の水墨画に多大な影響をもたらした雪舟の革新的な表現が見て取れる、国宝にも認定されている作品です。特に中央の太い線は断崖の輪郭線を強調するために描かれたものだと言われています。

慧可断臂図(えかだんぴず)

慧可断臂図

こちらも国宝に認定されている作品です。雪舟が77歳の時に描いたとされています。
個人的には岩肌の陰影がまさに岩肌だと分かる描き方をされていて気に入っています。

天橋立図(あまのはしだてず)

天橋立図

雪舟が80歳を過ぎた頃に描かれた作品です。上空から俯瞰して描いたかのような絵で迫力があります。細部では実際と違う部分もあり多くの議論がされている作品でもあります。

雪舟にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「初めて明へ渡った画家」

明の首都だった南京

雪舟は初めて明へ渡った画家だと言われています。水墨画の本番、中国(当時の明)で最先端の技術を学んだ初めての画家だったからこそ雪舟は名作を生み出せて日本の水墨画に革新的な変化をもたらせたのでしょう。

都市伝説・武勇伝2「涙で描いた鼠」

涙で鼠の絵を描いた?

雪舟の有名な逸話の一つに幼い頃に修行していた宝福寺での「鼠の絵」のエピソードがあります。

宝福寺で修行をしていた雪舟は絵を描くことが大好きでお経などちっとも読まず、お寺の修行そっちのけで絵ばかり描いていました。それを見かねた住職はお寺の柱に雪舟を縛り付けてしまいます。

しかし雪舟は自分の涙を足の親指につけ、床に本物と見間違うほど見事な鼠の絵を描きました。その鼠の絵の見事さに関心した住職は雪舟に自由に絵を描くことを許したそうです。

この話、実は作り話だと言われています。というのも、この話が最初に伝えられたのは江戸時代に狩野永納が出版した本だからです。

都市伝説・武勇伝3「実はスパイだった?」

スパイだったかもしれない?

雪舟が生きた時代は戦国時代でもありました。そんな時代にあまりに絵が上手いため雪舟は各国の情報を収集するスパイだったという説があります。

実際に雪舟は山口県の大内氏のお抱え画僧でした。そして大内氏が細川氏と対立している頃に雪舟は山口には戻らずに博多を経由し大分まで旅行に行っていますが、この旅行は九州の覇権を争う大友氏の視察だったと考えられています。

写真などない時代に土地を正確に描写できる能力を持っているのだから、可能性としては十分考えられそうです。

雪舟の略歴年表

1420年
備中国赤浜に生誕

1420年(応永27年)、雪舟は備中国赤浜(現在の岡山県総社市)の小田氏という武家の子として生誕しました。幼少の頃の記録はほとんど残っていませんが、幼い頃から絵を描くことが好きだったようです。

1431年
12歳の時に禅寺・宝福寺に出家
1431年(永享3年)、雪舟は禅寺である宝福寺に出家し僧となります。当時、文芸で身を立てるには寺に入るのが唯一の道で、禅僧が学問や文芸を担っていました。
1436年
画僧として京都の相国寺へ
1436年(永享8年)、17歳の雪舟は画僧として京都の相国時に入ります。ここで周文の弟子となり絵の修業を積むことになります。
1454年
周防国に移りアトリエ・雲谷庵を構える
1454年(享徳3年)、35歳の雪舟は周防国へ移り、大内氏の庇護のもとでアトリエである雲谷庵を構えます。
1465年
雪舟と名乗り始める
1465年(寛正6年)、雪舟はこの頃から「雪舟」と名乗り始めます。それまでは「拙宗」と名乗っていたと言われています。
1467年
48歳、明へ渡り本場の水墨画に振れる
1467年(応仁元年)、雪舟は遣明船「寺丸号」で明へ渡航します。このときの雪舟の正式な身分は朝貢使節でした。
その後2年間、中国の自然に関しては「風景こそ最大の師」と感動したものの「明の画壇に見るべきものはない」と当時の明の水墨画には失望してしまったそうです。
1469年
帰国
1469年(文明元年)、50歳になった雪舟は日本に帰国し、周防国や豊後国、石見国で創作活動を行ないました。

この頃には雪舟の作品の評価はきわめて高まっていて、貴族からの招待も多数あったものの固辞していたそうです。

1476年
豊後国に渡り画房を開く
1476年(文明8年)、57歳の雪舟は豊後国(現在の大分県)に移り「天開図画楼」と呼ばれる画房を開きました。この画房には九州の各地から弟子が集まりました。
1496年
国宝「慧可断臂図」を描く
1496年(明応5年)、77歳の雪舟は後に国宝と認定される「慧可断臂図(えかだんぴず)」を描きます。
1501年
国宝「天橋立図」を描く
1501年(文亀元年)、82歳の雪舟は天橋立へと赴き国宝となる「天橋立図(あまのはしだてず)」を描きます。
1506年
87歳、他界
1506年(永正3年)8月8日、82歳でこの世を去ります。ただ、没年や没日については未だ諸説あり謎の多い生涯となっています。

雪舟の生涯具体年表

1420年 – 1歳「備中国赤浜に生誕」

現在の岡山県総社市

武家の子として誕生

雪舟はは1420年(応永27年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)の武家、小田氏のもとに生誕します。あまり記録が残っていない雪舟ですが、幼い頃から絵を描くことが好きな少年だったようです。

1431年 – 12歳「宝福寺に出家」

総社市にある宝福寺

禅寺の宝福寺に出家

1431年(永享3年)、12歳の雪舟は禅寺の宝福寺に出家します。詳しい事情は分かりませんが、絵が好きだった雪舟を文芸の道で生きていかせるために両親が出家させたのかもしれません。

というのも、当時は文芸で生きていくには寺に入るのが唯一の道とされていたためです。当時は禅僧が学問や文芸を担っていました。

「涙で描いた鼠」で住職を感心させる

雪舟の逸話で有名な「涙で描いた鼠」は、この頃のエピソードです。

絵を描くのが大好き過ぎてお経を読むのもそっちのけで絵を描いてばかりいた雪舟。それを見かねた住職がお寺の柱に雪舟を縛り付けるのですが、縛り付けられた雪舟は自分の涙を足の親指につけて床に見事な鼠を描きます。その鼠の絵に関心した住職はそれ以来、雪舟には自由に絵を描かせた、というもの。

実はこのエピソードは実話ではなく、江戸時代に雪舟を師と仰いだ狩野派が、雪舟を神格化するために作った話だと言われています。

1436年 – 17歳「京都の相国寺に移り周文に弟子入り」

周文「四季山水図屏風」

京都の相国寺に移る

1436年(永享8年)、17歳の雪舟は画僧として京都の相国寺に移ります。当時の相国字は禅宗五山の中でも最高位に位置していると言われ、中国の経典や芸術を熱心に研究していました。

雪舟が故郷を離れ相国寺に移った理由は定かになっていませんが、絵を学ぶ最高の環境に身を置きたくて移ったのかもしれませんね。

墨絵において当時一流の周文の弟子となる

足利義教

相国寺に移った雪舟は当時墨絵において一流の大家で将軍・足利義教の御用絵師を勤めていた天章周文に弟子入りします。

周文は朝鮮半島に渡って絵を学び、日本水墨画を確立した人物とも言われています。雪舟はそんな高名な師である周文から水墨画の技術を学んでいきました。

「等楊」という諱(いみな)を与えられる

この頃に雪舟は「等楊」という諱(いみな)を与えられます。諱とは生涯変わることのない名前であり、本名とされています。

評価されない期間が続く

師匠である周文は細やかな画風で高い評価を得ていましたが、雪舟は周文とは異なり奔放で自由な画風でした。京の都ではこの画風はあまり評価されず雪舟にとっては辛い時期になったのだと思います。

1454年 – 35歳「周防国に移りアトリエを構える」

雲谷庵跡

周防国に移りアトリエ「雲谷庵」を構える

1454年(享徳3年)、35歳になった雪舟は周防国(現在の山口県)に移り、守護大名・大内氏の庇護のもとアトリエ「雲谷庵」を構えます。

当時、周防国は京の都によく似た盆地で整然と町が築かれており、朝鮮や中国との交易も盛んで知識や文化が盛んな文化都市でした。

雪舟が京を去り、周防国に移った理由

当時はあちこちで飢饉が続き、武士が各地で旗揚げするなど戦の絶えない時代でした。

京の都では、将軍・足利義教が宴会の席で斬り殺され、その後を継いだ義勝は病弱のため三年で将軍の座を去り、さらにその後を継いだ義政は財政困難の状況にありながら銀閣寺を建立したり芸術品を集めたりと贅沢三昧で世間からの反感を買っていました。

そんな騒がしい京の都では絵の修業もままならないと思ったため京を離れ、京の都とよく似た土地で、文化の交流も盛んな周防国へ移る決心をした、とも言われています。

1465年 – 46歳「雪舟と名乗り始める」

拙宗等揚「杜子美臂鷹図」

拙宗から雪舟へ

1465年(寛正6年)、この頃から雪舟を名乗り始めます。それまでは拙宗と名乗っていました。

実は拙宗と雪舟が同一人物である証拠は見つかっていません。ただ、拙宗と雪舟の活動時期が被らないことや、両者の山水画をには飛躍しつつも共通点が見られたことから同一人物であるという説が定説になりつつあります。

1467年 – 48歳「明へ渡り本番の水墨画を研究」

水墨画のような中国・桂林

遣明船で明へ渡る

1467年(応仁元年)、雪舟は弟子の秋月とともに遣明船「寺丸号」に乗り明へ渡航します。

その後、約2年間で明で本番の水墨画に触れ、研究を重ねます。しかし結局は「明の画壇に高名な師なし」として失望してしまったそうです。

ただ、中国の自然には大変感動したそうで「風景こそ最大の師」として揚子江を下りながら貪欲に風景を写生していたそうです。その時に雪舟が描いた景観は今も中国に残っています。

明でも高い評価を得る

雪舟は天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」という称号を得たり、北京では政府の建物に壁画を描いたところ「国の至宝」と称賛されたりなど大変高い評価を得ていました。

あくまで想像ですが、こういった称賛が余計に雪舟に「ここには学ぶものはないな」と失望させたのかもしれませんね。

1469年 – 50歳「帰国」

狩野正信「竹石白鶴図」

帰国するも貴族や将軍の依頼は受けなかった

1469年(文明元年)、帰国した雪舟の評価は大変高くなっており、多くの貴族から招待をされていましたが、雪舟はそれを固辞していたそうです。

ある時には、将軍・足利義政から宮殿のための作画を依頼された際も禅僧であるということを理由にやんわりと断り、代わりに狩野正信を推薦したそうです。

富や名声に煩わされることなく、自然の中で画境の境地を追求したかったのではないかなと思います。

1476年 – 57歳「豊後国に画房「天開図画楼」を開く」

天開図画楼跡の碑

九州各地から弟子が集まる「天開図画楼」を開く

1476年(文明8年)、雪舟は豊後国(現在の大分県)に画房「天開図画楼」を開きました。

この画房には九州各地から弟子が集まり、雪舟は絵を学びたい弟子には身分に関係なく絵を教えていたそうです。

また、豊後国に住んでいたこの頃には各地の寺に優れた庭園も築いています。

1496年 – 77歳「国宝『慧可断臂図』を描く」

国宝「慧可断臂図」

のちに国宝認定される「慧可断臂図(えかだんぴず)」を描く

1496年(明応5年)、77歳の雪舟は後に国宝と認定される「慧可断臂図(えかだんぴず)」を描きます。

この絵は、禅宗の初祖・達磨が少林寺において壁面に向かって座禅しているところに慧可という僧が入門を願ったものの断ったが、自ら左腕を切り落として決意を示したためようやく入門を許されたという話の一場面です。

この「慧可断臂図」は雪舟が晩年にたどりついた境地を表しているとも言われています。

1501年 – 82歳「国宝「天橋立図」を描く」

天橋立

のちに国宝認定され謎も多い「天橋立図(あまのはしだてず)」を描く

1501年(文亀元年)、雪舟は天橋立に赴きのちに国宝認定されることになる「天橋立図」を描きます。この天橋立図、国宝であることもさることながら謎が多いことでも有名です。

21枚の紙片をつなぎ合わせて描かれているこの作品は、飛行機やヘリコプターといった空を飛ぶ乗り物のない時代に上空900メートルからの視点で正確に描かれた風景画で見るものを圧倒します。

しかしそれだけではなく、細かい部分では意図的に実物と違う描き方がされているため、多くの議論がされいる作品です。

1506年 – 87歳「他界」

益田市にある大喜庵

石見国益田の大喜庵で息を引き取る

1506年(永正3年)、雪舟は87歳でこの世を去ります。ただ、史料があまり残っていない雪舟です。

没地や没年については諸説あります。たとえば、没年に関して一節では1502年に天橋立に赴いて「天橋立図」を描き、その帰路の益田にて他界したのではないか、とも言われています。

雪舟の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

もっと知りたい雪舟 ―生涯と作品

オールカラーで作品だけでなく、幼少期から晩年までを時系列で紹介されているため謎の多い雪舟の全体像を掴むことができます。

雪舟応援団

画家であり芥川賞作家でもある赤瀬川さんと明治学院大学教授の山下さんが対談形式で雪舟の魅力を語り「水墨画の画聖」という雪舟のお堅いイメージを崩してくれる内容です。

雪舟の「山水長巻」―風景絵巻の世界で遊ぼう

山水長巻を中心に書かれた本ですが雪舟の生涯についても語り、「画聖」とも呼ばれている雪舟の失敗談や実は手抜きをしていた、といった人間味あふれるエピソードにも触れ、雪舟をより身近に感じることができます。

雪舟 (新潮日本美術文庫)

雪舟やその弟子の32作品についての解説もさることながら、雪舟のターニングポイントになったともいえる中国滞在を中心に、渡航前、滞在中、帰国後の作品を比べながら雪舟の変化・成長について書かれています。

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「雪舟」東京シネマ1956年製作

古い動画ですが、一次情報が詰まっています。水墨画の発祥である中国で雪舟が注目を集めています。その切り口で雪舟の作品について解説されています。特に中国の水墨画の歴史と雪舟の関係性を知ることができます。

関連外部リンク

雪舟についてのまとめ

謎の多い雪舟ですが、その作品に見られる力強い筆運びをしていると思ったら繊細に細部を描く奔放な画風から生涯、自分らしく絵を描くことを楽しみ、追求していたことが伝わってきます。

私も雪舟のように晩年まで「自分らしさ」を捨てずに人生を楽しんでいきたいなと思いました。読者の方の中に雪舟の作品から何かしら感じるものがある人がでてくると幸いです。