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坂本龍馬の年表まとめ【32年の人生を追体験】

坂本龍馬の早見年表

1835年
土佐で生まれる
坂本龍馬は天保6年(1835年)、土佐藩の町人郷士・坂本家の二男として誕生しました。兄弟は5人いて、末っ子に当たります。
1853年
初めて江戸を訪れる
龍馬は19歳の時、剣術に磨きをかける為に初めて江戸を訪れます。ここで「黒船」を目の当たりにした龍馬は、これからアメリカとの戦いが近づいていると悟り、攘夷論に闘志を燃や始めたそうです。
1862年
土佐勤王党と接触、そして脱藩へ
土佐勤王党の志に感銘を受け一員として名を連ねていた龍馬。しかし、その余りにも過激なやり方に疑問を感じ始めた龍馬は、とうとう土佐藩からの脱藩を決意します。
1863年
勝海舟と出会う
勝海舟との出会いで、龍馬の考えは徐々に変わります。今の日本の状況、世界の状況、そして開国の重要性などを勝海舟に説かれ、龍馬は勝の弟子となります。ここから海軍の設立を夢見るようになります。
1864年
西郷隆盛との出会い
神戸海軍操練所が閉鎖して途方に暮れていた龍馬たちを助けたのは西郷隆盛でした。ただの浪人集団であった龍馬たちを、西郷は「胡蝶丸」に乗せて、薩摩藩へ向け送り出しました。そしてここから亀山社中設立へ向かいます。
1864年
おりょうと結婚
龍馬は海軍の設立に奔走している中、京都で後の伴侶となる「おりょう」と出会い、そして1864年に結婚する事になります。龍馬が30歳、おりょうが24歳になる時です。

この時2人は鹿児島・霧島へ新婚旅行へ行きますが、これが日本で初めてのハネムーンと言われています。おりょうが、襲撃にあった龍馬を窮地から救った寺田屋事件などが有名。

1865年
亀山社中を設立
西郷の支援を受けた龍馬は、貿易商社と私設海軍を兼ねた日本初の株式会社と言われる亀山社中を設立します。この会社は、薩摩と長州の仲介役として活躍します。
1866年
薩長同盟を結ぶ
龍馬の最大の功績と言われるのがこの薩長同盟です。犬猿の仲だった両藩を、龍馬を筆頭とした亀山社中の働きもあり、同盟へと踏みきらせます。

何かしらのきっかけがあれば、薩摩も長州も協力をして倒幕=改革を目指すという方向に動いてもおかしくない状況を、龍馬が仲介役となり結びつけたのです。ここから一気に倒幕の動きが加速します。

1867年
亀山社中から海援隊へ
亀山社中が、龍馬の土佐藩への復帰を機に、龍馬を隊長として「海援隊」へと改名されます。基本的な活動内容は亀山社中と変わりません。
1867年
龍馬、31歳で死去。〜近江屋事件〜
慶応3(1867)年11月15日、坂本龍馬は京都の近江屋にて暗殺されます。諸説ありますが、実行犯は、京都見廻組の今井信郎が有力とされています。

坂本龍馬の具体年表

1835年
土佐に命を授かる

1835年、土佐にて生まれる

坂本龍馬は天保6年(1835年)、土佐藩の町人郷士・坂本家の二男として誕生しました。兄弟は5人いて、末っ子に当たります。 
 
家族構成は以下の通りです。

  • 父:八平直足
  • 生母:幸
  • 義母:伊与
  • 長男:権平直方
  • 長姉:千鶴
  • 二姉:栄
  • 三姉:乙女
  • 二男:龍馬

幼少期の龍馬は気が弱く、どちらかというと臆病な性格で、11歳になる頃までおねしょをしていたとも言われており、それもあってか近所の子からよくからかわれていたそうです。後に果たす大偉業の数々を考えると、意外ですよね。 
 
大河ドラマの龍馬伝では、この幼少期に、後の三菱財閥創業者となる岩崎弥太郎と出会っている設定になっていますが、記録としては海兵隊で初めて出会ったともされています。 
 
実際、龍馬が生まれた土佐藩(高知市)と弥太郎が生まれた安芸市は40キロも離れている為、大河ドラマはフィクションだったと考えられますね。ちなみに、新選組の「土方歳三」は龍馬と同い年に当たります。まさに黄金世代ですね。

1849年 - 14歳
剣術を学び始める

剣術道場で才能を開花させ始める

12歳になった龍馬は楠山塾(なんざんじゅく)へ通い始めます。しかし、その塾はすぐに退塾してしまったと言われています。理由は「出来が悪くて辞めさせられてしまった」「塾生と口論になって辞めた」など諸説ありますが、すぐに辞めてしまったのは事実なようです。
 
そんな龍馬が、のちに天下に名を轟かせるような人間へ成長する第一歩となったのが、14歳から学び始めることとなった「剣術」です。
 
下士の習う小栗流和兵法を習い始めた龍馬は勉学とは違いみるみるうちに剣術の才能が開花していったそうです。そしてそのまま剣術を極めていき、19歳の頃には「小栗流和兵法目録」を授与され、次第に有名になっていきます。
 
そして同年嘉永6年3月、19歳の龍馬はさらなる剣術修行を積むため、道場から一年三ヶ月の休暇をもらい江戸へと旅立つことになるのです。

1853年 - 19歳
いざ江戸へ

江戸三大道場、玄武館へ入門

19歳で江戸に旅立った龍馬が、さらに剣術に磨きをかけるために入門したのが、江戸三大道場の一つとも言われる玄武館です。これは北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の道場で、龍馬が入門したのは弟の「千葉定吉」が開いた道場と言われています。
 
そこで龍馬は塾頭になり「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたと言われていますが、実はこれは剣術の方ではなく、薙刀(ナギナタ)のものだということが最近の研究によってわかったそうです。
 
龍馬に関して様々な本やドラマ、映画がありますが、確かに新撰組のような一流の剣客のようには描かれていませんよね。ただ、そこまでの剣客ではなかったとしても、江戸三大道場の一つで塾頭をしていたそうなので、腕はそれなりであったと予想できます。
 

黒船来航

龍馬が江戸について2ヶ月ほどたった頃、相模国浦賀沖に、当時日本人が誰もみた事もないような異形の戦艦が姿を表しました。
 
そう、ペリーが来航した「黒船」ですね。この黒船来航は幕府や当時の各藩の志士たちに衝撃を与え、江戸が騒然となったと言います。
 
そしてその際、龍馬は幕府の招集を受けて品川沿岸の警備に当たっていたようですね。9月13日に父・直足に送った手紙に「異国船御手宛の儀 まず免ぜられ候」とあり、3ヶ月ほど沿岸警備に当たっていたことが分かります。
 
そこで龍馬はこれからアメリカとの戦いが近づいていると悟り、攘夷論に闘志を燃やしていたそうです。
 

攘夷論とは
幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想の事
1854年 19歳
鎖国終了...そのとき龍馬は

鎖国終了。龍馬、象山の塾へ入門

1度目の黒船来航で、将来的にアメリカと戦争になる事が予想された事もあり、龍馬は佐久間象山の塾へ入門し、「砲術」を学び始めます。これが嘉永6年12月1日。
 
この時実は吉田松陰や勝海舟なども同じ佐久間象山で砲術を学んでいたとされていますが、認識はしていなかったのではないかと言われています。
 
そしてそれから1ヶ月半ほどが経過し、年号が安政へと変わった1月16日、再びペリーを乗せた黒船が江戸湾に姿を現しました。
 
2度目の黒船上陸です。1度目の上陸からなんとかやり過ごそうとしていた幕府ですが、とうとうこの2度目の来航で、200年も保ってきた鎖国が終わる事となったのです。
 

1854年 19歳
龍馬、土佐へ帰国。そして出会い

ジョン万次郎と河田小龍

龍馬が江戸で黒船を目の当たりにしている頃、土佐では太平洋を渡っていた元漁師のジョン万次郎が土佐に帰国していました。
 

 
彼は漁の最中に遭難してしまっていたのですが、アメリカの捕鯨船に救助され、その船長に養ってもらっていたのです。万次郎はそこで英語を身につけ、測量や航海術、造船技術などを学んだり、当時の日本にはまだ浸透していない民主主義や男女平等など、アメリカの最先端の概念を学びました。
 
12年間のアメリカ生活を体験し、土佐に帰国したジョン万次郎は、その間にほとんど日本語も忘れてしまっていたようで、土佐でも土佐藩に取り締まりを受けるなどされたそうです。そこで意思疎通の為に呼ばれたのが、河田小龍です。
 
彼は儒学や蘭学に精通する知識人で、次第にジョン万次郎と意思疎通ができるようになりました。そこで小龍はジョン万次郎からアメリカの様々な文化を聞き、非常に非常に驚いたそうです。
 

龍馬と河田小龍

1854年に龍馬は土佐へ一時帰国しました。江戸で大砲術を学んだ龍馬は、更に見識を深める為、当時最先端の知識を持っているとされていた小龍を訪れるのです。
 
そし小龍から、アメリカの現状を聞いた龍馬は、その差に落ち込むどころか手を叩いて喜んだと言われています。この当時から坂本龍馬という男のスケールの大きさが垣間見得ますね。ここで龍馬は将来の自分が進むべき道を見据えたのです。
 
※ちなみに、坂本龍馬とジョン万次郎は直接面識がなかった(面識があったという見聞はない)とされています

1856年 20歳
再び江戸へ。その頃幕府は..

龍馬の父、死去。そして再び江戸へ

安政2年(1855年)、龍馬が敬愛していた父、坂本八平が亡くなってしまいます。父を敬愛していた龍馬はこの時から数日間食事も取れないほどに落ち込んだそうです。
 
父、八平にとっては年を取ってからの子だった龍馬。おそらくとっても可愛がっていたのでしょう。それだけに龍馬の心の傷を大きかったのかもしれませんね。
 
兄である坂本権平が跡を相続することに決まったのが安政3年2月。それと同年に龍馬は再び武術修行の為、江戸への遊学希望を藩へ申し出ます。そして藩から約1年間の遊学を許可された龍馬は、安政3年8月、再び江戸へと出立するのです。
 

激動の政局

龍馬が再び江戸へ立つ頃、江戸幕府内は激動とも言える政局を迎えていました。大老に就任した井伊直弼が強権政治を行なっていたのです。
 

 
開国派である井伊直弼に夜、尊王攘夷派(鎖国派)への弾圧が始まり結果として安政の大獄という最悪の結果を招く事になります。
 

安政の大獄とは
江戸幕府(井伊直弼)が尊王攘夷派に対して加えた過酷な弾圧の事。前例のない過酷な刑が井伊の裁決によって下され,鵜飼吉左衛門父子,吉田松陰,頼三樹三郎,橋本左内ら8人が獄門,打首,切腹に処された。この弾圧は後に桜田門外の変を引き起こす事になる
 
この弾圧によって水戸藩士らの怒りをかった井伊直弼は、安政7年、「桜田門外の変」で暗殺されることとなりました。このような時勢で龍馬は2度目の江戸遊学を終え、再び土佐へ戻り、今度は学問を学び始めたようです。そしてそこで「土佐勤王党」と出会うこととなります。
 
1862年 - 27歳
土佐勤王党と坂本龍馬、そして脱藩..

土佐勤王党と坂本龍馬

当時、どちらかというと尊皇攘夷の考えにあった龍馬は土佐勤王党と接触します。
 

土佐勤王党とは
土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。坂本龍馬も9番目にその名を連ねていた。
 
龍馬も土佐勤王党の志に感銘を受け、その一員として名を連ねていました。しかし、程なく龍馬はこの結社とは合わないと気づきます。というも、彼らは目的の為なら手段を選ばないような過激派だったのです。
 
そんな土佐勤王党が目をつけたのが吉田東洋です。土佐勤王党は、世襲制の廃止、身分によらない人材登用などを掲げ、藩政改革を行なっていた吉田東洋を「正義のため」という建前を立てて、暗殺しようと計画するのです。
 

画像:吉田東洋
 
正義のために殺害をも辞さないといった過激な考えに龍馬は疑問を覚え、結果として龍馬は早々に土佐勤王党と別れるのでした。

龍馬、脱藩

そして龍馬はとうとう脱藩を決意します。攘夷論だった龍馬ですが、少なからずその気持ちは抱きつつも、より大きな構想を抱いていた龍馬にとってはそれが最良の選択肢だったのでしょう。
 
脱藩はある種、密出国とも言える行為で時には討手が放たれたりすることもあったくらい、危険な行為でした。それもあり、龍馬の脱藩の雰囲気を感じ取った際、兄の坂本権平は刀を隠したりして脱藩を妨害しました。
 
しかし、龍馬は姉である乙女から刀を受け取ったり、親戚から路銀(旅費の事)を借りたりし、とうとう脱藩するのです。
 
土佐→野村→河辺→五十崎→長浜→下関というルートを通り、沢村惣之丞と共に難路をひたすら歩きます。このルートは当時脱藩者がよく使うルートだったと言われています。
 
そして薩摩、京都を経由し、江戸での剣術修行の際にお世話になった千葉定吉の道場を目指します。

1863年 - 28歳
勝海舟との運命の出会い

松平春嶽の計らい

江戸へたどり着いた龍馬は、第8代将軍吉宗の次男を祖とする田安徳川家の3代目で、越前福井藩主である松平春嶽(まつだいら しゅんがく)を拝謁する事となります。
 

画像:松平春嶽
 
当時の龍馬はいわば「ただの脱藩志士」。そのような身分の龍馬が、どうやってこれほどの人物と会うことができたのか?諸説ありますが、その要因はいまだにわかっていないそうです。
 
現状で有力な説とされているのは、龍馬の通っていた道場の師範千葉貞吉が、福井藩の剣術指南役を務めており、その伝手で会ったと言われています。
 
龍馬と会った何かを感じ取った春嶽は、勝海舟と福井藩の顧問をしていた横井小楠に紹介状を書いたそうです。もしも春嶽がいなければ、龍馬が勝海舟と会うこともなかったので、この出会いは歴史的にも非常に大きいものですね。
 

ターニングポイントとなる勝海舟との出会い

そしてとうとう龍馬は自身の人生の中で最も大きなターニングポイントとなったであろう勝海舟と出会います。
 

画像:勝海舟
 
勝海舟は日米修好通商条約のために咸臨丸(かんりんまる)で船長として太平洋を渡り、アメリカに行き無事に帰国したことがある人物です。
 
当時まだ尊王攘夷主義者で会った龍馬は(土佐勤王党の行き過ぎた考えには疑問を抱いていましたが、あくまで当時の龍馬は攘夷派でした)、そんな勝海舟に対して、初めは攻撃的な態度で接したそうです。
 
しかし、今の日本の状況、世界の状況、そして開国の重要性などを勝海舟に説かれ、龍馬はすっかり勝の話に夢中になります。
 
「海軍を作って積極的に貿易し、力をつけて国を守っていく」という勝海舟の壮大且つ先進的な考えに感銘を受けた龍馬は勝の弟子となるのです。
 
このような柔軟性も龍馬が大成した理由の一つなのでしょう。そしてこの出会いが、龍馬の活躍の場を広げていく事となります。

1864年 - 29歳
坂本龍馬、海軍を思い描き奔走

海軍組織を作るため奔走する龍馬

「世界各国が日本を植民地にしようと迫ってくる中、日本は貿易を行い、国力をつけなければならない。そのためには海軍が必要になる」このような考えを持っていたであろう勝海舟。そしてその考えに同意だった坂本龍馬。この2人がここから海軍を作るために奔走します。
 
まず、海舟の提案により、幕府によって神戸の小さな港町に「海軍操練所」が作られました。これは海軍士官養成と、軍艦の造船が目的でした。幕府の支援もあり、海舟の海軍構想が進んでいく中、龍馬は海軍の発展に関与しつつも、海舟の元でもう一つの計画に奔走していたのでした。
 

私塾を立ち上げ、塾頭として奔走

幕府海軍操練所はあくまで幕府のもの。つまり、幕府の力が弱体化してしまえば海軍操練所は閉鎖してしまい、そうなるとこれまで培ってきたものが引き継がれず無駄になってしまいます。
 
しかし、「日本には絶対に海軍が必要」と考えていた海舟と龍馬。そこで出た行動が、「海舟塾」という私塾の立ち上げです。幕府が衰退したとしても、日本に海軍が残るよう、私塾を立ち上げ、若者たちを集ったのです。
 
この海舟塾には望月亀弥太、沢村惣之丞、高松太郎や、河田小龍の門下生だった近藤長次郎、新宮馬之助、土佐勤王党に属し暗殺をしていた「人斬り以蔵(岡田以蔵)」などなど、これまで龍馬が関わったであろう数多くの若者が入塾します。
 
そして、そこで後に亀山社中、海援隊と発展していく土台を築いていくのでした。
 

1864年 - 29歳
京都での動乱、そして海軍操練所が閉鎖

京都での数々の動乱

時を同じくして、龍馬が海舟塾の塾頭として奔走している中、京都では「池田屋事件」「禁門の変」といった、時代の風向きを変えるような大事件の数々が起こっていました。
 

池田屋事件とは
1864年7月8日に、京都三条小橋の旅籠・池田屋で起きた新撰組による長州・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃した事件。この事件の最中、新撰組の沖田総司が肺結核で吐血し、そのあと戦線離脱したのが有名な話。
 
禁門の変とは
池田屋事件を受けた長州藩が京都守護職の追放を掲げて藩兵が決起し、起こった紛争。しかし、薩摩藩兵の来襲により長州藩は敗退する
 
このような事件が頻発し、尊皇攘夷派の志士たちは幕府から睨まれるようになっていました。

海舟塾は直接関係なかったが..

もちろん「海舟塾」はこれらの事件とは直接的には関係ありませんでした。
 
しかし脱藩者や反幕府派の人間なども広く受け入れていたという事や、池田屋事件では塾生だった望月亀弥太が新撰組と斬り合ってしまっていた事などもあり、勝海舟は幕府保守派から幕府軍艦奉行を罷免されてしまうのです。
 

龍馬、海軍操練所の閉鎖で行き場を失う

これと同時に、神戸海軍操練所も閉鎖してしまうのです。もともとこの海軍操練所を幕府のもの。幕府に睨まれたら仕方ありません。
 
結果として、龍馬と海舟の海軍設立の夢はここで頓挫してしまい、塾生たちも行き場を失ってしまう形となってしまいます。
 
ここから龍馬たちはどうしていくのでしょうか??

1864年 - 29歳
窮地を救った西郷隆盛との出会い

龍馬、海舟の使いとして西郷隆盛と出会う

神戸海軍操練所が閉鎖してしまう少し前、実は龍馬は海舟の使いとして西郷隆盛と出会っているのでした。
 

画像:西郷隆盛
 
西郷は倒幕派、海舟は幕府派でしたが、もともと日本の海軍の遅れを気にしていた西郷隆盛は勝海舟と対策を語りあっていたとされています。
 
最初に西郷に会った龍馬は、

西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした。

 
と言ったそうです。撞木とは龍馬自身の事。謙虚な龍馬ですが、西郷の器の大きさは計り知れないものがあったのかもしれませんね。
 
そしてその少し後、神戸海軍操練所の閉鎖で路頭に迷っていた龍馬と塾生に救いの手を差し伸べるのがこの西郷隆盛なのです。

龍馬と塾生を救った西郷隆盛

神戸海軍操練所が閉鎖して途方に暮れて読書三昧だった龍馬たち。そこで龍馬は西郷率いる薩摩藩を頼ることにします。
 
薩摩藩からすれば、いくら幕臣の勝海舟からの紹介といえ、本当にただの浪人集団です。しかし西郷は薩摩藩邸に龍馬を含めた塾生達をかくまい、そして薩摩藩所有の蒸気外輪船「胡蝶丸」に乗せて、薩摩藩へ向け送り出したのでした。
 
ここでも西郷隆盛という男の器が感じ取れますね。

1864年 - 29歳
お龍と結婚、そしてハネムーン

後の伴侶、おりょうとの出会い

時は少し戻りますが、龍馬は海軍の設立に奔走している中、京都で後の伴侶となる「おりょう」と出会います。
 

画像:おりょう
 
おりょうは生まれは裕福ながらも、父である楢崎将作が亡くなってからは生活が困窮し始めました。5兄弟の長女であるおりょうは、当時家族の生活を守るために奮闘していたのです。
 
おりょうの父、楢崎将作はもともと勤王活動をしており、そこで龍馬とは知り合っていました。その繋がりで龍馬とおりょうは出会ったんですね。
 
そして生活に困っていたおりょうの事を気にかけていた龍馬は、当時自分が懇意にしていた伏見の寺田屋のお登勢に、生活に困窮していたおりょう一家の面倒を依頼します。龍馬自身が寺田屋を拠点としていた事もあり、2人は次第に親密になっていきます。
 

龍馬結婚、そしてハネムーン

そして1864年、2人は結婚します。龍馬が30歳、おりょうが24歳になる時です。
 
そこから2人は龍馬の療養を兼ねて鹿児島・霧島に新婚旅行に行きます。実はこれが日本初のハネムーンとも言われているんですね。(こちらも諸説あります)
 
この後、2人にとっては激動ばかりだったので、この新婚旅行は2人にとって最初で最後の落ち着いた時期だったのかもしれません。

寺田屋事件

おりょうは非常に美人と言われています。(龍馬伝では薪用、西郷どんでは水川あさみさんが演じてましたね)しかし、きっと龍馬がおりょうに惚れ込んだのは、男気とも取れる心意気でしょう。
 
1866年、京都の寺田屋で、長州藩の三吉慎蔵といた坂本龍馬が襲撃された時、入浴中のおりょうが裸のまま龍馬達のいた二階に駆け上がって知らせたことで、龍馬達は危機を逃れたという「寺田屋事件」はとても有名ですよね。
 
そういった行動力や心意気も龍馬の心を打ったことでしょう。

1865年 - 30歳
龍馬、亀山社中を設立する

西郷の支援を受け、龍馬前進

そもそも、薩摩藩が海舟塾の人間達を受け入れたのは、もちろん西郷隆盛の器の大きさもありますが、当時の薩摩藩自身が攘夷など到底無理だと考えていたからとも言われています。
 
というのも、薩摩藩が龍馬たちを保護する少し前、薩摩はイギリスと戦争を経験していました。これは薩英戦争と呼ばれています。
 

画像:薩英戦争の様子
 
両者大きな被害を出し、すぐに鎮火した戦争ですが、イギリスが薩摩の軍事力を評価したと同時に、薩摩も海外の軍事力を大きさを思い知ったんですね。そのような経験をした薩摩だからこそ、攘夷は夢物語だと考えていたのかもしれません。
 
そのような経緯もあり、海軍設立に奔走していた龍馬たちに救いの手を差し伸べたとも予想できます。
 
そして、薩摩でまた海軍設立に向けた動き出した龍馬は、頻繁に貿易が行われ、海外との交流も多い長崎に目をつけ、貿易商社と私設海軍を兼ねた日本初の株式会社と言われる会社を設立したのでした。
 
これが有名な「亀山社中」です。

坂本龍馬と亀山社中


引用元:長崎旅ネット
 
こうして設立された亀山社中は、もちろん海軍を発展させる目的もありましたが、今で言うところの「商社」のような色が強い会社でした。
 
長州藩の為に薩摩藩名義でグラバー商会(長崎を拠点として商いを行なっていたイギリス人、グラバーが設立した商会)と取引し、ユニオン号や銃器などを購入、運搬を行なっていました。
 
当時長州藩では下関戦争が起こっていた為、どうにかしてでも最新の武器を手に入れる必要があったんですね。その仲介を龍馬率いる亀山社中が行なっていたのです。逆に、当時米が必要だった薩摩藩には、亀山社中が間に入り、長州藩から米を買い、薩摩に渡していました。
 
亀山社中が間に入る事により薩摩、長州が互いに助け合う形になった為、禁門の変以、来犬猿の仲だった薩長のわだかまりを溶かしていったと言われています。
 
このように薩摩と長州の仲を取り持ったことが、亀山社中の一番の功績だったと言えるかもしれません。

1866年 - 31歳
龍馬最大の功績、「薩長同盟」へ

薩摩と長州が犬猿の仲だった理由

当時の薩摩藩は開国を進めていた幕府に賛同しながら、幕政改革を求めていたので、どちらかといえば幕府よりの立場を取っていました。一方長州藩は日米修好通商条約を破棄し、外国の完全排除を唱える反幕府の立場を取っていました。
 
つまり、もともと立場が違うところにあったのです。
 
そんな中、当時京都での発言権を強めていた長州でしたが、あまりに過激なやり方から京都を追い出されてしまいます。その状況を打破しようと京都を襲った長州藩に対し、薩摩藩が迎え撃ち討伐した「禁門の変」が起こり、両者には修復できない溝が生まれてしまっていたのです。
 

画像:禁門の変
 
ここから長州藩は倒幕を掲げ始めます。
 
長州藩は敵が多く大変な状況ではありましたが、その勢力はとても大きいものでした。また、薩摩藩も幕府に対して全面信頼をしていたわけではなく、改革をなかなか進めない幕府に対して不信感を持っていたのも確かです。
 
なので、薩摩藩としては、「長州とは戦いたくはないが幕府の事を裏切ることもしずらい」と言うのが本音だったでしょう。
 
つまり、何かしらのきっかけがあれば、薩摩も長州も協力をして倒幕=改革を目指すという方向に動いてもおかしくない状況だったということですね。

龍馬が仲介役になり、薩長同盟が結ばれる

そして、このきっかけを作ったのが坂本龍馬です。薩摩、長州の溝が深まっている中、亀山社中という仲介がいた事により、両者は次第に距離を近づけ始めます。
 
しかし、もちろんお互い長い間犬猿の仲でしたし、どちらも大きな藩だったのでメンツもあります。なかなか一筋縄ではいきません。それでも龍馬は諦めず、亀山社中を仲介として両藩に話し合いの場を提供します。
 
両者の会談は、対面後10日間も膠着していたといいます。
 
しかし最終的には6か条の提示を長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が飲む形となり、薩長同盟が結ばれたと言います。
 

画像:桂小五郎(木戸孝允)
 
ちなみに、

長州藩は自分から言い出せない立場にいるから、薩摩藩が男を見せてやれ

と龍馬が西郷に言ったことで、西郷が同盟の話を切り出したとも言われています。(諸説あります)
 
こうして両藩は結託し、ここから倒幕の流れが加速していくのでした。

薩長同盟の6か条


画像:薩長同盟の6か条
 
以下、薩長同盟で結ばれた6か条の内容になります。

一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事
一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事
一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事
一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事
一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事
一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり

これを噛み砕いていうと、

  • 長州藩と幕府が戦う場合、薩摩藩は援軍を出す
  • 長州藩が不利になる場合、薩摩藩は朝廷に和睦を働きかける
  • 長州藩が幕府に勝利したら、薩摩藩は朝廷に長州藩の無罪を訴える
  • 長州藩が不利になる場合でも、半年〜1年は持ちこたえるよう努力する
  • 幕府が会津藩、桑名藩と共に戦う姿勢を示すなら、薩摩藩も幕府と戦う
  • 長州藩の名誉回復がなされたら、日本の為に共に力を尽くす
1867年
亀山社中から海援隊へ

龍馬、海援隊を設立する

薩長同盟という功績を残した残した亀山社中は「海援隊」と名前を変えてリニューアルされます。隊長はもちろん坂本龍馬。
 

画像:海援隊結成時
 
活動内容は亀山社中の頃とほとんど変わりませんが、同年、慶応3年(1867年)に龍馬の土佐藩からの脱藩が許され、土佐藩籍に復帰し藩付属の商社となった事が違いと言えるでしょう。

海援隊の主なメンバー

  • 坂本龍馬…海援隊隊長
  • 沢村惣之丞
  • 佐々木高行
  • 長岡謙吉
  • 石田英吉
  • 坂本直(高松太郎)…龍馬の甥
  • 菅野覚兵衛
  • 新宮馬之助…龍馬の近所で生まれた、幼馴染。
  • 池内蔵太
  • 安岡金馬
  • 野村維章
  • 中島信行
  • 近藤長次郎…龍馬の家の近くで饅頭屋を営んでいた
  • 吉井源馬
  • 坂本清次郎…龍馬の親戚

 
上記が土佐藩の主な海援隊メンバーです。これ以外にも他の藩の人間が多数在籍していました。

1867年 -31歳
1867年11月15日、龍馬3暗殺〜近江屋事件〜

龍馬、31歳で暗殺される

慶応3(1867)年11月15日、非情にもにも坂本龍馬は暗殺されてしまいます。
 
様々な功績を残した坂本龍馬ですが、なぜ殺されなければいかなかったのでしょうか?そして誰にどんな目的で殺されたのでしょうか?
 

龍馬が暗殺された場所


引用元:Wikipedia
 
坂本龍馬は近江屋という河原町の蛸薬師で醤油商を営む店で、中岡慎太郎、山田藤吉と共に複数の視覚によって殺されてしまいました。
 
薩摩藩の定宿である寺田屋が急襲されたこともあり、近江屋で中岡慎太郎らと会っていたそうです。

暗殺時の状況

風邪を引いていた龍馬は、普段使っていた土蔵から母屋の2階に移動していました。
 
龍馬と中岡は火鉢を囲み話込んでいた所、十津川郷士(または松代藩士)を名乗る客が訪れました。その取次を行なった用心棒の山田藤吉が二階へ上がろうとすると、その時に暗殺者に切られてしまいます。
 
その物音が聞こえた龍馬は、山田藤吉がふざけたと思い、「ほえたな!」と自ら声をあげたそうです。しかしその声で暗殺者に居場所がわかってしまい、部屋に侵入されます。
 
額を切られた龍馬は即死だったそう。龍馬も剣術はそれなりの腕だった為、相当な使い手であったのでしょうか。一説には龍馬はその時帯刀していなかったとも言われています。
 
一緒にいた中岡慎太郎も切られてしまいますが、どうにか逃げます。しかし傷が深く、この二日後の息絶えてしまいました。しかし中岡のこの2日間があったからこそ、龍馬の最後の証言が得られたのですね。

誰が殺したのか?

結論から言うと、誰が殺したのか?は謎に包まれたままです。
 
一説には新撰組、一説には薩摩藩、また一説にはイギリス人と言う噂もあるそう。ただ最も有力なのは、

  • 黒幕..会津藩主・松平容保
  • 実行犯..京都見廻組・今井信郎

と言われています。
 
京都見廻組は簡単に言えば京都の警察のようなものです。新撰組と似ていますが、元々武士だった人たちが集まっているため、身分は見廻組の方が上になります。
 
確かに、幕府軍から反感を買っていたであろう龍馬の立場を考えると、この京都見廻組が一番有力なのかもしれません。実際、今井信郎はこの件について自白し、刑に服している為、確定的ではあります。
 
しかし、その今井信郎の証言には一貫性がなく、曖昧なところも多い点や、中岡慎太郎が生前に話した事件の内容と異なることも多く、この説に疑問を持つ人も少なくありません。真相は闇の中ですね..。

なぜ殺されたのか?

これだけ時代を作った坂本龍馬ですから、いろんな所に敵を作ってしまっていたのでしょう。
 
特に、薩長同盟の仲介をしたことによる幕府からの反感を大きかったでしょう。薩長同盟がなければ倒幕運動も、大政奉還もなかったはずですからね..。
 
そう考えると、一番しっくりくるのは幕府による腹いせで、幕府側の人間に暗殺されてしまったということになるかと思います。
 
とにもかくにも、これからの新しい時代を見たかった龍馬は道半ばで命を落としてしまったことはさぞ悔しかったことでしょう。
 
これだけの人物を31歳で失うのは勿体無さすぎます。明治の時代を生きて欲しかったですね..。