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宮沢賢治の生涯年表を簡単解説!作品も時系列で紹介

宮沢賢治の年表を解説していきます。

宮沢賢治の簡単年表

1896年
花巻町に生まれる

8月27日花巻町に出生します。父政次郎、母イチの長男で、家業は祖父が開業した質・古着商でした。2年後に妹トシが生まれます。

1914年
法華経との出会い

元々仏教の信心深い家庭で育った賢治ですが、18歳のときに島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感銘を受けます。これが生涯、法華経信仰と共に生きていく始まりでした。

1921年
法華文学の創作
熱心な浄土宗教徒の父に改宗をせまっていましたが、上手くいかず家出し上京します。「法華文学」創作自活をし、この期間に多くの児童文学を作りました。
1922年
妹の死
農学校教諭として教鞭をとり、音楽・演劇好きの賢治は学校の精神歌や応援歌を作り自作劇を上演しました。病で弱っていた妹トシが11月27日に永眠します。
1923年
傷心旅行
トシの死後、樺太へ傷心旅行に行きました。挽歌群を作ります。
1924年
出版
心象スケッチ『春と修羅』を自費出版、童話集『注文の多い料理店』が刊行されました。
1926年
羅須地人協会設立
依願退職し下根子の別宅で独居自炊生活を始めました。私塾「羅須地人協会」を設立します。
1928年
発病
伊豆大島の伊藤兄妹を訪問しました。夏旱天で稲作指導に奔走し発病します。年末には急性肺炎になり体が弱ってきます。
死を意識する
病状が小康状態になり、砕石工場技師嘱託として働きます。石灰販売に精を出しますが、石上京中に発熱で倒れ、遺書を書きます。花巻に戻り療養生活をします。
1933年
死去
病床で最後まで肥料相談を行いました。9月21日急性肺炎のため永眠します。

宮沢賢治の具体年表

1896年 – 0歳「花巻に生まれる」

幼少期の賢治と妹・トシ

質屋の長男として誕生

1896年8月27日、宮沢賢治は岩手県花巻の質屋「宮沢商会」の長男として生まれます。賢治は5人兄弟で、弟が1人と妹が3人いました。兄弟仲がとてもよく、賢治は弟妹のことを幼いころから大切にしていたといわれています。

賢治の生まれた1896年は、東北地方に三陸大津波や陸羽大地震が起こった年です。なかでも陸羽大地震は賢治が生後4日のときに起こり、母・イチは生まれたての賢治の上にかぶさって必死で念仏を唱えていたといいます。

「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代

小さい頃、賢治は礼儀正しくおとなしい子どもだったといいます。また裕福な家の息子だったため、周りの家の子とも遊ばせてもらえなかったようです。ひとりで遊んだり、弟妹の面倒をみたりしていたのでしょうか。

小学校では成績優秀な優等生でした。3・4年生のときには、担任だった八木英三が話してくれた童話や民話に興味をもち、大人になって八木に再会したとき「このとき聞いたお話が自分の童話のもととなっている」と語っています。鉱石や昆虫・植物の標本作りを始めたのもこのころで、あまりに熱中する賢治を家族は「石コ賢さん」と呼んでいました。

1915年 – 19歳「盛岡高等農林学校に入学」

右上が宮沢賢治

恩師・関豊太郎と出会う

19歳のとき、現在の岩手大学農学部にあたる盛岡高等農林学校に入学します。実は、中学時代の賢治はあまり熱心ではない生徒でした。卒業したときの成績は88人中60番、よく不平や不満をこぼすタイプの青年だったのです。

けれども、高等農林で農学博士の関豊太郎と出会ったことで賢治は人が変わったかのように勉学に夢中になります。入学した年の終わりには特待生となり、主任教授の関は賢治を将来的に助教授に推す準備をするほどでした。

同人誌『アザリア』創刊

農林学校3年生のときに、宮沢賢治は親友の保坂嘉内、小菅健吉、河本義行らと中心となって同人誌「アザリア」を創刊します。この文芸雑誌は短歌や詩、短編小説など何でもOKの自由な同人誌でした。1917年7月から翌年の6月まで、1年間のみの活動だったのですが全部で6号を発行しています。

賢治は短歌を寄稿しています。このころはまだ童話を書いていませんでした。賢治は旅に出るたびに短歌を作り、「アザリア」で発表しました。

1921年 – 25歳「家出同然の上京」

当時の東京

国注会に入会

高等農林時代、法華経に傾倒した賢治は、父の政次郎とたびたび宗教上の問題で揉めていました。当時、宮沢家は浄土真宗を信仰していました。父に改宗するよう求めていたのですがうまくいかず、賢治は1921年にまるで家出のように上京します。

上京した賢治はそのまま国注会館を尋ねました。国注会は日蓮主義の教団で、賢治は出版社で校正の仕事をしながら街での布教活動に励みます。童話を一心不乱に書きはじめたのもこのころです。

妹・トシの病、帰郷

宮沢賢治の妹・トシは1915年に日本女子大学校に入学するため上京していたのですが、3年生のときに肺湿潤で入院しました。2ヶ月の入院後、賢治や母・イチなどに花巻に帰郷しています。

その後、トシは母校である花巻高等女学校の教員となったのですが完全には病気が治っていませんでした。賢治は上京した年の8月に、トシの病の電報を受け取って帰郷することになります。

1922年 – 26歳「稗貫農学校教諭となる」

教員時代に撮った肖像

授業について

1921年12月、賢治は稗貫農学校の先生になりました。風変わりな授業をする先生として評判で、学校の精神歌や応援歌を作ったり、自作のオペレッタを上演したりもしています。最初は乗り気ではなかった教職でしたが、生徒と一緒になって楽しみながら教育を実践していたようです。
童話も引き続き書いていて、この年に『愛国婦人』という雑誌に「雪渡り」という童話を発表しています。掲載時にもらった5円が、賢治が生前に得た唯一の原稿料です。

最愛の妹・トシの死

1922年11月27日、1年ほど前から闘病していたトシが24歳の若さで亡くなります。最愛の妹を失ってしまった賢治は深く悲しみ、その気持ちを「永訣の朝」「無声慟哭」などの詩に残しました。

宮沢家は浄土真宗だったため、日蓮宗の賢治はトシの葬儀には参列しませんでした。しかし火葬するときにふらりと現れ、朗々とした声で法華経を読み上げていたそうです。それから半年間、賢治はまったく詩を書きませんでした。

1924年 – 28歳「初めての出版」

『注文の多い料理店』初版

生前唯一出版された2冊

1924年、28歳のときに宮沢賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を出版します。発行は東京の関根書店となっていますが、実際は賢治の自費出版でした。北原白秋や高村光太郎などに献呈したのですが何の反応もなく、批評紹介もされなかったようです。

さらに12月には童話集『注文の多い料理店』が出版されました。発行は東京光原社という出版社だったのですが、印税は現金ではなく100部もらったのみでした。こちらも売れなかったので、賢治は父からお金を借りてさらに200部買い取りました。

1926年 – 30歳「退職、羅須地人協会の設立」

復元された羅須地人協会

農民団体「羅須地人協会」

1926年、宮沢賢治は4年間勤めた農学校を退職し、宮沢家の別宅に1人暮らしを始めました。野菜や花を育て、執筆をし、晴耕雨読の日々を送ります。そして8月に設立したのが「羅須地人協会」です。

この協会は「新しい農村の設立」を目指して作られたもので、賢治は農民に土壌学や植物生理科学などの講習をしたり、農民オーケストラをしようとチェロなどを練習したりしていました。講義にはエスペラント語もあったというから驚きです。

1928年 – 32歳「病に倒れる、協会の解散」

協会の玄関には賢治の伝言が

羅須地人協会の解散

農民のために東奔西走していた宮沢賢治でしたが、1928年の8月に発熱、両側肺湿潤の診断を受けます。実家に戻って静養することになり、羅須地人協会の活動も終わります。

活動終了の引き金となったのは賢治の病気発症だったのですが、協会はそれまでにも社会主義運動を疑われて警察の取調べを受けるなど社会と相容れないことが多々ありました。何よりも、賢治が農民のことを思ってしていた活動が当の農民たちにあまり受け入れられなかったということもあります。農民たちから見たら賢治の活動は「花巻の変わり者のお坊ちゃんがしている農作業ごっこ」だったのです。

賢治は失意のなか花巻に帰ることになります。

1931年 – 35歳「石灰を売るセールスマンになる」

旧東北砕石工場

病状が回復し、東北砕石工場の技師として働く

静養生活を送るなかでも、賢治は肥料の相談に応じたり、詩を書いたりしていました。1931年、病状が軽快した賢治はかねてより肥料相談に来ていた鈴木東蔵が工場主を務める東北砕石工場の技師になります。石灰を売るセールスマンとなり、ここでもまた奔走します。

しかし頑張りすぎたのか、石灰の宣伝のため訪れていた東京で再び発病してしまいます。このときは両親に遺書を書き、東京から父の政次郎に「最後に声が聞きたい」と電話をかけています。驚いた政次郎は迎えを手配し、花巻に連れ戻された賢治は再び療養生活を送ることになります。

1933年 – 38歳「自宅で亡くなる」

宮沢賢治の墓

死の前日まで農民の相談に乗る

宮沢賢治は病床でも農民の相談に応じていました。また、詩や童話の推敲をしたり、短歌を書いたりもしています。1932年には『児童文学』という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表しました。

しかしその翌年の9月、花巻のお祭りを軒先から見物した後に病状が急変します。肺炎と診断され、一時は持ち直し肥料相談に応じたものの、21時の午前11時30分ごろ血を吐きます。父に「国訳妙法蓮華経」を1000部刷って知人に分け与えてほしいと遺言を残し、午後1時30分に永眠しました。

「遺言を伝えたとき、父の政次郎から「お前もなかなか偉い」と言われた賢治は弟の清六に「俺もやっと父に褒められることができた」というようなことを言ったといわれています。葬儀には2000人以上の人が来て、賢治の死を悼んだそうです。

宮沢賢治の年表まとめ