森鴎外に子供や子孫はいるの?3息子2娘の経歴や名前の由来を詳細解説

森鴎外がドイツに留学していたときに、本名の「森林太郎(りんたろう)」という名前は周囲のヨーロッパ人から呼ばれにくく、苦労したという話があります。「子供は外国人からも呼ばれやすい名前にしよう」という鴎外の親心によって、5人の子供たちには欧米人にも馴染みのある名前がつけられました。子供たちはそれぞれ目覚しい活躍を残しているのですが、ご存知でしょうか?

この記事では、1人の人間としての森鴎外に興味をもつ筆者が鴎外の子供たちや子孫についてご紹介します。名前の由来やそれぞれの経歴について詳しく解説しますので、ぜひ「華麗なる一族」森鴎外一家を覗いてみてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

森鴎外の家族構成・家系図は?

森鴎外一家の家系図

森鴎外は父・静泰と母・峰子の間に生まれた長男です。3人兄弟で、下に弟と妹がいます。弟の篤次郎は劇評家で医者の三木竹二、妹は翻訳家で小説家の小金井喜美子です。

小金井喜美子の孫の1人はSF作家の星新一です。小学生のころ、星新一のショートショートに衝撃を受けたという人も多いのではないでしょうか。

鴎外には息子が3人、娘が2人いました。息子のうち長男は最初の妻・登志子の子供で、後の4人は2番目の妻・志げの子供です。さて、5人の子供たちはどんな人たちだったのでしょうか?

森鴎外の息子は?

森鴎外の子供たち

長男・於菟(おと)

「於菟」は「おと」と読むのですが、現代でもなかなか変わった名前ですよね。ドイツ人男性に多い「Otto(オットー)」という名前に由来していて、さらに寅年に生まれたことから中国の古書『左伝』に出てくるトラを意味する語「於菟」を当てたそうです。

於菟は1890年に生まれ、生後まもなく鴎外夫婦が離婚したため5歳まで歌人・平野万里の実家であったタバコ屋に預けられています。鴎外に引き取られた後は同居していた祖母・峰から厳しく熱心な教育を受けました。そのおかげか、解剖学を専門とする医学者になりました。

台北帝国大学(今の台湾大学)の教授をはじめ、東邦大学医学部教授なども務めています。また、兄弟のなかで最初に鴎外の回想記を出版したのが於菟でした。鴎外の2番目の妻・志げには可愛がられなかったようですが後ほどご紹介していく異母兄弟とは仲良く、1922年には長女の茉莉のヨーロッパ行きに同行しています。

次男・不律(ふりつ)

森鴎外の第三子で次男・不律は、残念ながら生後半年で亡くなっています。名前は「ふりつ」と読み、「Fritz(フリッツ)」というこちらもドイツ人男性に多い名前に由来しています。外国名を由来にもつといっても、息子の名前に「不」の字をつけるのはなかなか勇気がいるな…と筆者は感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。

不律は重い百日咳によって亡くなったのですが、容態があまりにも重篤だったため主治医と鴎外の母・峰が安楽死させたといわれています。このとき、後ほどご紹介する長女・茉莉も同じ病気で苦しんでいて、こちらも安楽死させようとしていました。そのとき2人の母である志げの父が飛び込んできて「せっかくまだ命があるものを故意に死なせることは許さん!」と止めたそうです。数日後、茉莉の容態は回復しました。

鴎外が子供たちの容態についてどう見ていたかは伝わっていません。けれども軍医のトップにまで上り詰める鴎外のことですから、2人の病状は痛いほど分かっていたでしょう。この出来事から数年後、鴎外は安楽死の問題を扱った小説「高瀬舟」を書くことになります。

三男・類(るい)

森鴎外の5番目の子供で三男の類(るい)は後に随筆家となりました。今でこそ「類」という名前は男女問わず多いですが、当時はやはり珍しかったのではないでしょうか。こちらも欧米男性の名前「Luis(ルイ)」を由来となっています。

最初は画業で身を立てようとしていて、20歳から画家の藤島武二に師事していました。その年の11月には鴎外の次女である姉の杏奴とパリに遊学しています。帰国した後は出版社で働いたり美術教師になったりしていたのですが、鴎外の住んでいた観潮楼(かんちょうろう)の跡地に本屋を開店したころから絵筆を折ってしまいました。

1956年に鴎外一家のことを赤裸々に描いた『鴎外の子供たち』を発表、本屋を閉店した後からは小説の執筆に力を入れるようになります。この『鴎外の子供たち』、さまざまなことを暴露しすぎたために仲のよかった姉の杏奴が憤慨、絶縁されてしまいます。その後、2人が仲直りすることはありませんでした。

森鴎外の娘は?

森茉莉

長女・茉莉(まり)

1903年に生まれた森茉莉は、森鴎外の2番目の子供で長女です。名前の由来は「Marry(マリー)」という外国名で、「茉莉」という漢字にはジャスミンの花という意味もあります。

茉莉は鴎外に特に溺愛されていたことで有名です。鴎外のことを「パッパ」と呼び、16歳まで父親の膝の上に座っていたといいます。一家庭人としての文豪の姿が垣間見えるようで、思わず微笑んでしまうようなエピソードです。

1922年に夫に付いてパリに渡るのですが、その旅の途中で日本にいた鴎外は亡くなってしまいました。鴎外を看取れなかった悲しみが、後年茉莉に「父の帽子」というエッセイを書かせたといいます。54歳で発表したこの作品は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。

遅咲きのデビューを果たした茉莉は『贅沢貧乏』『貧乏サヴァラン』『紅茶と薔薇の日々』など優雅な美意識に裏打ちされたエッセイをたくさん生み出していきます。周囲の人は茉莉を「子供がそのまま大きくなったようだ」と評したといいます。チャーミングで洒脱な人間性がうかがえる言葉です。

次女・杏奴(あんぬ)

小堀杏奴

次女・森杏奴は鴎外の4番目の子供です。「あんぬ」と読むのですが、こちらは現在でもなかなか耳にしない名前ですね。「Anne(アンヌ)」というフランス系の女性の名前が由来になっています。

幼少期は気が強く、弟・類がいじめられていると飛んでいっていじめっ子を問い詰めていたそうです。大きくなっても類との仲がよく、類が藤島武二に師事したときは一緒に入門しています。先ほどご紹介したとおり、類が発表した『鴎外の子供たち』という本のおかげで後年は絶縁してしまうのですが…。

画家の小堀四郎と結婚後、小堀杏奴として『晩年の父』という鴎外の回想記を発表しました。この作品で杏奴は鴎外が「舞姫」のモデルとなった女性と後年文通していたことを公表してしまい、鴎外の妹・小金井喜美子からたしなめられています。けれども、杏奴の回想記が鴎外研究に果たした役割は大きく、また杏奴の遺品から鴎外の手紙の束が見つかったこともあり研究への貢献度は兄弟のうちでもナンバーワンといえるでしょう。

森鴎外の孫は?

森鴎外の孫は学者になった人が多いです。長女・茉莉と最初の夫の間に生まれた山田爵(じゃく)はフランス文学者で、鹿島茂や蓮實重彦など現在のフランス文学研究の第一人者たちに大きな影響を与えています。長男・於菟の四男である森樊須(はんす)はダニ研究を専門とする動物学者でした。

於菟には息子が5人いて、それぞれ「真章(まくす)」「富(とむ)」「礼於(れお)」「樊須」「常治(じょうじ)」といいます。鴎外の「海外でも通用する名前を」という「名付けの美学」は孫の代にも受け継がれているようです。

森鴎外の子供に関するまとめ

森鴎外の子供たちやその子孫について、名前の由来や経歴をご紹介してきました。いかがでしたでしょうか。

この記事を執筆するにあたって改めて鴎外の家系を調べてみたのですが、まさに「華麗なる一族」という感じでとても驚きました。鴎外の家族について、また一人の人間としての鴎外に興味をもったら、ぜひこの記事でご紹介した子供たちの著作を読んでみてください。今まで知らなかった鴎外の一面が覗けるはずです。