竹中半兵衛と黒田官兵衛の出会いや関係は?友情がわかるエピソードも紹介

数多の軍勢が立ち並び、それぞれの理想を目指して覇を競い合った戦国時代。

戦場で功績をあげる「武将」がクローズアップされやすいその時代ですが、その武将が功績をあげられる環境を整え、”人”だけでなく”状況”すらも巧みに操りコントロールした「軍師」という存在も、非常に人気の高い存在です。

そんな「軍師」の中でもとりわけ優秀、かつ有名な存在と言えば、竹中半兵衛黒田官兵衛でしょう。

ともに豊臣秀吉に仕え、その智謀をもって秀吉の天下統一に大きく貢献した彼らは「二兵衛」という通称でも親しまれ、現在でも小説や漫画、ゲームやドラマなどのエンタメ系媒体では、コンビとして描かれることも多い題材です。

しかし、多分に創作が混じるゲームや小説などでは、彼らの史実上の関係性がよくわからなくなっていることもしばしばです。半兵衛と官兵衛が妙に仲がいい作品もあれば、それとは逆にお互いに嫌いあっている作品だって存在しています。

ということで今回は、「竹中半兵衛黒田官兵衛が、史実ではどのような関係だったか」について紹介していきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の出会いや関係は?

黒田官兵衛(左)と、竹中半兵衛(右)

ともに豊臣秀吉に仕え、後世では「二兵衛」という通称で呼ばれることになった天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛。

通称からも分かる通り、名前にも若干の共通点がある彼らですが、もちろん血縁的なつながりはなく、それどころか明確な出会いも記録に残っていないの現状です。

それどころか、半兵衛と官兵衛が揃って登場する逸話もあまり残っているわけではないため、「二兵衛」という通称自体も、「半兵衛と官兵衛の関係性や友情」からつけられたというよりは、「二人のこなした役割や、名前の類似性」からつけられたと考える方が理に適っていると言えるでしょう。

とはいえ、秀吉という同じ主君に仕え、こなした役割も同じ「軍師」であったことから、彼らの間にはそれなりの親交があったということは記録されています。

ですのでここでは、数少ないながら彼らの関係性がよくわかるエピソードを、いくつか紹介していきましょう。

記録上は「ただの同僚」

先に説明させていただいた通り、半兵衛と官兵衛に「同僚」以上の関係性は記録されていません。

というか、その同僚としての付き合いもさほど長くはなく、記録上で「半兵衛と官兵衛が並び立って活躍した戦」は、1577年の中国攻めの間、それも官兵衛が囚われの身になるまでの間という、僅かな期間に過ぎません。

ですので、「半兵衛と官兵衛がコンビで事を成した」と呼べるような状況は、(あくまで記録上ですが)史実においてはほとんどないと言えます。

ですので「半兵衛と官兵衛は親友だった」あるいは「半兵衛と官兵衛はお互いに嫌いあっていた」などの関係性は、創作におけるキャラクター付であり、史実に即したものではないと言えるでしょう。

「対等」というよりは「先輩と後輩」のような関係

記録上には「同僚」という関係性しか読み取れない半兵衛と官兵衛ですが、そんな彼らの関係性を推測できるエピソードに、このようなものが存在しています。

ある日、秀吉が休んでいる城に、怒りもあらわに怒鳴り込んできた官兵衛。そんな彼に出会った半兵衛が理由を尋ねると、官兵衛は手に持っていた書状を突きつけてこう言いました。

「秀吉様はこの書状で、私に領地の加増を約束してくださったのに、一向に加増してくださる気配がない。よって、今からこの書状の審議について直談判しに参ったのだ」と。

そんな怒りの形相の官兵衛から書状を突きつけられた半兵衛は、何とも驚きの行動に出ました。

なんと、官兵衛からその書状を奪い、ビリビリに破り捨ててしまったのです。そして、呆気にとられる官兵衛に対して、半兵衛は厳しくこう諭したのでした。

「こんな文書をいつまでも大事にしておくから、そんな風に不満に思うのだ。それに、そんな文書にいちいち一喜一憂していたら、君自身のためにもならない」と。

ちなみに半兵衛は、秀吉から加増を約束する書状を贈られた際「このようなものは竹中家の家中争いの元になるだけですので不要です」と破り捨てたというエピソードも残しています。

戦国武将らしからぬ無欲なエピソードではありますが、人としては確かに優れたエピソード。官兵衛の晩年の深謀遠慮ぶりを見ると、半兵衛と官兵衛の関係は、「教師と生徒」あるいは「先輩と後輩」のような関係だったと言えるかもしれません。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の仲を表すエピソード

半兵衛と官兵衛の友情を示す「石餅」家紋

上記トピックの通り、基本的には「同僚」、あるいは「先輩と後輩」のような関係性だったと言える半兵衛と官兵衛。

「二人で」と限定されると、あまり派手な活躍やエピソードが残っていない「二兵衛」の二人ですが、やはり同じ主君に仕え、「軍師」という代えの利かない立場にあった二人の間には、強い信頼関係と、友情とも尊敬ともつかない、言語化できない関係性が存在していました。

そして、そんな関係性が記録上にも顕在化するのは、奇しくも半兵衛の死と官兵衛の受難の時期だったのです。

半兵衛、死後まで続く大仕事

その関係性が記録されるのは、秀吉の中国攻めが激化の一途をたどっていた頃。

中央の雄である織田軍と、西部の一大勢力である毛利家の激突は、その二勢力のみならず、漁夫の利、裏切りの顕在化、風見鶏的な思惑が混ざり合い、非常に混沌とした状況に陥りつつありました。

そしてそんな中、織田家の重臣であり、官兵衛の旧知である荒木村重が謀反。秀吉はこの村重の説得に官兵衛を遣わしますが、官兵衛はこの説得に失敗。そのまま捕らえられて、劣悪な環境の地下牢に幽閉されてしまうのです。

しかも悪いことに、裏切りが横行して気が立っている信長は「官兵衛も村重と同じく裏切ったのでは?」と疑心を爆発させてしまいます。

そして信長は「官兵衛は裏切ったに違いない。見せしめとして、官兵衛の息子・松寿丸を殺せ」と、早とちりで秀吉に命令を下してしまうのです。

これに困ったのは秀吉でした。松寿丸は忠臣である官兵衛が、その忠義を示すために秀吉に預けていた、秀吉にとっても幼い頃から知っている我が子のような存在。しかし、上司である信長の命令に逆らえば、今度は自分の命も危ない……。

悩む秀吉。しかし、その状況を打破し、秀吉を救ったのが半兵衛でした。

半兵衛は、秘密裏に松寿丸を家臣の屋敷に匿わせ、信長には別人の首を提出。松寿丸の生存は最低限の人数にしか知らせず、戒厳令を布くことで、松寿丸を守り通したのです。

しかし、そんな秘密作戦の最中、半兵衛は病に倒れて病没。その数か月後にようやく救出された官兵衛は、劣悪な地下牢に閉じ込められていたこと以上に、「自分が囚われたせいで松寿丸が死んだ」と聞かされていたために意気消沈の状態でした。

しかし、半兵衛の作戦はこの時をもってようやく成功。官兵衛は息子を守ってくれた半兵衛に深く感謝し、彼の形見である軍配と軍団扇を、死ぬその時まで大事にし続けたのだそうです。

その信頼は子の代までも

こうして、半兵衛の作戦によって息子と再会することができた官兵衛。形見として軍配と軍団扇を譲り受けたのは説明した通りですが、実は官兵衛にはもう一つ、半兵衛への恩のために自主的に譲り受けたものがありました。

それは竹中家の家紋。官兵衛は半兵衛への恩のために、自らの家を象徴する家紋を、半兵衛の使っていた「石餅」家紋へと変更したのです。一見すると「適当……?」とすら思ってしまう簡単な形の家紋ですが、そこにもきちんとした歴史やエピソードがあるんですね。

また、官兵衛は残された半兵衛の子・吉助の面倒も自ら買って出て、我が子同然に可愛がっていたようです。吉助はそんな官兵衛を心から慕い、吉助が元服し、竹中重門と名を改める際は、その烏帽子親を官兵衛が務めたことが記録されています。

さらに、官兵衛の息子である黒田長政と、半兵衛の息子である竹中重門はかなり仲が良かったようで、関ヶ原の戦いでは当初、長政が東軍、重門が西軍だったのを、長政は説得によって重門を東軍へと導き、隣り合わせに迅を張って戦ったことが記録されています。

戦国の友情というと、「武田信玄と上杉謙信」「石田三成大谷吉継」あたりがやはり有名ですが、「黒田長政と竹中重門」の関係性も、そんな彼らに劣らない友情だったといえそうです。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の関係に関するまとめ

「二兵衛」という通称で親しまれ、ともに智謀を駆使して戦国乱世を戦った天才・竹中半兵衛と黒田官兵衛。

記録には「同僚」としての一面しか記録されていない彼らですが、半兵衛の死に際の大仕事や、官兵衛が半兵衛の子を我が子同然に可愛がっていたこと、そしてその子たちが関ヶ原という大舞台で肩を並べて戦ったことを考えると、やはりその間柄には、とても強い友情と信頼があったように思えます。

それに、記録にこそそういった記述はありませんが「官兵衛の死に際の行動」を見ると、どことなく「半兵衛っぽい」というか、「若い頃の官兵衛らしからぬ振る舞い」のように見える部分が散見されてきます。

あくまで推測でしかありませんが、黒田官兵衛という乱世の終わりまで生き延びた謀将の中に、竹中半兵衛という偉大な先人の存在が刻まれていたと考えると、それはとても美しく、また浪漫のあるお話なのではないでしょうか?