【万葉集の歌人】額田王が詠んだ歌11選!意味や背景も解説

額田王は、7世紀に生きた女流歌人です。額田王の印象は、日本の律令国家の礎を築いたと言われる天智天皇と天武天皇兄弟に愛された才女としての側面が、強いかもしれません。数奇な運命を辿ったその生涯は、今まで多くの小説で描かれてきました。

しかし何より、額田王を語る上で欠かせないのは、 “万葉歌人” であったことです。日本最古の歌集と言われ、元号「令和」の出典としても注目を集めた『万葉集』には、額田王の作品が数多く選ばれています。

ここでは、『万葉集』に載っている額田王が詠んだ歌について、詳しく見てみたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

額田王が詠んだ歌

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし兎道の宮処の仮盧し念ほゆ

原文

金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

意味と作られた背景

秋の野のみ草を刈り取って屋根にして泊まった、宇治の仮の宮が思い出されるという意味です。

額田王が皇極天皇に仕えていた時の歌です。皇極天皇が亡き夫、舒明天皇との宇治の思い出を回想した歌として、皇極天皇に成り代わって額田王が詠みました。

三諸の山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

原文

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

意味と作られた背景

皇極天皇が重祚して斉明天皇となった時代、宮廷歌人として仕えていた額田王が、斉明天皇の紀温泉行幸の際に詠んだ歌です。

この歌は、前半の読みについて定まった説がなく、色々な解釈がされています。後半については「我が君がお立ちになっていた、神聖な樫の木の下に」という意味と考えられますが、謀反で処刑された有間王子のことを詠んでいるという説や、国難に立ち向かう大海人皇子や中大兄皇子を詠んでいるという説なども言われています。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮も適ひぬ今は漕ぎ出でな

原文

熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

意味と作られた背景

熟田津で船に乗ろうと月を待っていたら潮の流れが良くなってきた。さあ、今こそ船を漕ぎ出そう、という意味の歌です。

友好関係にあった百済が滅ぼされたため、斉明天皇が中大兄皇子と共に百済再興に向かうために出兵しようとするまさにその時、額田王が斉明天皇の気持ちを詠みました。数多くの歌が入っている万葉集の中でも、初期の傑作という呼び声の高い歌です。

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに 委曲にも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情無く 雲の 隠さふべしや

額田王が民衆を想って詠んだ

原文

味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也

意味と作られた背景

三輪山が奈良の山々の端に隠れるまでも、いくつもの道の曲がり角を過ぎるまでも、ずっと見続けながら行きたいのに。何度も見たい山なのに、無情にも雲が隠したりしていいものでしょうか。

中大兄皇子が都を近江大津宮に移す際の歌です。慣れ親しんだ都を移ることに反対する者が多い中で、少しでもささくれ立った民衆の気持ちを和らげようと、額田王が詠んだと考えられています。

茜草指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

原文

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

意味と作られた背景

紫の野(紫草を栽培していた天智天皇の土地)で、散策しながら私の気を引こうとしてあなたは袖を振っているけれども、野守(警備の兵士)に見られてしまいますよ、という意味です。

天智天皇の蒲生野(琵琶湖東岸に広がる草原)への行幸の際、額田王がかつての恋人である大海人皇子に対して、場を盛り上げるための座興として恋の歌を詠んだと考えられています。万葉集にはこれに対する返歌として大海人皇子の額田王に詠んだ歌も載せられています。

冬こもり 春去り来れば 喧かざりし 鳥も来鳴きぬ 開かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉つをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾は

原文

冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者

意味と作られた背景

冬が過ぎて春がやってくると、鳥も来て花も咲くので素晴らしい季節ではありますが、山には木が繁っていて花は手に取れなくなります。しかし秋山は、木の葉をみて色づいているものは手に取れます。青いまま落ちてしまった葉を置いて溜め息をつかなければならないことは恨めしいですが。やはり私は秋の山がいいです。

天智天皇の漢詩の宴において、藤原鎌足に、春山の花の艶と秋山の紅葉の色と、どちらが良いか競わせた際、天智天皇から判定を任された額田王が歌で答えたものです。

君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く

額田王の知識が窺える

原文

君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹

意味と作られた背景

あなたが早くおいでにならないかと恋しく思いながら待っていると、私の部屋の簾が秋風に吹かれて動きます。あなたが来たのかと思いましたが、姿は見えませんでしたよ、という意味の歌です。

当時中国には閨怨詩というジャンルがあり、そこでは秋風が廉を揺らすことで夫と離れている女性が夫を恋しく思う気持ちを表していました。額田王はその漢詩の知識を活かして詠んだ歌と言われています。

ちなみに題詞には、額田王が近江天皇(天智天皇)を思って詠んだと書かれています。「近江」という名称は後世のものであることから考えても、この題は編者の後付けという可能性があります。そのため、どういった背景で詠まれたのか定かではありません。

かからむの懐ひ知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを

原文

如是有乃 豫知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎

意味と作られた背景

こんなことになると前からわかっていたのなら、大御船(天皇の船)が泊まっている港にしめ縄を張り巡らして、天皇の魂を留めおきましたものを(もしくは、しめ縄を張ることで悪霊から逃れることができましたものを)、という意味です。

天智天皇崩御により大殯という天皇の葬儀が行われた時の、額田王が詠んだ歌です。

やすみしし 吾ご大王の 恐きや 御陵奉仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ

原文

八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳乎 泣乍在而哉 百礒城乃 大宮人者 去別南

意味と作られた背景

我が大君(天智天皇)の御陵に恐れ多くもお仕え申し上げる、山科の鏡山(御陵のある山)で、夜は夜通し、昼は一日中声をあげて泣き続けています。このままで宮廷に仕える大宮人は別れ別れになっていくのでしょうか。

壬申の乱の勃発により、天智天皇が眠る山科の御陵を立ち去らなければならなくなった際に、額田王が詠んだ歌です。

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと

ホトトギスの故事を踏まえた歌
出典:Wikipedia

原文

古尓 恋良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰

意味と作られた背景

そのホトトギスは昔を恋い慕う私と同じですから、きっと哀しく鳴いたでしょう。あなたの仰る通りですよ、という意味です。

この歌は、弓削皇子が天武天皇にゆかりの深い吉野を訪れた際、額田王に贈った歌に対する返歌です。

中国には、昼夜問わず泣き続けることで、帝位にあった時代を懐かしんだホトトギスの故事があります。ホトトギスは、一度帝の位を退いた後、再び復権を望むも叶わなかった蜀の望帝が、死んで化けた鳥と考えられていたのです。額田王はその故事を踏まえて詠んだと考えられます。

み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく

原文

三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久

意味と作られた背景

吉野の松の枝は、なんて慕わしいものでしょうか、あなたさまのお言葉を持ってきてくれるなんて、という意味の歌です。

前の歌に引き続き、弓削皇子との遣り取りです。弓削皇子は歳を重ねてきた額田王の健康を願い、額田王にとって掛け替えのない存在である天武天皇ゆかりの吉野から、長寿の木とされた苔むした松を贈りました。それに対し額田王は感謝の思いを歌で示したのです。

額田王の歌に関するまとめ

いかがでしたか?

額田王の歌は、女性らしい艶っぽい歌もありますが、政治的な意思を感じられる、スケールの大きな歌もあります。このようにバリエーションに富んだ歌が残されていることこそ、額田王が単なる恋多き歌詠みの女性ではなく、宮廷歌人としてプライドを持って生きた女性であった証と言えるのではないでしょうか。

万葉集に収録されている歌は、元々は声に出して詠む歌でした。歌の意味を知ることも大切ですが、音の響きを楽しむことも万葉集の魅力の一つです。万葉集を音読することで、柔らかい語感や日本ならではのリズム感を堪能できるはずです。音読が難しい場合は、朗読を聴くのも良いですね。

額田王の歌をきっかけに万葉集の素晴らしい歌の世界に誘えたなら、筆者としてもこの上なく嬉しいです。