坂本龍馬の愛刀って?刀の名前やまつわるエピソードを写真付きで解説

坂本龍馬といえば、動乱の幕末を駆け抜けた志士として皆さんご存知の通りだと思います。写真に残る龍馬の姿は、刀を脇に差している様が格好良さを際立たせています。

この武士の命とも言える「刀」ですが、龍馬が使用していた刀はどのようなものだったのでしょうか?

この記事では、坂本龍馬が使っていた刀の名前やまつわるエピソード、龍馬の剣術の腕などについて迫っていきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

坂本龍馬の刀ってどんな刀?名前は?

龍馬の3振の愛刀

龍馬が使用していたと言われる刀は主に3振(ふり)あります。今回は各刀の特徴と共に、その刀にまつわるエピソードを紹介します。

1.父親からもらった「備前長船(びぜんおさふね)」

備前長船(びぜんおさふね)
出典:高知新聞

土佐藩の武士は上下関係が厳しいことで有名でしたが、江戸時代の後期になると、「身分よりも才能を重視して人材を育てていこう」という考えが徐々に広まってきました。下級武士であった龍馬にも政治に関わるチャンスが出てきたこともあり、両親は龍馬を儒学の私塾である楠山塾に入学させます。

しかし、両親の期待も虚しく、半年ほどで退塾させられてしまいました。これには、いじめが原因で抜刀騒ぎを起こしてしまったため、単に出来が悪かったためなど諸説ありますが、学問が駄目なら武芸で勝負と言わんばかりに、父・八平は龍馬を日根野道場へ入門させます。

この頃、八平より送られたと伝わる脇差しが備前長船(びぜんおさふね)です。この刀は室町時代の名工であった勝光・宗光の合作と伝わり、きらびやかな刃紋が特徴的な一品です。

2.海援隊結成時に入手した「埋忠明寿(うめただみょうじゅ)」

埋忠明寿(うめただみょうじゅ)

龍馬は土佐藩を脱藩した後、勝海舟の門人となります。神戸の海軍操練所で学んでいましたが、幕府の施設にも関わらず反幕府的な思想を持つ生徒が多いとされたことから、施設は閉鎖されてしまいました。行き場をなくした龍馬たちは薩摩藩に保護され、同士とともに長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成します。

埋忠明寿(うめただみょうじゅ)は、この頃手に入れたとされる刀で、海援隊幹部の菅野覚兵衛(すがのかくべえ)によって贈られたものとされています。覚兵衛は龍馬と同時に勝海舟の弟子になった人物で、龍馬の妻・おりょうの妹の夫にもあたります。そのため、龍馬との親交は仕事上だけでなく、家族としての付き合いも深かったと考えられます。

刀の一番の特徴は、この刀が収められている赤い鞘。「土佐の赤鞘」とも呼ばれており、海援隊士のシンボルでもありました。龍馬と海援隊の絆を物語る一本です。

3.死ぬ瞬間まで所有していた「「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)は、本名を森下平助という刀工。その腕を買われ、土佐藩に招かれると、藩の鍛冶奉行を務めるまでに至った人物です。坂本家には先祖代々受け継がれている刀として、彼の作による刀が所蔵されていました。

龍馬は暗殺される前年、兄・権平に手紙を出しています。そこには「先祖伝来の刀で死にたいので、坂本家で保管している陸奥守吉行を渡してほしい」と書かれていました。諸外国の文化に触れる機会の多かった龍馬は、しばらくすれば刀の時代から銃の時代になるとの考えを持っていました。

しかし、暗殺の危機にさらされ、敵から身を隠しながら生き延びていた日々を送っていると、やはり武士ならではの思うところがあったのでしょう。

刀は西郷隆盛を通じて龍馬の元へと渡りました。感謝と喜びの思いを綴った手紙が権平に届けられています。そして翌年、龍馬が近江屋で暗殺されたその日まで帯刀され、龍馬の最後を見届けることとなりました。

龍馬の剣の腕前はどうだったの?

北辰一刀流長刀兵法目録

これほどまで様々な刀を所有していた龍馬ですが、剣術の腕前はいかがなものだったのでしょうか?これまで多くの議論を呼んでいた話題でもあったのですが、近年の研究を通じて「剣術の腕は達人レベルだった」ことをうかがわせる資料がいくつか発見されています。

龍馬が日根野道場に入門して学んだのは小栗流と呼ばれる流派でした。ここで5年間に渡る稽古を積んで、「小栗流和兵法事目録」を取得しています。これによると、単なる剣術だけでなく、格闘の基礎を成す柔術も会得していることがわかっています。

その後江戸に剣術修行に出た龍馬は、千葉定吉道場で北辰一刀流を学びます。小栗流で基礎をしっかり叩き込まれたお陰もあってか、道場に通い始めて数年で「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かり、千葉道場で塾頭を務めるまでに至りました。

後に小栗流でも免許皆伝を受けており、やはり剣術の腕前は相当なものだったと考えて良さそうですね。

坂本龍馬の刀に関するまとめ

今回は龍馬が所持していたとされる刀を紹介しました。

  • 備前長船
  • 埋忠明寿
  • 陸奥守吉行

どの刀にも龍馬ならではのエピソードがあり、幕末のロマンを感じることができますね。特に刀は持つ人の思いが宿ると言いますので、よりダイレクトに龍馬の気持ちが伝わったのではないでしょうか。今回の記事を通じて、龍馬のさらなる魅力を受け取って頂けると嬉しいです。

1 COMMENT

中道昭勝

竜馬の愛刀について
以前、京都東山の霊山歴史館で展示されていた刀(竜馬が襲撃された近江屋の現場に残された
愛刀)には鍔元の峰に10cmほどの長さで刀で削られた跡が見事に残っていました。
その時、刀の峰を削り取るほどの剣の技量がどれほどのものかと強烈な印象を受けました。
このことは、司馬遼太郎の竜馬が行くにも記されています。
この刀の銘は失念しましたが、竜馬の最後を見届けたのは陸奥守吉行であることがわかります。

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