クロード・モネとはどんな画家?生涯・年表まとめ【印象派の代表作品や性格、逸話も紹介】

モネの功績

功績1「印象派として市場で高い評価を得た」

生前に高額で取引されたモネの作品「ラ・ジャポネーズ」
出典:Wikipedia

当初は世間から評価されず、経済的に苦しんだモネでしたが、1880年代以降に段々と印象派の絵画が市場で高い評価を得ていったことで富と名声を獲得していきます。そして、生前には「ラ・ジャポネーズ」が6000ポンド(円換算約90万円)で売却されました。

彼の死後、1950年代以降にモネの本格的な再評価が始まります。彼の作品はそれまでとは比べ物にならないほどの値段で取引され、1983年には「睡蓮」が150万ポンド(円換算5億6000万円超)で落札されました。

その後、21世紀になっても価格の高騰は続きます。そして、2008年にロンドンで行われたオークションにおいて、彼が晩年に描いた「睡蓮の池」が4100万ポンド(円換算約87億円)で落札されました。

功績2「日本でモネブームが起きた」

モネと親交が深かった松方幸次郎
出典:Wikipedia

日本画の影響を強く受けていたモネでしたが、彼自身も日本の美術界に対して大きな影響を与えました。そして、第一次世界大戦後には日本人のコレクターの間で空前のモネブームが起こっています。

モネブームが起こったきっかけは、ヨーロッパにおいて印象派が高い評価を受けるようになった後、パリに留学していた洋画家の黒田清輝や久米桂一郎が、日本においてモネの作品を広めていったことにありました。

その後、多くの日本人がモネの自宅があるジヴェルニーを訪れており、彼と交流していきました。また、モネと親交のあった日本人の1人である松方幸次郎はモネの信頼を獲得し、多くの作品を譲り受けています。

モネの名言

モネは自然をありのままに描写することを大事にしていた

人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけで良いのに。

印象派が台頭した初期の頃は印象派に対する評判はあまり良くありませんでした。モネにとっても例外ではなく、彼の作品がプラスの評価を受けるようになったのはそれから約10年もあとのことです。そのような境遇を送ったモネの心の言葉が出て来たように思います。

私は自然を追い求めているが、未だ本質はつかめていない。こうして画家になれたのも草花たちのおかげなのかもしれない。

自然をありのままに描写することを大事にして来たモネならではの言葉です。彼の作品は植物、海、日光などの自然が絡んでいることが多く、自然を愛していたからこそ生まれた名言ではないかと思います。

全ては千変万化する。石でさえも。

筆触分割という手法にこだわって絵を描いていたモネ。時間とともに移ろう風景の変化を一枚の画用紙に描くことに心血を注いでいました。睡蓮シリーズやその他の作品にもその様子がありありと描き出されています。そんな彼の信念が現れた言葉と言えるでしょう。

モネにまつわる逸話

逸話1「モネの愛した二人の妻」

カミーユとジャン

モネは生涯に二人の奥さんを持ったと言われています。一人目がカミーユ・ドンシュー。「ラ・ジャポネーズ」、「日傘をさす女性」などモネの作品のモデルとしても多数登場しています。いろいろな画家のモデルとして活動していた彼女と、モネが24歳の時に結婚し、子供も二人授かりました。しかし、二人目の子供を産んだ後に病気となってしまい、カミーユは32歳という若さで亡くなってしまいます。

そして二人目の妻はアリス・オジュデ。アリスはモネの絵を買っていた実業家エルネスト・オジュデの奥さんです。不況の影響で事業に失敗したエルネスト・オジュデはある日、アリスと子供を残して夜逃げをします。後に残ったアリスは6人の子供を抱えており、モネと一緒にジヴェルニーに戻って暮らすことになりました。1892年に元夫のエルネストが亡くなったという知らせを受け、晴れて結婚することになったそうです。

実は、カミーユのなくなる前にアリスと一緒に生活をするようになっており、不倫ではないかという噂もあります。

逸話2「白内障にかかりながらも睡蓮を描き続ける」

晩年のモネ

モネが「睡蓮」を描き始めてから約15年後に彼の部屋の一室の壁一面を全て「睡蓮」の作品で埋め尽くそうという計画を立てました。しかし、その後から急激な視力の低下を感じ、1909年から1914年の間に描き上げた作品は納得のいかないことも多く、破ったりすることもあったと言います。

それでも再度意欲を取り戻し、人生をかけて「睡蓮」の大装飾画に挑むことになります。晩年の作品には白内障であったことがわかるような作品がちらほらと見かけられます。

逸話3「自宅に庭園を造った」

モネの自宅にある庭園
出典:Wikipedia

モネは、ノルマンディー地方のセーヌ川沿いにあるジヴェルニーの自宅に庭園を造りました。当初、彼は果樹園と家庭菜園がある敷地を借りていただけでした。そして、経済的に余裕が出てきた後に土地ごと家を買い取り、樹木を伐採して庭園造りを始めました。

庭園造りを開始したモネは、国内外から様々な植物を輸入していきます。そして、彼は「花の庭」や「水の庭」など様々な庭園を造りました。また、彼は日本から睡蓮を輸入しており、和風の橋なども造って日本庭園風の景色を持つ庭を再現しています。

彼の死後、庭園は遺族が管理し、その後にはジヴェルニーの美術アカデミーに寄贈されました。そして、現在はクロード・モネ財団による管理の下で一般に公開されています。

モネの簡単年表

1840年 – 0歳
フランスのパリに生まれる。

幼少時から絵が上手く、将来は画家になることを夢見ていた。カリカチュアを打って歩くほどの腕前で、売り上げはのちに美術学校への入学費用にもなる。

1858年 – 18歳
ウジェーヌ・ブーダンとの出会い、油絵を描き始める

ウジェーヌ・ブーダンに才能を見初められ、ともに油絵を描くようになる。その後、パリへと出た後にのちのちの印象派の仲間となるカミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーなどと出会う。

1865年 – 25歳
サロン・ド・パリへの初出品

サロン・ド・パリへの初出品をし、入選となった。しかし、その後は落選が続くという不遇の時代が続いた。

1874年 – 34歳
第1回印象派展開催

記念すべき第1回印象派展が開かれたが、評価はあまり芳しくなかった。しかし、第2回、第3回と開催するにつれて、徐々に世間の認知度も上がり、受け入れられるようになった。

1883年 – 43歳
故郷ジヴェルニーへ戻り、「睡蓮」の製作開始

モネの代表作とも言える「睡蓮」の製作開始、以後30年に渡って200点から300点もの作品を残す。晩年には白内障をきたすも、製作には意欲的に取り組む。

1926年 – 86歳
肺硬化症により永眠

1923年に白内障の手術を受け、最後の大作「睡蓮」の大装飾画の製作に取り組む。1924年に最後の展覧会が開かれたのちに肺硬化症にて病床に伏す。1926年12月5日に永眠。

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