ココ・シャネルはどんな人?生い立ち・年表まとめ【死因や性格、功績も紹介】

ココ・シャネルは、本名をガブリエル・シャネルといい、世界的有名ブランド「CHANEL」の創立者で20世紀を代表するファッションデザイナーです。かつてココ・シャネルは、今では当たり前となっている、パンツスタイルや黒を普段着に取り入れるなど、当時の女性のファッション大きく変えました。

シャネルが生きた時代は、まだ19世紀のファッションが色濃く残っていて、コルセットのドレスや装飾の多いデザインが主流でした。彼女は、それまでのデザインとは違う「シンプルでシックな」ファッションを生涯をかけて作り上げ、今では伝説のデザイナーと呼ばれています。

ココ・シャネル

シャネルの目指したファッションは、普遍的で変わらないスタイルでした。彼女の残したスタイルとはブランドのアイテムの事ではなく、黒のワンピース、ショルダーバック、ジャージー素材の服など、今も街の中で見かけるものばかりで、女性のファッションに大きな功績を残しました。

シャネルのスタイルは、女性が社会に進出していく激動の時代の中で、女性に自由を与えるものであったとも言えます。27歳で自分の店舗を持ってから87歳で生涯を終えるまで、ファッション界において第一線で活躍し続けました。そんなシャネルの女性として自立した生き方や情熱的な言葉に刺激を受け、数多くの本や映画を見続けてきた私が、シャネルについて解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ココ・シャネルとは?生涯をダイジェスト

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名前ガブリエル・シャネル
誕生日1883年8月19日
没日1971年1月10日
生地フランス
メーヌ=エ=ロワール県
ソーミュール
没地フランス パリ
配偶者なし
埋葬場所スイス
ローザンヌボワ=ド=ボー
  • 1883年にフランスのソーミュールに5人兄弟の2番目として生まれる
  • 20歳で繊維業の息子であるエティエンヌ・バルサンと出逢う
  • 26歳で生涯の恋人アーサー・ボーイ・カペルと出逢う
  • 27歳、帽子店「シャネル・モード」を開く
  • 31歳、ジャージー素材のドレスを誕生させる
  • 38歳、初めての香水「No.5」を発売
  • 40歳、ウェストミンスター公爵と出逢う
  • 56歳でブティックを閉店。従業員も解雇する
  • 62歳、ナチス協力の告発を逃れるため、スイスへ亡命
  • 71歳でカムバック第一回目のコレクションの発表
  • 87歳、パリのホテル・リッツにて最期を迎える

ココ・シャネルの生い立ちや性格、ファッションに対する考え

ココ・シャネルの生い立ち

ココ・シャネルの故郷フランスソーミュールの街並み

シャネルは1883年8月19日、フランスのメーヌ=エ=ロワール県のソーミュールで、5人兄弟の2番目として生まれました。シャネルが12歳の頃、もともと体の弱かった母親が結核を患い病死。母の死後、行商人であった父親に捨てられたシャネルは、姉のジュリアと共に孤児院に預けられ貧しい幼少期を過ごしました。

孤児院での生活は厳しく質素なものでしたが、シャネルはここで裁縫を学ぶことになります。その経験が、その後の仕事に繋がったと言われていますが、シャネル本人が孤児院での生活や幼少期の真実を語ることはありませんでした。

18歳で孤児院を出たシャネルは、フランスの中央に位置するムーランに場所を移します。シャネルは、芸能界に憧れをもち歌手を目指していたこともありますが、その頃から「ココ」の愛称で呼ばれるようになったと言われています。

ココ・シャネルの性格

激しい性格から火山のような性格と言われることも…

幼少期を恵まれない環境で過ごしたシャネルは、その思いをバネに成功への道を切り開いていきます。そんな、シャネルは自身でも「傲慢さは私の性格の鍵」というほどに、傲慢できつい性格だったと言われています。シャネルのいう傲慢さとは、人を見下すような態度を指すのではなく、他人に厳しくする以上に自分に厳しく、自立した強い女性でいることでした。

また、恋多き女性であったシャネルは、常に女性としてのエレガントさを忘れることはありませんでした。恋愛においては、「強さを隠し弱さを楽しむことは駆け引き」と話していたとのエピソードもあり、強さと同時に女性らしいエレガンスな性格を持ち合わせていました。

いずれにしても、シャネルは自分の性格をよく理解しており、仕事・恋愛とその場面で最大限自分の力を引き出す方法を知っていました。

ココ・シャネルのファッションに対する考え

代表的なシャネルスーツを着る映画「ココ・シャネル」主演のシャーリー・マクレーン

シャネルのファッションは、「シンプル・着心地がよい・無駄がない」の3点が基本と言われています。彼女はそれまでの、コルセットで腰を締めたドレスと過度に装飾のついた帽子といった、とても動きやすいものとは言えなかった女性のファッションに疑問を抱いていました。

女性の社会進出が進んだ時代の流れの中で、シンプルでかつ着心地の良いシャネルのスタイルは、女性のニーズにマッチし浸透していったのです。

彼女は流行によって変わっていくものをモードと捉え、「モードではなく、私はスタイルを作り上げたの」という言葉を残しました。この言葉の通り、シャネルは変わらず残り続けていくスタイルを作り上げ、現在でもそのスタイルは多くの女性に受け入れられ続けています。

ココ・シャネルの恋人たち

シャネルとアーサー・ボーイ・カペル

シャネルは生涯、結婚することはありませんでしたが、恋多き人生を歩みました。恋人の中には、画家のピカソや、作曲家のストラヴィンスキーなど有名な人物の名もありますが、シャネルが深く愛したとされる2人を紹介します。

シャネルの生涯の恋人と言われる人物に、イギリス人実業家のアーサー・ボーイ・カペルがいます。カペルに出会ったのが26歳の時。カペルはシャネルの才能に惹かれ高く評価し、その才能をサポートすべく、店舗を広げていくための資金援助もしていました。後にカペルは他の女性と結婚をしますが、それでも彼との関係は続き、カペルが自動車事故で亡くなる1919年まで続きました。

そしてもう一人、1920年シャネルが37歳の時、詩人のルヴェルディに出会います。シャネルは男性としてもルヴェルディを愛していましたが、詩人としての才能を評価し尊敬していました。恋人としての関係が終わってからも、30年以上深い友情関係は続いていきました。

ココ・シャネルの死因と最後の様子

ココ・シャネルは1971年1月10日午後9時、パリの「ホテルリッツ」のスイートルームで死を迎えることになりました。

死の前から彼女は仕事のプレッシャーからか、不安症や不眠症に陥っていたようです。それを改善する為、彼女は医者から一日1本、モルヒネの注射を打つように言われてましたが、手が震えてうまく打つ事ができなかったそうです。

自分の死を悟った彼女は最後に、

「ほら・・・・・・こんな風にして、人は死ぬの」

という言葉を残してこの世を去りました。享年87歳でした。

ココ・シャネルの功績

功績1「ジャージー素材の使用【窮屈なドレスからの解放】」

ジャージー素材が広まる前、1900年代始めのヨーロッパの女性のスタイル

今では当たり前となったジャージー素材ですが、シャネルが初めて女性のファッションに取り入れました。当時、主に靴下やスポーツウェアなどに使われていたジャージー素材は、動きやすく丈夫で、安価で手に入れられました。シャネルのジャージー素材のドレスは、それまでの体を締め付けるようなシルクやサテンのドレスとは正反対とも言えるものだったでしょう。

ジャージー素材のドレスの誕生は、第一次世界大戦が始まったことがきっかけでした。当時、新しい店舗を開店した地に、上流階級の女性が疎開してきたことをビジネスチャンスと捉え、ジャージー素材を買い占め洋服を量産し始めます。戦後、女性が労働に従事することが増えたこと、高級素材が手に入りにくくなったこともあり、シャネルのジャージー素材の服は瞬く間に人気となりました。

功績2「リトルブラックドレス【黒をシックな色として広める】」

リトルブラックドレスのスタイル

現在も高い人気を誇るリトルブラックドレスですが、1920年頃に発表され「黒」をシックな色として広めることになりました。それまで黒は喪服にしか用いられておらず、黒のドレスを普段使いすることは世の中を驚かせる出来事でした。シャネルは、オペラを鑑賞していた女性たちの色とりどりのドレスを見て、全ての女性に黒を着せると誓ったと言われています。

無駄のないシンプルさこそエレガントであると考えていたシャネルは、リトルブラックドレスを黒の単色使い、ドレスの装飾も減らしたシンプルなデザインに仕上げました。発表された当時は、華やかな装飾のドレスが主流だったのに対し、貧相なスタイルというという批判もあったそうです。「黒はすべての色に勝る」という言葉も残したシャネルの思いは、批判などなかったかのように今でも受け継がれています。

功績3「香水CHANEL No.5【100年近く愛され続ける香り】 」

シャネルの香水No.5

シャネルと言えば「No.5」がイメージに浮かぶほど世界的に有名な香水で、1921年シャネルが38歳の時に発表されました。当時の香水は、上流階級の女性が使うような単一の花の香りのもの、夜の女性が使うような何種類も香りを合わせたものの二つが主流で、一般の女性が使う香りはあまり出回って居ませんでした。香水に強いこだわりを持っていたシャネルは、一般の女性が使える日常使いの香水を求めていました。

「No.5」という名前は、出されたサンプルには番号が振られておりその中の5番目を気に入ったこと、5という数字がシャネルにとって特別なものであったことから名付けられたと言われています。

「No.5」はマリリン・モンローの「寝るときはシャネルのNo.5を5滴」という発言によって、1950年代にブームが再熱しました。その後も、有名女優が広告に起用されるなど、現在に至るまで100年近く変わらずに愛され続けています。

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10 COMMENTS

樋口一葉

凄く分かりやすかったです!
私は、本を読むのが大好きで、本で読んだココ・シャネルのことをもっと知りたいと思ってここにたどり着きました。
私は歴史は苦手だけど、ココシャネルの話は面白いと思いました。

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フクモトアイコ

わかりやすかったです!
ココ・シャネルの凄さがわかりました!

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ことりん

とても分かりました。よかったです。
ここシャネルってこんなすごい人なんですね‼︎

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