平清盛はどんな性格?悪人は嘘?人柄が分かるエピソードと共に解説!

平清盛は、武士として初めて太政大臣となった人物です。源氏の戦いに破れるものの、日宋貿易の推進や宋銭の導入で財を蓄え、平家のみならず日本の発展にも大きく影響を与えました。

清盛は平家物語で奢り高ぶった傲慢な人物として描かれていますが、近年では新たな清盛像も研究されています。

「清盛は本当はどんな性格だったのだろう?」と想像をめぐらせるのは楽しいですよね。この記事では平家物語だけでなく、当時の日記にスポットを当てて解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

平清盛の性格は?

イメージが強いのは悪人

平家物語

平清盛は平家物語で驕り高ぶる傲慢な人物として描かれています。その為、今でも悪人なイメージが強い人物です。平家物語の中では、以下のエピソードが描かれており、清盛=悪人と言うイメージが定着してしまったんです。

  • 祇王という白拍子を寵愛していたが、仏御前が現れると心移りし祇王を屋敷から追い出した。更に元気のない仏御前の前で白拍子を舞うように強要する。
  • 義朝の子を助命する代わりに妻の常盤御前を妾とした。
  • 鹿ケ谷の陰謀で陰謀を企てた西光を拷問の末に口を裂いて斬首した等

しかしこれらは事実ではなく、創作も多いと言われています。平家物語の根底にあるのは仏教思想。即ち因果応報と言う考え方です。人々は平家が驕り高ぶっていたから滅んだと考えました。

そこから平家の棟梁である清盛は悪人であるというイメージが生まれ、物語に悪人像が追加されていったと考えられています。

現実的な考えの持ち主

清盛の性格として欠かせないのが迷信に囚われない現実的な思考です。当時は怨霊や陰陽師等が当たり前のように信じられていた時代でしたが、清盛は神を恐れない考え方をしていたため、非難の対象にもなりました。

具体的には、以下のようなエピソードが清盛が現実的な考え方だったことを物語っています。

  • 日宋貿易の際、貴族は神の怒りを鎮める為に人柱を提案。清盛は石にお経を書いて埋め立てに使い、人柱を否定。
  • 祈祷により雨が降った事を迷信だと一蹴。
  • 宋から日本に贈り物が届けられた際、貴族達は文章の内容が失礼だから返書を送らないと決定した。清盛は実利を取り、貴族の意見を無視して返書を送った等。

世間とは反対の考え方だったため、これらのエピソードも清盛の悪人像に繋がっているのです。

温厚で優しい性格

厳島神社

鎌倉時代の説話集十訓抄には、清盛が温厚で優しい性格であった事が記されています。具体的には、以下のような微笑ましいエピソードが載せられています。

  • 誰かが不都合な振る舞いをしても笑って許した
  • 最下層の召使いでも彼の家族のいる前では、一人前の人物として扱った
  • 冬の寒い日に幼い従者を自分の衣の裾に寝かせ、彼らが朝寝坊をしたらそっと抜け出して思う存分寝かせてあげた

更に愚管抄には、清盛は周囲に気を配る人物であるとも書かれており、清盛が朝廷の頂点に上り詰めたのは、優しさと周囲への気配りを忘れない性格も要因だったことが伺えますね。

平清盛の性格が伺えるエピソード

平清盛

殿下乗合事件

続いて清盛が優しい性格である事が分かるエピソードとして、1170年に起きた「殿下乗合事件」を紹介します。

1170年、平資盛(清盛の息子重盛の子)一行が松殿基房の車列と鉢合わせした際に、基房が一行の無礼を咎めて乱暴狼藉を働きました。

平家物語では後日清盛が基房に報復を行いますが、重盛が清盛を諌めます。人々は平家の悪行を批判すると共に重盛を褒め称えたのでした。

しかし当時の日記玉葉では報復を行ったのは重盛であり、清盛は基房に謝罪したと書かれています。更に基房を太政大臣に推挙する等、事を荒立てないよう配慮をしました。

清盛は周囲との調和を忘れない人物であると同時に、平家物語では清盛を悪人に仕立て上げている事がよくわかるエピソードです。

源頼朝を処刑せず流罪にした

平治の乱

栄華を誇った平家が滅びたのは、頼朝を処刑せずに流罪にした清盛の優しさが原因でした。

清盛は1160年の平治の乱で藤原信頼・源義朝軍に勝利。遺児である源頼朝は処刑が決まっていたのですが、清盛の義母の池禅尼が『まだ幼いのに』と助命嘆願した事で罪を減ぜられ、伊豆に流罪となりました。

平家物語では義経の母常盤御前が清盛の妾になる事で、子ども達の助命嘆願が叶ったと書かれていますが、史実ではその記載はありません。頼朝も義経も清盛の優しさにより死罪を免れています。

源頼朝を流刑にした優しさが後の「悪人像」を生むことに

頼朝は伊豆で挙兵し、義経は源平合戦で連戦連勝します。結果的に平家は敗者に、源氏は勝者になりました。

頼朝は清盛の優しさにより自分が生かされた事と、それが平家の滅亡に繋がった事を身を持って知りました。だからこそ平家や義経に対して討伐や粛清を図ったのですね。

鎌倉幕府の成立後は、平家物語の清盛像が一般的なものに変わっていきました。罪を減じるという優しさが、後の悪人像の原因になるとは何とも皮肉な話ですね。

平清盛の性格に関するまとめ

今回は清盛の性格について紹介させていただきました。清盛は平家物語に書かれているような悪人ではなく、周囲との調和を大事にする優しい性格というエピソードが数多く残されています。

結果的にはその優しさから源頼朝や義経を許してしまい、平家は滅びる事となりました。その優しさが物語の中の清盛の悪人像を作り出したのは皮肉な話ですね。

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