淀殿(淀君)とはどんな人?美人だった?性格や死因、功績、生涯まとめ

淀殿は、戦国時代末期ごろの歴史に名を残す女性です。

豊臣秀吉の側室であり、秀吉の死後に我が子である豊臣秀頼を裏から操って政治の実権を握り、最終的に豊臣政権の崩壊と滅亡の引き金を引いた、日本史上でも有数の悪女のイメージで知られています。

淀殿を描いた絵

しかしその一方で、彼女の人生は非常に苦労が多いものでもあり、父の死と母の再婚、そして義父と母の死によって一度歴史上から姿を消し、その後突に豊臣秀吉の側室として歴史上に再登場。その後は秀吉の子である秀頼を産むも、次第に徳川家へと移っていく天下の流れに翻弄された末に、最終的には我が子共々戦火に消えたという、かなり悲劇的な生涯を送った人物でもあるのです。

悪女のイメージが先行しますが、調べて行けば調べていくほど「彼女なりの正義」の一端がつかめてくるのが淀殿という女性の魅力。

ということでこの記事では、そんな淀殿の生涯について解説していきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

淀殿(淀君)とはどんな人物か

名前浅井茶々、浅井菊子
通称淀殿、淀君、淀様、二の丸殿、西の丸殿etc…
誕生日1569年
没日1615年6月4日(享年46)
生地近江国・小谷
没地大阪・大阪城(異説あり)
両親浅井長政(父)、お市の方(母)
兄弟浅井満福丸(兄)、浅井初(妹)、浅井江(妹)
配偶者豊臣秀吉(1588年~1598年)
豊臣秀頼
埋葬場所不明
墓所京都市東山区・養源院、大阪市北区・太融寺

淀殿の生まれ

淀殿の母であり、戦国きっての美人だったとされるお市の方

淀殿の生涯をハイライト

淀殿の生涯を簡単にダイジェストします。

  • 1569年?:近江国大名の浅井長政の長女として近江国で生まれる
  • 1573年:父浅井長政自害、叔父信長の庇護下に入る
  • 1582年:母お市が柴田勝家と再婚、越前国(福井県)に移る
  • 1583年:義父柴田勝家自害、豊臣秀吉の庇護下に入る
  • 1588年頃:豊臣秀吉の側室となる
  • 1589年:鶴松を産む、この頃淀城を賜り「淀の方」と呼ばれるようになる
  • 1591年:鶴松死去
  • 1593年:拾(秀頼)を出産
  • 1598年:豊臣秀吉死去
  • 1600年:関ヶ原の戦いが起こる
  • 1614年:大阪の陣が起こる
  • 1615年:大阪夏の陣が起き秀頼と共に自害、享年46歳

淀殿は1569年、近江国の小谷に「茶々」の名前で生を受けました。父は近江を治める武将・浅井長政(あざいながまさ)、母親は織田信長の妹であるお市の方です。

茶々が生まれた当初、浅井家は周辺の大勢力である古豪・朝倉家や、大勢力となりつつあった織田家とも同盟関係があったため、浅井家を取り巻く情勢は基本的に穏やか。しかしそんな情勢は長続きせず、幼い茶々や妹達は、早速乱世に晒される羽目になってしまうのです。

1570年、浅井家を板挟みにする形で織田家と朝倉家が対立。父である長政が古くからの親交を優先して織田家と敵対してしまったため、1573年に浅井家は滅亡。兄である満福丸も処刑され、茶々は母や妹達と共に、父の仇であり母の生家でもある織田家に引き取られることになってしまうのです。

淀殿の性格

”悪女”というイメージが根強い淀殿だが…?

淀殿のイメージと言えば「夫や子を影から操って政治の実権を握り、最期は時代の流れに乗れずに破滅した戦国きっての悪女」というものが一般的なように思えます。

しかしそれらのイメージの元となっているのは、「親徳川・反豊臣」の風潮が根強かった江戸初期の書物がほとんどであり、実のところ中立的な資料においては、一般的な「悪女」を連想させるような振る舞いはほとんど残っていません。

たしかに中立的な資料にも「些細なことで従姉妹と喧嘩して大騒ぎになった」などの気性の激しい一面を示すエピソードは残っています。しかし本来の彼女はむしろ、敵となった家康にもまずは話し合いでの解決を求めたり、関ヶ原の戦いを起こすことに反対の立場をとっていたりと、かなり理性的な政治家の側面を持った女性だったと言えるのです。

そのため、たまにドラマなどで描かれる「現実を知らない暗君」めいた淀殿のイメージは、江戸初期の資料に引っ張られる形で定着してしまったものだと言えるでしょう。

ただし近年淀殿の評価が見直されているとはいえ、やはり頑固で気位が高かった一面を持っていたのは間違いないようです。家康が淀殿と秀頼に二条城への上洛を求めたことがありましたが、

「無理に上洛を強いるならば、秀頼を殺して私も自害する」

と撥ねつけています。上洛を拒否したことにより徳川政権を認めないと意思表示してしまい、豊臣家の滅亡へと繋がっていくことになってしまいました。

淀殿の子供

豊臣秀吉と淀殿の子とされる豊臣秀頼

淀殿の子と言えば、やはり最後の豊臣氏となった豊臣秀頼が有名です。

母である淀殿の傀儡というイメージで見られることの多い秀頼ですが、実のところ彼はかなり有能な統治者でもあったようです。とはいえ、秀頼が実際に豊臣家のトップとして振る舞えた期間はわずかであり、彼が幼かったころは淀殿が実質的な豊臣家のトップとなっていたことから、「淀殿の傀儡」というイメージも、かなり言い方は悪いですが間違いではないと言えます。

また、秀頼が誕生する4年前にも、淀殿は第一子である鶴松(捨)を産んでいますが、病弱だった鶴松は満2歳で死去。この時の秀吉の悲しみは尋常ではなかったようで、一説ではこの辛い別れが、晩年の秀吉の凶行を決定づけたとも言われています。

とはいえ、この子供たち――とりわけ秀頼については、ある異説も存在しています。その説については、後のトピックで説明させていただければ幸いです。

淀殿の身長は高かった?

淀殿の身長は当時の女性としては背が高く、168cmだったといいます。当時の平均身長が149cmですので、平均よりも20cmも高かったのです。豊臣秀吉は身長が140cmだったといいますので、身長差は30cmでした。

そして息子の秀頼は180cmあったとし、母に似たのか非常に高身長だったといいます。しかしこの身長も、後述する「実は秀吉の子ではない」という噂に拍車をかけてしまった側面があるようです。

淀殿と北政所(ねね)との関係は?

正室の北政所と不仲のイメージが強かったが…
出典:Wikipedia

ドラマで淀殿と正室・北政所の不仲が定番ですが、実際はどうだったのかというと、良くもないけれども別に悪くも無かったのではないかというのが現在の定説のようです。

淀殿が大阪城で秀頼母として権力を持つのは、秀吉が死去し北政所が出家して京に隠居した頃からです。そのため生母として正室を脅かして…という従来の見方は見直されています。

北政所は側室とお祭りに出かけたこともあったという

北政所は秀吉の存命時に側室たちとお祭りに出かけたり、淀殿が秀頼を妊娠した際は一緒に安産祈願に行ったりしていることが分かっています。

奥の人間関係は複雑だとは推察できますが、行動を見る限りあからさまに対立した様子はなく、秀吉の死後に北政所が出家して「疎遠になった」というのが一番強い説のようです。

淀殿の最期

淀殿と秀頼が最期を迎えた大阪城は、何度も再建されながら現代にも残っている

淀殿の最期は、同時に戦国時代の終結でもありました。

1615年に起こった大坂夏の陣にて、淀殿と秀頼は当初は交戦を指示。淀殿自身も鎧に身を包んで、大阪城に詰めかけた反徳川の諸将を激励したと伝わっています。

しかし時代は既に徳川の世に向けて動き出し、形勢は次第に不利に。予定していた援軍もない中で大阪城は砲撃を受け、これによって淀殿は主張を一転して講和を指示します。しかしその講和が結ばれることはなく、大阪城は落城。これによって彼女は、息子である秀頼と乳兄妹である大野治長(おおのはるなが)と共に、炎に撒かれる大阪城の天守で自害して果てたのです。

淀殿生存説?

秀頼と同一視される説がある天草四郎

「大阪城の落城と共に自害した」というのが、淀殿と秀頼の最期についての通説ですが、実は資料の中に「淀殿と秀頼が自害したのを見た」という記述は残っていません。

また、徳川勢力の捜索でも遺体は見つからなかったとされているため、実は淀殿と秀頼には、現在でも根強く生存説がささやかれています。

この生存説においては、淀殿と秀頼は島津氏を頼って九州に落ち延びたとされています。また、九州という立地や、若くして反徳川勢力を率いたという共通点からか、天草四郎と秀頼を同一視する説も、時折ささやかれることがあるようです。

もちろん「噂話」「伝説」の域を出ず、信ぴょう性の低い説ではありますが、こういった形でエピソードがつながっていくと考えられるのも、これもまた歴史の面白さの一つかもしれません。

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