野口英世は何をした人?生涯・年表まとめ【名言や功績、死因も解説】

「野口英世って1000円札で有名だけど、一体何をした人なの?」
「残した功績や人物像を知りたい!」

野口英世と言えば、千円札の肖像画(2021年2月現在)で有名ですよね。生涯を通じて黄熱病の研究や梅毒の研究を行い、その結果ノーベル賞の候補に3回も挙げられた日本を代表する偉人です。

野口英世

実は彼は子供の頃に大やけどを負い、左手を自由に使えなくなってしまいます。しかしそんなハンデを背負いながらも、必死に勉強して医学の道を志し、数々の偉業を達成した人物なんです。

華々しい功績を残している野口ですが、一体どんな人物だったのでしょうか?この記事では野口英世の人物像から残した功績、そして死因までを含めその生涯を解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

野口英世とはどんな人物か

名前野口英世
誕生日1876年(明治9年)11月9日
没日1928年(昭和3年)5月21日
(享年51歳)
生地福島県耶麻郡三ツ和村
(現・福島県耶麻郡猪苗代町)
没地ガーナ共和国・アクラ
配偶者メリー・ロレッタ・ダージス
埋葬場所アメリカ合衆国
ニューヨーク州 ニューヨーク
ウッドローン墓地

野口英世の生涯をハイライト

野口英世は明治時代に生まれた細菌学者です。福島県に生まれ、幼い頃は「清作」と呼ばれていましたが、学生時代に「英世」と改名しています。左手に大怪我をした際、受けた医術に魅せられたことが、医学の道を志すきっかけになりました。

伝染病研究所は北里柴三郎を迎えるために福沢諭吉が私財を投じて設立した

伝染病研究所で北里柴三郎に師事し、細菌学を研究します。その後、当時の医学の最先端研究が行われていたロックフェラー研究所所員に推され、アメリカへ渡ります。梅毒スピロヘータの純粋培養に成功するなど、数々の研究成果から3回もノーベル賞の候補に挙がりました。

写真取付装置を取り付けた顕微鏡の前に座る野口英世

アメリカで出会ったメリーと結婚し、主にロックフェラー研究所を拠点に研究を続けました。黄熱病が猛威を振るい、収拾がつかなくなってきたため、病原菌を見つけようと英世は研究所から中南米やアフリカへ派遣されます。懸命な研究の結果、予防法と治療法が見えてきた矢先、英世自身が黄熱病に罹ってしまいました。1928年、英世はガーナで息を引き取りました。

医師として様々な病原菌の研究を行った

野口英世は治療よりも研究する医師として活躍しました。

研究室の野口英世

20歳という若さで医師免許を取得、22歳には北里柴三郎が在籍する伝染病研究所の助手として働き始めます。25歳でフレクスナー博士の助手としてヘビ毒の研究に取り組み、同年11月には研究の成果を発表しました。

28歳でロックフェラー研究所の一等助手となり、梅毒の研究に着手。当時の英世は猛烈な勢いで研究をしていたそうです。37歳で麻痺性痴呆に梅毒スピロヘータが関連していると発表し、その後ノーベル賞候補に3度ノミネートされます。

42歳で黄熱病研究のためアフリカへ出張し、生涯を通して研究にいそしみます。自身も黄熱病にかかって亡くなるまで、オロヤ熱やトラコーマ病原体についての論文など数々の研究成果を残しました。

幼い頃に左手に大やけどを負っていた野口

野口英世 火傷の治療後

英世は1歳半の時に自宅にある囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負います。左手は大きなコブ状に腫れ上がり、母・シカは自分の監視の目が甘かったと非常に悔やみます。このことがきっかけで農作業を行うのは難しいと判断し、勉学で世の中の役に立とうと思ったのです。

高等小学校四年生の時に左手の手術を受けますが、後遺症は残り、自由に動かすことはできませんでした。しかし、この時の手術の素晴らしさに感銘を受け、医師を目指すようになったのです。左手の大やけどがなければ、細菌学者の野口英世は生まれなかったことになります。

坪内逍遥の著作がきっかけで改名

作者の坪内逍遥自ら描いた「当世書生気質」の挿絵

英世に改名した理由は、元の名前「清作」が、小説家の坪内逍遥の人気作品「当世書生気質」に出てくる主人公「野々口精作」に似ていたからです。

この小説は明治時代の学生生活を描いており、「野々口精作」は自堕落な生活を送っていた遊び人でした。そのため、英世はこんな主人公と似た名前の「清作」という名前が嫌になり、改名したのです。

野口英世の家族構成は?妻との間に子供はいた?

野口英世の家族構成は以下の通りです。

  • 父:野口佐代助
  • 母:野口シカ
  • 姉:野口イヌ
  • 弟:野口清三
  • 妻:野口メリー・ダージス(メリー・ロレッタ・ダージス)
野口の妻である野口メリー・ダージス

清作の家庭は平均よりも裕福でしたが、父・佐代助が大酒飲みであったため、いつも貧乏をしていました。母・シカは教育に熱心で、猪苗代高等小学校の小林栄先生の経済的な援助を受けてまで清作を高等小学校へ入学させました。

妻のメリーとはロックフェラー研究所時代にニューヨークの酒場で知り合い、結婚しました。英世とメリーの間に子供はありません。

母「野口シカ」に支えられた野口英世の功績

野口英世と母のシカ

母であるシカは、英世が幼い頃に負ったやけどは自分の不注意によるものだと考え、英世に対して申し訳ない気持ちを生涯持ち続けていました。英世は福島を離れてからはほとんど故郷に戻ることがなかったため、シカは英世に手紙を送って心情を綴っています。

野口英世記念館に展示されている野口シカの手紙

ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。

シカは文字を書く機会がほとんどなく、英世への手紙もたどたどしいものでしたが、それだけに英世を想って早く帰ってきて欲しいと繰り返し書いている文面には胸を打たれます。英世も、シカの期待がよくわかっているだけに、その想いに応えようと頑張って研究に打ち込んだのです。

野口英世の死因は?黄熱病だった?

黄熱病を媒介する蚊

野口英世は黄熱病の研究中にガーナ共和国のアクラで亡くなったことが知られています。黄熱病によって亡くなったとされる文献や資料が多いですが、英世が亡くなった当時、アクラの街では黄熱病は流行していなかったそうです。

実は自殺説や他殺説も上がっている野口英世の死ですが、やはり黄熱病の可能性が最も高いようです。英世の助手であったヤング医師が英世の血をサルへ投与すると、黄熱病にかかったそうです。また、ヤングの行った死体解剖でも黄熱病が死因であると断定されました。

野口英世の肝臓標本がロンドンに保存されていましたが、その標本からも黄熱病に犯されていたという証拠が残っています。以上のことから英世が黄熱病で亡くなったという説が濃厚です。

英世自身の作った薬が黄熱病に効かないということで自ら確認しようとアフリカへ飛び立ちましたが、奇しくもその研究中に当の病気によって英世は命を失ってしまったのです。

野口英世の功績は?何をした人だった?

功績1「黄熱病の病原菌を発見」

黄熱病 ウイルス

野口英世の生きた19世紀から20世紀にかけては細菌学が躍進している時代でした。しかし、主要な病原体はパスツールやコッホなどの有名な微生物学者に発見され尽くしていたため、新しい病原体の証明は極めて困難でした。

そのような中でも英世は諦めず、「日本人は眠らないのではないか」と言われるほどの猛烈な研究によって、小児麻痺、狂犬病、トラコーマなどを発見します。1918年にはエクアドルの地で黄熱病の病原体を同定します。これは当時の世界のトップニュースになりました。

現在では黄熱病の原因がウイルスであることが判明していますが、その研究成果に英世が大きく寄与していることは間違いありません。

功績2「梅毒菌の培養に成功」

梅毒 病原体

野口英世の功績として最も重要なのが梅毒の純粋培養です。1911年に培養に成功した当時、この培養技術は至難のわざとされており、世界的な賞賛を集めました。しかし、後年には誰も同一の方法で培養できなことなどから、この成果は否定されてしまいます。

1913年には進行性麻痺の患者の脳内から梅毒を発見しました。現在ではこちらの業績が英世の生涯で最も偉大な業績であるとされています。当時、すでに治療薬も開発されていましたが、進行性の麻痺の原因が梅毒と断定されてはいませんでした。

それを確定するために英世は数えきれないほどの標本を顕微鏡で確認し、患者の脳内には梅毒が潜んでいることを発表し、世界からも認められたのです。

功績3「オロヤ熱とペルー疣が同じ病気であると証明 」

オロヤ熱の病原体を媒介するとされるサシチョウバエ

現在はバルトネラ症と呼ばれているオロヤ熱とペルー疣ですが、南米の山間部で流行っていた1920年代当時、この二つの原因菌が同じなのか激しく議論がなされていました。

バルトネラ症によって引き起こされる溶血性貧血で毎年たくさんの人が犠牲になっているため、なんとかこの病の原因を解明したいと世界中の細菌学者が躍起になります。英世も膨大な量の患者の血といぼのサンプルを顕微鏡で観察し、原因解明につとめます。

そして1926年、ついに英世がこの二つの病の病原体が同じであることを突き止めました。この成果は後年、正しいということが改めて証明されています。

功績4「アフリカで深刻な感染症対策に取り組んだ」

ガーナの首都アクラにある野口記念医学研究所

英世の終焉の地となった西アフリカのガーナには、日本の支援で設立された野口記念医学研究所があります。すでに40年近く感染症研究を続けた実績がありますが、今は新型コロナウイルス感染症対策の拠点として期待を集めています。

もともと生物医学研究所としてPCR検査機も保有していたため、迅速にコロナ検査体制が準備できました。ガーナはアフリカでも新型コロナウイルスの感染拡大が深刻な地域であり、これから始まるワクチン接種などの対応の際にも野口記念医学研究所は大きな役割を果たすことになりそうです。

英世が他界してもうすぐ100年になりますが、英世が世界の人々の健康のためにガーナで尽力したことがきっかけで、日本とガーナの医学的な繋がりができ、今は野口記念医学研究所がアフリカの人々を新型コロナウイルスの脅威から救う光となりつつあるのです。

功績5「その他、数々の受賞歴・名誉称号」

野口英世は、その他数々の賞を受賞しました。

  • 1913年 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
  • 1914年 勲三等(スウェーデン)
  • 1914年 (ノーベル賞候補)
  • 1915年 勲四等旭日子綬章(日本)
  • 1915年 (ノーベル賞候補)
  • 1918年 (ノーベル賞候補)
  • 1920年 ジョンスコットメダル名誉賞(アメリカ合衆国)
  • 1924年 レジオンドヌール勲章(フランス)
  • 1925年 正五位(日本)
  • 1928年 勲二等旭日重光章(日本)、貿易功労金牌(フランス)

名誉称号も以下のようにもらっています。

  • 1907年 ペンシルベニア大学名誉修士
  • 1918年 エクアドル陸軍名誉軍医監名誉大佐
  • 1918年 グアヤキル大学名誉教授
  • 1918年 キトー大学名誉教授
  • 1920年 サン・マルコス大学名誉教授 名誉博士
  • 1921年 ブラウン大学名誉理学博士
  • 1921年 エール大学名誉理学博士
  • 1925年 パリ大学名誉医学博士

野口英世の名言

「人生の最大の幸福は一家の和楽である」

野口英世は妻メリーと仲睦まじく暮らしていました。二人の間に子供はいませんでしたが、メリーは優しく、大らかな人柄で英世が研究にのめり込んでいても、細菌の標本を家に持ち帰ってしまっても寛容に受け入れていたそうです。

ロックフェラー研究所時代、研究に没頭していた英世からこのような名言が出るのは意外ですよね。

「模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である」

野口英世は研究者になる当初、北里柴三郎の研究室へ入り助手として修行、次いでフレクスナー博士に師事し、研究の腕を上げていきます。その後に自らの研究のテーマとなる梅毒や黄熱病の研究に取り組むようになったのです。

北里柴三郎

英世もはじめは人からの教えや真似によって修練して、のちに自分のやりたいことへ発展させるということの重要性にのっとって研究をしていたのです。

「障害者であることは、学問においては問題にならない」

1歳の時に大やけどをし、左手に障害が残っていても、勉強をすることによって人々の役に立つことができると考えた英世の信念を表した言葉です。農作業や土木業などの体を使う仕事では不自由な思いをするけれども、学問ならば人と対等に渡り合えるということです。

「人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」

実はこの言葉の前には「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない」という文言が入っているのです。

もし左手が自由に使えていたら、もう少し裕福だったらなど幼い頃には悩んだことが多々あったけれども、過去はもう取り返せない、自分自身とこれから来たる未来を変えていくしかないんだという決意の表れのようにも聞こえます。

野口英世の名言10選!発言の背景に込められた意図や背景も解説

野口英世の人物相関図

1 2

6 COMMENTS

匿名

野口英世の歌小学生の音楽の時間で歌いました3番まで聴きたいです、歌詞忘れております。
コロナのこの時細菌と向き合っていらっしゃる
研究者の方々、命大切に明日の為に光下さい。

返信する
野口英世

野口英世の事をとても知りたかったので良かったです。まさか英世さんの英世を改名しているなんて思わなかったです

返信する

コメントを残す