盧溝橋事件とはなに?トイレが原因?きっかけや場所、真相を簡単に解説

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは1937年、中華人民共和国北京市郊外に架かる盧溝橋という橋で、日本軍と中国軍とが戦闘になった事件です。この事件が結果的に、1945年まで続いた日中戦争の始まりとなってしまいました。

1937年に盧溝橋事件がおきた盧溝橋

この盧溝橋事件は、勃発当初から多くの謎を孕んでいました。想像を絶する数の犠牲者を出した日中戦争の発端という重要な事件であるにも関わらず、未だに歴史学者の中でも様々な説が出されているのです。中には日本軍による自作自演ではないかとの説もあります。

この記事では、これまでに出されている盧溝橋事件の真相に迫る説を紹介するとともに、事件の背景や結果についても触れていきます。

盧溝橋事件とは何なのか?といった説明から、事件当日の動き、盧溝橋事件とよく間違われる柳条湖事件、上海事変の解説もしていきますので、この記事を最後まで読めば、盧溝橋事件の全体像が掴めるはずです。どうぞ最後までお付き合いください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

盧溝橋事件とは

日本軍と中国軍の衝突事件

「盧溝暁月」の石碑
この石碑から盧溝橋という表記になった

盧溝橋事件とは、1937年7月7日夜に北京郊外の盧溝橋付近で起こった、中国北部駐屯日本軍部隊と中国第29軍との衝突事件です。

盧溝橋は永定河に架かる橋です。「東方見聞録」で有名な13世紀のイタリア人商人マルコ・ポーロが渡ったことでも知られる橋であることから、盧溝橋事件は英語で “Marco Polo Bridge Incident”、もしくは “Battle of Marco Polo Bridge” といった呼び方をされることもあります。

また、以前は「盧溝橋」を「蘆溝橋」という表記もされていましたが、中国政府によって1981年に「盧溝橋」という表記に統一されました。これは盧溝橋に立っている、清時代の皇帝・乾隆帝がここで月見を楽しんだという「盧溝暁月」と書かれた石碑の表記を尊重して、決定されたそうです。

盧溝橋事件の経緯

7月7日 – 「数発の実弾が発射されたことから全てが始まる」

盧溝橋事件での日本軍・中国軍の動き

7月7日22時30〜40分ごろ、夜間演習をしていた日本軍第八中隊で、突如数発の実弾が発射された音と光が確認されます。

清水中隊長は兵士を集めると、志村菊次郎という兵士が行方不明になっていることが分かりました。清水中隊長は第三大隊本部へ報告の伝令を出すとともに、志村の捜索と応戦の準備に入ります。

志村は20分後に隊に戻りました。この空白の20分間は、道に迷った、もしくは用便を済ませていたという説があります。しかし本部に志村が帰隊したという報告はされないままでした。

清水中隊長からの報告が一木清直大隊長に届いたのが、日付が変わる直前の頃でした。一木大隊長はすぐさま牟田口廉也連隊長に連絡します。河邊旅団長が出張で不在であった当時、牟田口は旅団を動かす権限を持つ人物でした。

7月8日 – 「皇軍の威武を示すため戦闘を開始する」

一木清直大隊長

日付が変わってすぐ、牟田口連隊長は一木大隊長に盧溝橋への出動を命じます。そして赤藤憲兵分隊長に中国側の動向を探らせます。

午前0時20分、松井特務機関長が牟田口連隊長より報告を受けます。特務機関とは、諜報・謀略などを行っていた組織です。

午前1時45分、松井特務機関長は事件拡大防止のため、現地に代表を派遣することを提案します。

午前2時3分、一木大隊長が清水中隊長と合流し、ここで志村の帰隊を確認します。しかし、部隊長からはこの一件について中国と交渉するように指示があったので、まずは一文字山付近を占領してから中国側との交渉に入るべきという一木大隊長の判断で、一文字山占領に向けて行動が開始されます。

午前2時20分、特務機関も志村の無事を確認します。しかし日本軍の演習を邪魔して不法に発砲したのは皇軍に対する最大の恥辱であるとし、中国側との交渉に臨むことになりました。

午前2時30分、赤藤憲兵分隊長よりの調査報告が牟田口連隊長のもとに届きました。その結果牟田口は、この一連の出来事は中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断するに至ります。

午前3時25分、再び発砲音が聞こえますが、誰を狙ったものかは定かではありません。

午前3時半、日本と中国の事件調査団が現地へ向けて出発します。

午前4時20分、牟田口連隊長が一木大隊長へ戦闘開始命令を出します。不法発砲した中国軍に鉄鎚を加えて皇軍の威武を示すべきだとの判断で出された命令でした。戦闘が始まるも、5時ごろ砲撃は一旦中止されます。

午前5時30分、再び戦闘が始まり、日本軍と中国軍の全面衝突となりました。

午前7時半、激しい戦闘は収束します。しかし、しばらくは散発的な戦闘が続きました。

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1 COMMENT

匿名

日本悪しか言わない。 盧溝橋事件は共産党の罠でしょう。
国民党と日本軍を争わせ、漁夫の利を得るための工作です。中国人、朝鮮人ともに嘘つきの裏切り者です。 通種事件の鬼畜ぶり、それを南京事件と世界に宣伝しました。
人食いのシナ人、戦後もおそらく8000万人の人を殺した、それを食いました。
日中戦争も大東亜戦争も嵌められた戦争です。

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