井伊直弼とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言も紹介】

井伊直弼にまつわる武勇伝・都市伝説

都市伝説・武勇伝1「「一期一会」は直弼が広めた?」

「一期一会」は井伊直弼が世に広めた

直弼は茶の湯に精通していたことは有名ですが、茶の湯の研究に没頭した結果、ある四字熟語を世の中に広めました。

それが「一期一会」です。一期はもともと仏教の言葉で、人の一生を意味しています。茶会に臨むときには、一生に一度の機会だと思うべきだと言う意味が込められています。

直弼がこの言葉を著書の巻頭に書いたことから、茶の湯には大切な精神として広く知られるようになり、今では人生のあらゆる場面で大切にされる言葉になっています。

都市伝説・武勇伝2「桜田門外の変の原因は牛肉だった?」

井伊直弼が暗殺される原因の一つとなったのは牛肉…

直弼が命を落とした桜田門外の変、日本開国をめぐる直弼と水戸藩の対立が原因とされていますが、それだけではなかったようです

それが「牛肉」です。直弼が水戸藩主の徳川斉昭に牛肉の味噌漬けを贈らなかったことが原因だと言われています。

彦根藩は牛革を収めることを条件に幕府から牛の飼育を許されていたため、肉を味噌漬けにして、将軍や大名への献上品にしていました。ところが直弼は熱心な仏教徒だったために、牛の殺生を禁じ、味噌漬けも贈られなくなりました。

水戸藩士たちは味噌漬けを楽しみにしていた藩主の恨みを晴らすために、直弼を襲撃したということです。この大事件を水戸藩では「御牛騒動」と呼んでいたそうですから、まったくのデタラメではなさそうです。

井伊直弼の簡単年表

1815年
井伊直弼誕生

井伊直弼は第十一代彦根藩主の井伊直中の14男として生まれます。14番目の子供で側室の子供であるということもあり、生まれてから31年という非常に長い期間を彦根藩の屋敷の中で過ごします。

本人が埋木舎と呼ぶこの時期を井伊直弼は様々な学問を修める時期と位置づけ、武芸学問両方に打ち込んでいきます。これは後の井伊直弼の政治へと生きていきます

1842 年
アヘン戦争終結、南京条約締結

清国はイギリスに敗北、南京条約という不平等な条約を結ばされます。お隣清国を先進国と見ていた日本にとってこの出来事は非常に大きな衝撃を与えるものでした。

1846年
世嗣に選ばれる

この年に突然元の世嗣の急死により世嗣に選ばれた井伊直弼は彦根藩主として江戸で暮らすようになります。この間も政治に積極的に参加し、人脈を築いていきます。

1850年
彦根藩主に就任

第十二代藩主井伊直亮がなくなったことにより予定通り彦根藩主へと就任。優秀な人材の発掘や藩校の改革を始め、より優秀な人材を集めやすくします

1853年
ペリー来航

ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に来航します。この時は幕府は回答を保留します。この年プチャーチンも長崎に来航します。

老中の阿部正弘はこれにどう対応するべきかを広く意見を求めます。


1854年
日米和親条約

二度目のペリー来航に対し幕府はアメリカの条件をのみ、日米和親条約が締結されます。

1855年
阿部正弘、老中首座を堀田正睦に譲る

徳川斉昭の反対を視野に入れて阿部正弘は井伊直弼の推挙により開国派の堀田正睦を老中首座に据えます。また、開明的な視野を持ってると見た島津斉彬や松平慶永といった人たちを幕政に加え、徳川斉昭を懐柔しようとします

1856年
アロー号事件をきっかけにアロー戦争が勃発

清国とイギリス都の間で起きた戦争をきっかけにアメリカは更に幕府にプレッシャーをかけてきます。幕府もアヘン戦争に引き続き起きたこの戦争に対し一刻も早く日本も近代化する必要性を感じていきます。

1857年
阿部正弘死去

調整役の阿部正弘が死に、これに伴い徳川斉昭が幕政から去りさらに、開国派と攘夷派の対立が将軍の後継者問題などで激化します。またアメリカ領事のハリスはさらに強く通商を求めてくるようになります。

1858年
井伊直弼大老就任、日米修好通商条約締結

朝廷からの通商の許可を求めた堀田正睦が失敗に終わった受け、井伊直弼が大老に就任。朝廷の許可は得られていませんでしたが日米修好通商条約を結びます。

これに諸藩は動揺を隠せず、徳川斉昭や松平慶永は抗議。さらに島津斉彬は兵を率いて京に上りさらに孝明天皇は井伊直弼を非難する密勅を出す事件なども起きる騒ぎとなりました。

井伊直弼はこれに関連して、一橋派として貴族に接触した人物を処罰するいわゆる安政の大獄にまで発展します。処罰された人物の中には一橋派の人物だけでなく井伊直弼の開国政策を非難していた吉田松陰も含まれていました。


1860年
桜田門外の変

登城途中、水戸浪士を中心とした武装グループに襲われ、抵抗しようとするも下半身を撃ち抜かれてしまったために反撃できずに首を取られます。享年は46でした。

井伊直弼の具体年表

1815年 – 0歳「彦根藩主の家に生まれる」

彦根城にある井伊直弼像

井伊直弼は文化12年(西暦1815年)彦根城の別邸槻御殿にて井伊家十一代直中とその側室お富の方の間に生まれます。

同年に生まれた人物は後にプロイセンの宰相、ドイツ皇帝となるビスマルクや、また皮肉なことに後に安政の大獄の際敵対する梅田雲浜なども同年の生まれになります。

井伊直弼と同じ時代を生きたビスマルク

井伊直弼は幼名を鉄之介といい、直中の息子としては十四男、また富の儲けた子供の中でも三番目でした。

当然14番目の子供でしかも庶子であることから世継ぎとなる可能性は非常に低かったものの、父、直中の隠居中の子供ということもあり、幼少時は槻御殿で、また直中が死んだ天保2年(西暦1831年)には城下の御用屋敷へと引っ越します。

また、直中が亡くなる少し前から弓術・銃槍・居合、また射的場においては銃術も習い始めます。

他にも庶子が仏門に入ることも珍しくなかったことから禅にも傾倒を深め、和歌、国学、また茶の湯を習い、特に居合は31歳の折に「新心新派」という新流派を開くほどまでに上達をします。

茶の湯の思想が影響を与える

そして、茶の湯や禅の考え方も後に彼の思想に大きな影響を与えます。その一つが「知足」と呼ばれる禅の考え方です。

「知足」、つまり「足りることを知り、自分の分をわきまえる」ということですが直弼はこの考えをさらに発展させそれゆえに身分の低いものと高いものにはそれぞれの分があり、身分の高いものがむやみに侘びを追求したり身分の低いものが不相応な高価な道具や豪勢な料理で人をもてなすことは茶の湯の本質ではないと後に説いています。

また、直弼は「茶論書」において「喫茶の法は(中略)政道などに預かるべきの器にあらず」と前置きをしつつ、この喫茶の法が国中に正しく行われれば天下はただちに安寧を取り戻すだろうとして、この茶道の考え方が彼の政治についての考え方にも大きな影響を及ぼしたことをうかがい知れます。

少し脱線しましたが、とにかくこのようにして直弼は17歳から32歳になるまでの実に長い期間を御用屋敷にて教養を深めながら過ごします。

直弼はこの期間過ごした屋敷のひとつを自虐して「埋木舎」とも呼んでいます。おそらく自分自身をこのまま一生花を咲かせることもない埋もれた木のように消えていく存在だと感じていたのだと思います。

1846年 – 32歳「世嗣に選ばれる」

世嗣としての江戸出府

思いもよらず江戸出府を命じられた直弼

転機が訪れるのは弘化3年(西暦1846年)、直弼が32歳になった時に当時の藩主であった十二代藩主直亮の世嗣であり、直弼の兄でもあった直元が急死したことでした。

代わりの世嗣として誰が良いかという話になった際国許に残っていた井伊直弼に白羽の矢が立ったことで江戸出府を命じられた事でした。

ついこの間まで埋木として一生を終えるかと思っていた自分が突然世嗣に選ばれるという降って沸いたかのような事態にさすがの直弼も親友摂専への書状において、

「実にもって存じ寄らざる儀にて、小子身に余り有りがたき仕合せに存じ奉り候えども、何分愚昧者の儀、大心配仕り居り候」

と思いもよらなかった境遇の変化に驚きを隠せませんでした。このように困惑をしつつも直弼は世嗣、つまり時期藩主となる身として活動を始めます。

例えば、将来藩主となるに際しますます読書などを通じて先人に学んだり、また、藩内の頼れる人物を訪ねて意見を求めるなどして人脈を築いていきます。また、現藩主である井伊直亮の政策にも積極的に意見をしていきます。

父であり藩主だった井伊直亮

当時彦根藩は京都守護職を幕府より仰せつかっていましたが、それに加え度々現れる外国船の警護強化の一環で相州警護の任をも命じられました。

井伊直弼はこれに反対します。直弼が言うには当時の彦根藩はすでに京都守護を果たしていることからこれに加え相州警護を行うのは「家格相違之儀」だとして反対するのです。

これもある意味で前述の茶の湯や禅で直弼が学んだ価値観「知足」に通じるもので、自分の分、今回で言うと京都守護という仕事に集中するための意見でした。

結果的に意見は容れられず、相州護衛は行われることとなりますが、井伊直弼が当時から藩政に強い意欲を示していたことをうかがい知れます。

1850年 – 34歳「彦根藩主就任」

彦根藩主として

嘉永3年(西暦1850年)に井伊直亮が亡くなると当初の予定通り井伊直弼は彦根藩主へと就任します。

まず直亮の遺志であるとして一説によると十五万両という大金を領民に分配。度重なる倹約令にあえいでいた領民たちを喜ばせます。
さらに新たな人材の登用の一環として長野主膳や宇津木景福といった優秀な人材を積極的に登用します。

ほかにも弘道館と呼ばれる藩校の教育方針を改革にも着手、師範の世襲制をやめ、より優秀なものへ師範を譲るよう命じたり、またこのように改革に着手して藩主や家老自らが積極的に学問に意欲を示す姿勢を見せることによって藩士たちの好学の雰囲気を高めて、さらなる在野の人材登用にも尽力します。

黒船来航

日本を大きく揺るがしたペリーの来航

ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に来航したのはそれから3年後、嘉永6年(西暦1853年)のことでした。

地球を半周以上もして日本にやってきたペリーの要件は日本との永世不朽の和親、下田と函館の開港、また食料、石炭、薪水などの供給や領事の駐留の許可などなどでした。

この艦隊の来航は日本を大きく揺るがすこととなり、また彦根藩においてもアメリカに対する対応をどうするかで意見が割れます。

中川禄郎など、アメリカを追い払うことは不可能であるとしてひとまずは国交を行って外国の大砲や船の技術を知ることが重要という人も少数ながらいましたが、おおむねこの要求を拒絶するべきだという意見でした。

突然の黒船来航は日本に衝撃を与えた

井伊直弼自身も最初こそ拒絶するべきだと考えていましたが、同年の7月18日にロシアのプチャーチン艦隊までもが来航したことで意見を改め、中川の言うとおり一時開国するべきだという意見に転じ、意見書を提出します。

ちなみにこの件に関して意見書を提出した各大名31家の内、この通商に肯定的な意見を示したのは佐倉藩、福岡藩、そして彦根藩の3つだけだったようです。

翌年に日米和親条約が締結され、さらにその翌年には老中首座の阿部正弘が堀田正睦に老中の首座を譲ります。この堀田正睦こそ前述の通商に肯定的な意見を示した佐倉藩の藩主であり、この就任には井伊直弼の推挙もありました。

日本開国100年記念切手の中心に描かれた井伊直弼

このように、老中たちの意見は開国で固まりつつありました。というのも、現にこれより10年以上前の1840年、開国を拒んでイギリスと戦争となった隣の清国は今やイギリスの支配下のような状態にあり阿部正弘や井伊直弼は日本を清国の二の舞としてはならないという強く考えていました。

その意識はちょうどこの時期の安政3年(1856年)にアロー号事件と呼ばれる、イギリスが清国に対して、イギリス人の船長を不当に逮捕したとして謝罪と賠償金を要求するという事件が起こるとさらに強まりました。

しかしそれは簡単なことではなく、多くの懸念要素がありました。中でも大きな懸念要素が水戸藩の藩主、徳川斉昭の存在です。徳川斉昭は徳川御三家のひとつ、水戸の元藩主でありながら攘夷派の権威のような人物で開国派の阿部正弘や井伊直弼らにとって乗り越えるべき非常に大きな障壁でした。

対立を経て海防参与から失脚した水戸藩の藩主「徳川斉昭

阿部正弘は当初、徳川斉昭に海防参与を与えてある程度幕政にも参加させることによって飼いならす作戦に出ます。阿部は斉昭を「獅子のような方」と評し、「獅子は古来毬(まり)にじゃれて遊ぶもの」と揶揄していました。

その一方で越前の松平春嶽や、薩摩の島津斉彬などの開明的な見方を持つ大名を外様も関係なく幕政に参加させます。こうすることによって斉昭の発言力を抑えつつ議論の方向性を有利に展開しようとしたのです。しかしこの作戦は安政4年(1557年)に阿部正弘が死去したことで頓挫します。

さらに調整役の阿部正弘がいなくなったことに伴って本来開国派と攘夷派して対立していた井伊直弼らと徳川斉昭の対立が再燃し、対外路線や将軍の世嗣を紀伊の徳川慶福か水戸の徳川慶喜にするかをめぐってぶつかります。

この対立により徳川斉昭は海防参与を辞任。幕政は堀田正睦が仕切ることになります。

その頃アメリカの駐日領事ハリスは日本との通商をさらに強く求めます。特に前述のアロー号事件などの出来事を例をとって、ことさらに英仏の脅威から身を守るために一刻も早くアメリカと通商を初めて軍備を整えるのが有益かを説き、10月21日には将軍徳川家定の前で演説をすることさえします。

日本との通商を強めたタウンゼント・ハリス駐日領事

この対応を一身に担っていたのが下田奉行の井上清直と岩瀬忠震でした。協議を重ねていきおおむねアメリカの出す合意できる条件に達したと感じた二人でした。

しかしその一方でアメリカと通商を始めることでこれまで200年以上続けてきた鎖国体制に終止符を打つという大変化に国が混乱しないかという心配もありました。

老中たちは協議した結果、普段は基本事後報告であった天皇への対応に対し、今回はまず孝明天皇の許可を先に得ることとします。このように武家と公家が意見を一致させることによりより磐石な挙国一致を成し遂げようと考えたからです。

しかしこれが難航します。安政5年(1858年)2月9日堀田正睦は自ら京都に向かい天皇に対し勅許を得ようとしますが3月20日に孝明天皇は自ら堀田正睦と対面し、左大臣近衛忠煕を通じて自らの意見を伝えます。

その内容は「鎖国の良法を変革すれば人身の行き着くところに関わる、公家の群臣も国体に関係することだからのちのちのことなどを心配している。だから再度三家、諸大名で衆議して、もう一度言上するように」という内容でした。

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2 COMMENTS

レキシル編集部

> 匿名さま

大変失礼しました。修正致しました。
ご指摘ありがとうございます。

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