東條英機とはどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や名言、死因、遺書も紹介】

東條英機の生涯年表

1884年 – 0歳「東條英機誕生」

父親の東條英教

東條英機誕生

東條英機は1884年に英教と千歳の三男として誕生。長兄と次兄は早くに亡くなり、東條は実質的な長男として育てられます。父英教は自分の夢を託す為、英機に英才教育を施しています。それは陸軍大将になる事でした。

父英教の思いとは

英教は陸軍大学校の第一期を首席で卒業したものの大将になれず、中将で退役。当時の陸軍は長州藩出身者が幅を利かせていました。英教は自分が佐幕派の盛岡藩出身だから大将になれなかったと考えていました。

実際には首席でも大将になれないケースは多く、直接の原因は日露戦争の作戦ミスだと考えられています。とは言え英教は大将になれなかった理由を知らず、常日頃から軍人の心構えを息子に説き続けていました。

軍人としての東條は、優れた実務能力を持ちつつも、戦局へのビジョンを持ちませんでした。それは親のレールの上を歩き、軍人になる為に軍人になった事が要因だったのかもしれません。

1905年 – 21歳「陸軍士官学校を卒業」

若き頃の東條英機

陸軍士官学校に進学する

1899年には将来の幹部将校候補を養成する東京陸軍幼年学校に進学。その後は陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校に進みます。卒業時の成績は360人中10番と優秀ではあるものの、父には及びませんでした。

1905年3月に陸軍学校を卒業し歩兵少尉となります。日露戦争では第十五師団歩兵第五十九聯隊の小隊長として大連に上陸。まだ若い為に実戦に配属されず、警備役に回っています。

かつ子と結婚

1909年に東條は日本女子大学校国文科の学生だった伊藤かつ子と結婚します。東條英機25歳、かつ子19歳の頃でした。かつ子は結婚後も学生を続けるものの、家事に追われて退学しています。

東條は生涯妻一筋で、浮ついた話は一切ありませんでした。1942年の年賀の席で酒に酔った東條が

芸者遊びにうつつを抜かす者などダメだ! オレは若い時も今も女房一筋だ!

と言い放ったエピソードがあります。夫婦仲は生涯良かったそうですね。

1912年 – 28歳「陸軍大学校への進学」

陸軍大学校

陸軍大学校に進学する

陸軍将校の登竜門である陸軍大学校を受験するものの不合格となります。父の度重なる説得により、東條は再受験を決意。合格に必要な学習時間を割り出し、1日辺りの勉強時間を計算して猛勉強をしました。

東條が合格出来るよう、1つ上の先輩である永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らが集まり勉強会が行われる等、先輩からは可愛がられていたようです。

1912年に陸軍大学校に無事に合格。父英教はそれを見届けるように1913年に心臓病で死去します。東條は勉強を重ね11番の席次で卒業します。父の成績には及ばないものの、海外勤務の特権を得られる成績でした。

1915年 – 31歳「陸軍大学校を卒業する」

和田亀治

和田亀治の知遇を得る

1915年に陸軍大学校を卒業。軍隊を指揮する最高本部である参謀本部の勤務を希望しつつも、兵器や機材の補充を担当する陸軍兵器廠と陸軍省に配属となります。

当時の参謀本部は父の仇(だと思っている)である長州閥が幅を利かせていた為、長州閥ではない和田亀治の元で働く事を決めたのでした。

東條はカミソリ東條の名に相応しく、抜群の事務能力を発揮。陸軍の諸法規等が記された「陸軍成規類聚」を丸暗記しています。その後は海外勤務も増えていき、1921年7月にはドイツに赴任します。

1921年 – 37歳「バーデンバーデンの密約に参加」

現在のバーデンバーデン

ドイツに滞在した仲間達との再会

1921年10月21日、東條の為に勉強会を開催した永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人は偶然欧州に派遣されていた為、ドイツのバーデンバーデンで同窓会を開きます。話のテーマは陸軍の長州閥の打破でした。

彼らは陸軍士官学校16期生。日露戦争で実戦に参加したのは15期生までであり、16期生以降は実戦を知りません。翌日にはドイツに赴任していた東條も呼び寄せ、話は更に盛り上がり、いくつかの事が決まります。

バーデンバーデンの密約の内容

大まかな内容は

  • 軍の近代化、国家総動員体制の確立
  • 非長州閥で地位の高い人物(真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎)を擁立させ、自分達の意見を反映させる
  • 長州閥打倒
  • 満蒙問題の早期解決 等です。

当初のバーデンバーデンの密約は、同窓会で盛り上がった程度の話でした。翌年に永田と小畑が帰国するとメンバーを増やしていきます。陸軍の派閥争いはこの密約を皮切りに行われるのです。

1929年 – 45歳「一夕会の結成」

永田鉄山

陸軍省整備局動員課長に就任

東條は1923年には帰国。1929年には歩兵第一聯隊長に配属されています。「功績1」でも取り上げたように、東條は隊員の名前を覚え、面倒見の良い上司として評判でした。永田の影響があるのかもしれませんね。

一夕会の結成

1922年以降も永田と小畑の会合は東條を含めた15〜18期生を集めて続けられ、二葉会と名付けられます。それに感化され21〜24期生も木曜会を結成。1929年には2つの会を合わせた一夕会が結成されます。

木曜会には東條の腹心となる鈴木貞一(22期)、天才と名高い石原莞爾(21期)らがいます。一夕会の結成理由は、地道な研究より賛同者を増やして改革を進めた方が良いと永田が考えたからでした。

第一回の会合内容はバーデンバーデンの密約とほぼ同じです。この頃満州では中国人の反日感情が強く、日本人が実際に殺害される事態も起きています「満州を何とかしないと」と一夕会のメンバーは考えていました。

1931年 – 47歳「満州事変勃発」

一夕会の計画

一夕会のメンバーは1929年頃から要職に就きます。

  • 永田鉄山 予算配分に権限を持つ軍務局軍事課長
  • 岡村寧次は左官人事に権限を持つ人事局補任課長
  • 石原莞爾 満州のある関東軍に赴任

満州事変の起こる1931年には

  • 東條英機 兵の派遣に権限を持つ参謀本部動員課長
  • 鈴木貞一 支那地方の軍事を司る軍事課支那班長

が要職に就きました。陸軍中央部では永田や東條や鈴木が、関東軍では石原達が満州事変に向けて準備が進められます。9月には満州事変が起こり、(その時点では)一応の成功を収めます。

一夕会における東條英機

同年に真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎を要職につける事に成功しています。特に林は満州事変で関東軍に感化され、独断で兵を動かした人物です。林を擁立するという考えは彼らにとっては大成功でした。

これらの計画は永田と石原が中心となっており、東條は計画の立案は行えず、事務能力の高さで彼らを支えています。石原は東條の事を生涯嫌っており

自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか

と述べています。

1935年 – 51歳「相沢事件により永田鉄山死去」

1935年8月12日東京朝日新聞夕刊

相沢事件勃発

満州事変後、荒木貞夫が若手将校を率いて皇道派と言う派閥を作ります。永田ら皇道派に属さない陸軍中堅層を統制派と呼びました。対立の結果、1935年8月に永田は陸軍省内で皇道派の相沢三郎に惨殺されます。

永田は「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と呼ばれる秀才で、彼がいれば太平洋戦争は起きなかったと言われます。訃報を聞いた東條は愕然とした表情を浮かべたそうです。

9月には満州で関東憲兵隊司令官となりますが、皇道派による左遷説もあります。翌年の二・二六事件では関東軍の皇道派を検挙する功績を挙げ、東條が永田の後を継ぐ統制派のリーダーと評されます。

12月に東條は中将になりました。この頃から憲兵を自分の意見を反映させる為に使用します。永田亡き後の陸軍は次第に官僚化していくのです。

1937年 – 53歳「日中戦争勃発」

察哈爾省作戦を指揮する東條英機

日中戦争にて察哈爾省作戦に参加する

1937年7月に日中戦争が勃発。東條は察哈爾省(内モンゴル自治区)に派遣され、察哈爾省作戦の兵団長として活躍します。目覚ましい活躍をするものの、補給が間に合わず飢える連隊もいたようです。

新たな派閥争い

日中戦争は主戦派(梅津美治郎 杉山元 東條英機)と不拡大派(石原莞爾 多田駿)という新たな派閥抗争を生みました。陸軍の大多数は主戦派であり、石原が左遷されると不拡大方針派は屈します。

第一次近衛内閣で東條は陸軍次官に就任し、参謀次長で不拡大派の多田と対立。阿部信行内閣発足時に多田が陸軍大臣に決まりかけたものの、東條は内大臣木戸幸一に憲兵隊で脅しをかけて、人事を撤回させています。

1940年に第二次近衛内閣が発足し、東條は陸軍大臣に任命されました。東條は多田を予備役に回して派閥争いに勝利。この頃の軍部の派閥抗争は政治家や官僚の派閥抗争と大きくは変わりありませんでした。

1941年 – 57歳「対米開戦が現実味を帯びてくる」

第二次近衛内閣

帝国国策遂行要によるタイムリミット

日中戦争は米英が中国に物資を補給していた為に泥沼化していました。日本はフランスの同意を得て、1941年7月にフランス領インドシナに兵を派遣し、補給ルートの遮断を実施。アメリカは日本の石油輸出を止めます。

近衛は日米和平交渉を図るものの交渉は難航。陸海軍は9月2日に帝国国策遂行要領を作成し、近衛は了承します。内容は「外交交渉が10月上旬にまとまらなければ対米開戦を決意する」というものでした。

近衛内閣総辞職

9月6日に御前会議が開かれ、昭和天皇は和歌を詠んで遠回しに戦争回避を希望します。帝国国策遂行要領を撤回出来るのは近衛だけですが、軍の反発を恐れて撤回せず、期日は確定したのです。

アメリカの和平条件は「日本軍が中国から撤退する事」でしたが、陸軍大臣の東條は強硬に反対しています。期日となった10月15日に撤退が出来るはずもなく、10月16日に近衛は総理大臣を辞職したのです。

1941年 – 57歳「東條英機内閣の発足」

ハルノートを提示したコーデル・ハル

逆説的に東條英機を総理大臣に就任させる

内大臣木戸幸一は対米開戦回避の為に奇策に出ます。それは強硬派の東條を総理大臣に任命し、陸軍の強硬派を押さえるというものです。東條は昭和天皇への忠義が誰よりも高く、昭和天皇の意見を絶対視していました。

東條は昭和天皇から開戦回避に全力を尽くす事を命じられました。強硬意見を転換し、和平に全力を注ぐ事を決意します。

ハルノート

東條内閣で東條は総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼任し、権力の集権化を図っています。帝国国策遂行要領を一旦白紙に戻し、アメリカにかなり譲歩した条件を提示します。一方アメリカからの提示は以下の通り

  • 支那及仏印よりの全面撤兵
  • 国民政府(汪兆銘政権)の否認
  • 三国同盟の空文化

これはハルノートと呼ばれ、一言で言えば「満州事変の前に戻れ」です。仮に東條内閣が合意しても、軍や国民が納得するはずがなく、アメリカとの交渉は完全に決裂し、日米開戦は決定的となりました。

1941年 – 57歳「太平洋戦争勃発」

1941年12月8日の大阪毎日新聞

太平洋戦争開戦

この頃新聞は連日威勢の良い記事を掻き立て、国民の感情を煽っています。国会議員には「一日も早く開戦せよ」と主張していた人もいました。国民もまた戦争に沸いていた事は伝えておく必要があるでしょう。

1941年12月8日未明にマレー作戦と真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が勃発します。開戦前夜の東條は「都市伝説2」で紹介した通り定かではありません。

東條は対米戦争の目的を「大東亜共栄圏の建設」としました。これは天皇の威光のもとでアジアの共栄圏を作る事です。多くの政治家は植民地の大義名分として掲げていましたが、東條は本気でアジア解放を目指していました。

1943年 – 59歳「戦局の悪化」

大東亜会議の様子

東條英機の求心力の低下

1943年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナルの戦いの敗北で日本の勢いに陰りが見られます。この頃から東條の戦争指導力に疑問を持つ声が出始めており、東條は憲兵の力でそれを押さえつけました。

大東亜会議を開催する

11月には太平洋戦争で日本が支配下に置いた国や、独立を果たした国が集まり、大東亜会議を開催。東條は欧米の植民地支配からの解放と、アジアの有色人種による政治的連合を掲げました。

大成功となった大東亜会議でしたが、その月にはタラワ島が陥落。1944年2月に太平洋域最大の日本海軍基地が無力化され、東條は参謀総長も兼任。総理、陸軍大臣、参謀総長を兼任した事は強い批判を浴びました。

この頃から若槻禮次郎 岡田啓介 近衛文麿 平沼騏一郎 米内光政達、総理大臣経験者による重臣グループが、東條内閣倒閣を模索し始めます。

1943年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナルの戦いの敗北で日本の勢いに陰りが見られます。この頃から東條の戦争指導力に疑問を持つ声が出始めており、東條は憲兵の力でそれを押さえつけました。

1944年 – 60歳「東條内閣総辞職」

東條英機と岸信介

サイパン島の陥落

1944年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊の航空戦力は壊滅。7月にサイパン島も陥落します。東條は危機を内閣改革で乗り切ろうと木戸幸一に相談。木戸は以下の事を提案します。それは

  • 東條の陸軍大臣と参謀総長の兼任を辞める
  • 海軍大将嶋田繁太郎の罷免
  • 重臣の入閣 でした。

重臣達は木戸と繋がっており、全て示し合わせていた事でした。重臣を入閣させる為、東條内閣から1名罷免する必要があります。東條が選んだのは無任所国務大臣であり、後に総理大臣となる岸信介でした。

東條英機内閣総辞職

この頃の岸は東條と対立していました。重臣達は岸に脅されても辞めない事を頼み、岸も同意。更に東條は重臣の米内に入閣する事を打診しますが、当然拒否しています。木戸の条件を達成する事が出来ません。

東條は昭和天皇に続投を申し出ますが、暗に退陣を促されます。東條は万策尽きた事を感じて7月18日に総辞職し、予備役に回りました。

1945年 – 61歳「敗戦と自殺未遂」

御前会議の様子

終戦までの東條

総理大臣辞職後は重臣会議に参加する以外は隠棲しています。重臣会議は和平派が多数を占めており、東條は孤立し冷淡に扱われています。鈴木貫太郎内閣の終戦工作では、一貫して徹底抗戦を唱えていました。

敗戦後、自らの運命を悟る

1945年8月15日にポツダム宣言が受諾されると、東條は連合国からの逮捕拘留は免れないと悟り、次男以下は養子や分家する等しています。妻に実家に帰る事を諭すものの、最後まで付き従うと言われました。

9月11日の逮捕の日、東條は自殺未遂を図ります。終戦時に多くの軍人が自刃し、戦犯指定がかかった時に近衛も自殺しています。生き延びた東條は批判を浴び、終戦後の国民の豹変ぶりに東條は落胆しました。

世間では戦争を指導者した悪人と評される東條ですが、昭和天皇は同情的でした。戦争を進めた人々に厳しい評価を述べる中「民に東条の心が伝わらなかった」と東條については好意的に話しています。

1948年 – 64歳「東京裁判と判決」

東京裁判に立つ東條英機

東京裁判

療養後、東條は東京裁判に出廷。東京裁判は原爆や空襲を指示した連合国側は罪には問われず、敗戦国が連合国に一方的に裁かれました。過去の行為を遡って裁く事後法であり、法律違反の一面があります。

これらの問題点から東京裁判は未だに多くの議論がなされています。とは言え東京裁判は占領下に置かれた日本が連合国と対等に話を出来る唯一の場となりました。

東條は自己弁護を行わず太平洋戦争は自衛戦争だったと主張。理路整然とした主張は検事をやり込める程でした。更に昭和天皇は自分達に説得されて開戦に応じたと主張し、昭和天皇の免訴が確定します。

1948年11月12日に判決が確定。東條を含めた7人が死刑判決を受けました。

1948年 – 64歳「東條英機死去」

殉国七士廟

死刑執行

巣鴨に収容された東條は浄土真宗に傾倒します。戦争を推し進めた自己を振り返り深く懺悔しました。そして1948年12月23日に東條の絞首刑が執行されます。享年64歳でした。

辞世の句は4つあり、

我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば
さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき
散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは
今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

A級戦犯の遺骨

A級戦犯の遺灰は遺族に返還されず、太平洋に投棄されました。興禅寺住職の市川伊雄と弁護士の三文字正平は遺骨と遺灰を火葬場から回収する事に成功。彼らの墓は殉国七士廟と呼ばれ、三ヶ根山にあります。

雑司ヶ谷霊園にも東條のお墓はありますが、こちらにも遺骨は納められる事はありませんでした。

「東條英機の遺書」

晩年の東條英機

東條の遺書

東條はいくつかの遺書を残しています。

1つ目は日本が降伏文書に調印した翌日に家族に宛てたものです。家族に受け継いで欲しい事が記されています。

2つ目は連合国に逮捕される直前に書いたものです。英米諸国人ニ告グ、日本同胞国民諸君、日本青年諸君ニ告グの3通があります。

3つ目は処刑を前に口頭で伝えたものになり、東條は以下の事を述べています。

自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。天皇陛下および国民に対して深くお詫びする。

死刑になる事に東條は恐怖を感じてはいません。それ以上に昭和天皇や国民を巻き込んだ事への罪悪感を感じていた事が分かります。東條は世間で言われる独裁者等ではなかった事が遺書からも分かると思います。

東條英機の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)

東條の人物像を詳しく掘り下げた評伝であり、作者は暗殺未遂説を明確に否定した保阪正康です。人物像に迫る為、父秀教から取り上げる徹底ぶりです。この本で東條の事が全て分かると言っても過言ではありません。

東條英機 歴史の証言 (祥伝社黄金文庫)

本書は東京裁判における東條の宣誓供述書、著者の渡部昇一の考察という構成案になっています。詳細な考察でありながら、文体は軽く読みやすいです。東條さんと親しみを込めて呼んでいるのも好感が持てますね。

東条英機 大日本帝国に殉じた男 (PHP文庫)

東條の生涯の他、統制派と皇道派による陸軍内の派閥争いについて詳しく書かれています。太平洋戦争に至ったのは陸軍全体にも原因があった事が分かります。陸軍史を学ぶ上でもおススメの1冊です。

おすすめの動画

あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機

2008年に放送されたドキュメンタリーとドラマ の2部構成の番組です。ドラマでは東條英機をビートたけしが演じています。二部構成で長いものの、2つの側面から戦争を知る上では観る価値があるでしょう。

東條英機 演説 / Speech by Hideki Tojo

対米英宣戦の詔勅が発令された事を、ラジオを通じて国民に伝えた時の映像です。開戦に湧き上がった国民がいるのも事実です。東條の真摯な対応と悲壮な決意が伝わってきます。

【ゆっくり解説】「東條英機」 【歴史上人物紹介】

東條について端的に知りたい場合はこちらのゆっくり解説の動画が良いでしょう。A級戦犯の意味等も分かりやすく書かれており、受験や歴史を学び始めた人にもおススメです。

おすすめの映画

プライド 運命の瞬間

東條が逮捕され絞首刑になるまでを描いた作品です。東條を演じた津川雅彦の演技は素晴らしく、孫の東條由布子も「祖父があの世から帰ってきたみたい」と絶賛しました。東條悪人論に一石を投じた作品です。

終戦のエンペラー

アメリカ制作の映画であり、昭和天皇が戦犯を免れた過程を描き、東條も重要人物として描かれています。皇居敷地内での撮影や、昭和天皇の戦争責任について真っ向から描く姿勢は、時代の変化を認識させられました。

東京裁判 デジタルリマスター版

映画というよりも東京裁判の様子や満州事変から太平洋戦争までの戦時映像をまとめたドキュメンタリーです。A級戦犯の28人の様子も描かれていますが、絞首刑の様子もある為、観る為には覚悟が必要かも思われます。

おすすめドラマ

Nスペ ドラマ 東京裁判

東京裁判を各国11人の判事の視点で描かれた作品です。連合国も一枚岩ではなく、様々な意見があった事が分かります。DVD化はされていませんが、プライムビデオて視聴可能です。

ちなみに東條らはフォルムをカラーに編集した映像が使われており、演者との境界線はほとんどなく、リアリティを感じさせられます。

関連外部リンク

東條英機についてのまとめ

今回は太平洋戦争期に総理大臣を務めた東條英機の生涯について紹介しました。筆者は東條は世間で考えられているような戦争指導者ではなかったと思っています。

東條は優れた実務能力を持ちつつも戦略家ではなく、敗戦濃厚となる現状でも決断力や情報を分析する力が足りませんでした。東條の評価が低いのではなく、彼には彼の才能を発揮出来る場所があったのだと思います。今回の記事を通じて東條を知ってもらえたら幸いです。

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