板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】

板垣退助の功績

功績1「迅衝隊の総督となって戊辰戦争に参戦する」

上野合戦での迅衝隊

戊辰戦争に板垣退助は迅衝隊の総督として参戦します。

板垣退助が編成した迅衝隊は今までにない近代的なシステムとなっており、給料制を導入したり、病気欠勤が認められたり、戦いでは従軍医師団が同行するなど、板垣退助の知略が詰め込まれています。

こういったシステムのおかげか、迅衝隊は戊辰戦争にて大いに活躍し、近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊(新選組)との戦闘も、わずか2時間で勝利するなど圧倒的な実力を見せつけました。

この迅衝隊のおかげで戊辰戦争の勝敗が決したとも言われています。

功績2「自由民権運動の主導者として政治改革を積極的に行う」

ビゴーの風刺画

板垣は明六年の政変後、明治政府を去り、薩長の藩閥政治ではなく、国民が選んだ人選によって政治を行うべきという民主主義的な政治を執り行うべきである、という考えを後藤象二郎や副島種臣など共に政府へ提案します。これが、「民撰議院設立の建白書」です。

この民撰議院設立の建白書提出以降、国民の間にも、国民がもっと政治に参加できるべきであるという考えが広まりました。これが、「自由民権運動」です。板垣は、自由民権運動の主導者として先頭に立ち、日本の民主主義に大きく貢献しました。

功績3「日本初の政党内閣を結成」

明治維新後、帝国議会は主に薩長出身の役人によって政治が執り行われてきました。これを藩閥政治と呼びます。明六年の政変以降、大久保利通、伊藤博文らの発言力が増し、内閣だけではなく、軍部・警察、さらには財界にまでその派閥を形成していきました。

板垣は、自由民権運動により、藩閥ではなく国民から広く議員を集うことを主張し続けました。そして、1898年に板垣率いる自由党と大隈重信率いる進歩党が合流した憲政党による初の政党内閣が誕生しました。大隈が総理を務め、板垣は内務大臣を務めました。

板垣退助の名言

板垣死すとも自由は死せず

板垣退助と自由民権運動を象徴する名言。ですが、この名言については諸説あり、最近の研究では実際に板垣はこの言葉を発言していなかったという説も出ております。

私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ

上述の暴漢事件後、板垣は犯人である相原尚褧の助命嘆願書を送り、相原は極刑を免れました。そして、保釈後に謝罪に来た相原に、板垣は上述の言葉をかけました。もう一度刺されてもかまわない、という強い覚悟で国家を変えようとする気持ちが伺える逸話です。

自由とは天地自然の普遍的な原理であり、人は自由によって生まれ、国はそれによって存立するものである。自由がなければ、人は人生を完遂することはできず、国は国家を維持することができないものである。

板垣退助が描いていた自由という意味を表した言葉。自由というのは人が生まれ持った権利であり、その権利があるからこそ国家が成り立っています。国を作るうえで、人々を政治などで縛り付けるのは本当の国家とは呼べないのかもしれません。

板垣退助にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「あの名言は実は言ってなかった」

岐阜事件

1882年4月、板垣は岐阜の演説を終えた直後に「将来の賊」と叫びながら、相原尚褧が板垣を暗殺しようと短刀を左胸へ突き刺しました。これが岐阜事件です。その後、相原は取り押さえられ、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と言い放ったという逸話が残っております。

ですが、板垣本人はあまりの事に唖然とし、言葉が出なかったと述べております。また、当時、この岐阜事件を報じた新聞の中に、相原を取り押さえた内藤魯一という人物がが叫んだという説や、板垣は言葉を発したが土佐弁で医者を呼んでくれという言葉だった、と複数の説が存在し、中には新聞社が大げさに報じたという説もあります。

都市伝説・武勇伝2「日本最古のルイ・ヴィトンの持ち主」

日本最古のルイ・ヴィトン

フランスに本社がある高級ブランド会社「ルイ・ヴィトン」。日本では古くから親しまれていたブランドであり、現在でも財布やハンドバッグなど、目にする機会も多いでしょう。その、ルイ・ヴィトンの製品を日本人で初めて購入した人物が、板垣退助です。

時は1883年、フランスへ立憲政治視察のために後藤象二郎と共にパリを訪れておりました。板垣は、この年の1月9日にヴィトンのトランクを購入したことが帳簿に記載されているのが発見され、日本初のヴィトンの購入者として認定されました。現在、このトランクは高知市立自由民権記念館に保管されております。

都市伝説・武勇伝3「三菱のマークを決めたのは板垣退助?」

三菱マーク

明治以降、日本の経済界において多大な影響を与えた財閥の一つである「三菱」。この、三菱の創始者である岩崎弥太郎は、土佐藩の出身であり上士や郷士よりもさらに低い、地下浪人という身分でした。

ですが、藩の役人に取り立てられ、持ち前の商才を発揮し、三菱の基になった「郵便汽船三菱会社」を設立します。

岩崎弥太郎

板垣は、岩崎とも面識があり、明治3年の10月17日の岩崎の日誌に板垣と共に三菱の商標登録について語り合ったという記述が残っており、その際に、現在の三菱のマークについて決めたという逸話が残っております。現在の三菱があるのは、板垣退助の功績の一つともいえるのかもしれません。

板垣退助の簡単年表

1837年 – 0歳
高知城下中島街にて誕生

1837年5月21日、土佐国高知城下中島町の上士・乾正成の嫡男として誕生しました。現在、この場所には石碑が建立されております。
1856年 – 20歳
吉田東洋と出会い、抜擢される

幼少期から悪童と呼ばれた退助は、ある喧嘩がきっかけで惣領職褫奪と四ヵ村の禁足、蟄居を罰せられました。この時、藩の重役であった吉田東洋に見出され、土佐藩の役人に抜擢されました。
1860年 – 26歳
山内容堂の側用人として仕える

江戸へ出向したのちに、藩主である山内容堂の側用人として仕え、藩主の御前にて同じく側用人の寺村道成と時勢についての対論において、尊王攘夷論を唱えたという逸話が残っております。
1863年 – 27歳
中岡慎太郎と知り合う

八月十八日の政変後、退助の元へ中岡慎太郎がやって来たという記述が残されております。退助は、中岡が自分を暗殺に来た事を悟り、逆に説得し、この件がきっかけで中岡と親睦を深めていくことになりました。
1865年 – 29歳
江戸へ修行しに出る

この年、江戸へ兵法修行のために出向し、オランダ式騎兵術などを習いました。また、幕臣や他藩の武士などと情報交換などもしておりました。
1866年 – 30歳
薩長同盟が成立

退助が江戸に滞留している頃、京都では龍馬の仲介の元、倒幕のために薩摩藩と長州藩が手を結びました。
1867年 – 31歳
薩土討幕の密約を結ぶ

退助は、薩長同盟が組まれたことを聞き、山内容堂へと差も加わるように進言するも聞き入れられませんでした。その後、中岡の仲介により退助は西郷らと共に薩摩と土佐の間に倒幕の密約を結びました。
1868年 – 32歳
戊辰戦争に総督府参謀として参加

戊辰戦争へ参加し、退助は東山道先鋒総督府の参謀として参戦しました。主な功績としては、甲州勝沼の戦いで旧新選組を撃破するなどの戦績を挙げました。
1869年 – 33歳
新政府の参与に就任

明治政府樹立の際、参議として薩長土肥の4藩から参議を選抜することになり、板垣は土佐出身者として、新政府の参与に抜擢されました。
1873年 – 36歳
征韓論を唱え、明治政府を辞職

岩倉具視らが欧米視察してる間、朝鮮国の度重なる無礼に対し、世論が集中し、板垣や西郷らは武力で朝鮮を従属させようとする論調が強まりました。これが征韓論です。しかし、帰国した岩倉らの穏健派によってこの案は否決され、西郷らと共に板垣は政府を辞職し、下野しました。
1874年 – 37歳
「民撰議院設立の建白書」を提出

下野後、板垣は江藤新平、後藤象二郎らとともに政治団体「愛国公党」を結成し、五か条のご誓文の一つ「万機公論に決すべし」を根拠とする「民撰議院設立の建白書」を左院に提出するも、却下されてしまいました。
1875年 – 38歳
大阪会議にて政府に復職するも辞職

板垣は、大久保利通、木戸孝允と共に今後の議会についてと参議就任についての会議である「大阪会議」へ出席しました。この会議により、板垣は参議へ復職するも、江華島事件を背景に、板垣はまた辞職することになります。
1881年 – 44歳
自由党を結党し、党首となる

この年に「10年以内の議会開設を目指す」という「国会開設の詔」が発布され、これを受けて板垣らは後藤象二郎、中島信行らと共に日本初の近代政党「自由党」を結党しました。
1882年 – 45歳
演説中に暴漢に襲われる

板垣は、岐阜での演説後、相原尚褧に短刀で襲われるという事件が発生しました。これが「岐阜事件」です。この時に板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と発言したことが話題になり、板垣の名が広く知れ渡ることになります。
1884年 – 47歳
加波山事件が発生し、自由党を解党

自由民権運動が盛んの中、各地で若き民権家による激化事件が発生します。そのうちの一つが、加波山事件です。この事件に関与した疑いで、自由党幹部の内藤魯一が逮捕され、自由党は一旦解党されてしまいます。
1887年 – 50歳
「一代華族論」を主張

1884年に華族を細かく区分する「華族令」が発布され、この世襲の華族制について、板垣は批判的な位置を取りました。板垣は「一代華族論」を主張し、のちに伯爵の爵位を授爵するも、没後その爵位は長男へ受け継がれませんでした。
1890年 – 53歳
国会開設に向け、愛国公党を結成

大同団結運動分裂後、帝国議会開設に向けた動きとして、板垣は旧自由党土佐派であった林有造らと共に、再び愛国公党を結党しました。
1893年 – 56歳
自由党が再結成される

愛国公党を始め、自由党、大同倶楽部、九州同志会、ら4団体が合流し、「立憲自由党」が結党され、政党内閣組閣を目指しました。
1898年 – 61歳
日本初の政党内閣を組閣し、内務大臣に入閣

第二次伊藤内閣や松方内閣で内務大臣に入閣後、1898年に自由党と対立関係になった大隈重信の進歩党と共に合流し、憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣を組閣、板垣は内務大臣として入閣し、「隈板内閣」と呼ばれました。
1900年 – 63歳
立憲政友会を結成し、政治家を引退

大隈内閣解散後、板垣は伊藤博文が立ち上げた「政友会」へ参加し、旧憲政党の党員を含めた「立憲政友会」を結成しました。板垣は後進に道を譲るという事で、政治家を引退しました。
1904年 – 67歳
機関紙「友愛」を発行

政治家勇退後、板垣は社会事業に携わることになり、現在も慈善事業などを行っている機関紙「友愛」を発刊するなどの活動を行いました。
1919年 – 83歳
肺炎のため逝去

1919年7月16日に肺炎のため、都内の自宅にて逝去しました。

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