板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】

板垣退助の具体年表

1837年 – 0歳「高知城下中島町にて誕生」

板垣退助生誕の地

上士の元で誕生

1837年5月21日、土佐藩高知城下中島町の上士・乾正成の嫡男として誕生しました。幼名は「猪之助」という名前で、由来として先祖である乾和三が初代藩主である山内一豊から「猪助」という名前をもらったという話にあやかり、「猪之助」という名前にしたという逸話が残っております。

乾家は土佐藩では上士にあたり、藩内での身分は上におりました。ですが、退助は後の蟄居がきっかけで下士に対しても寛大になります。また、近所には後藤象二郎が滞在し、2人は竹馬の友と言うべき親友となり、幕末の動乱などを経て、自由民権運動で行動を共にすることになります。

喧嘩に明け暮れた幼少期

退助の幼少期は、腕白小僧として知られ、近所では餓鬼大将としてその名が知られていました。退助は、後年、幼少期を振り返り、「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。」と述懐しております。

退助が20歳の時、喧嘩により「惣領職褫奪、四ヵ村の禁足」が命じられます。惣領職褫奪とは、家督を継ぐ権利をはく奪されること、禁足は外出禁止、という事です。退助は神田村に4年間ほど蟄居生活を送ることになります。この時に、庶民と交わり、下士への想いが寛大になり、のちに自由民権運動への目覚めのきっかけとなりました。

1860年 – 26歳「山内容堂の側用人として仕える」

吉田東洋・山内容堂との出会い

蟄居中、退助は土佐藩の家老であった吉田東洋と出会います。当時、東洋は私塾を開いており、そこには岩崎弥太郎や後藤象二郎などが通っており、退助は私塾の門下生にはなりませんでしたが、東洋の影響を受け、勉学に励むようになりました。

蟄居後、退助は土佐藩の役人となり、文久元年には江戸留守居役に任ぜられ、江戸へ出向しました。その翌年、江戸の土佐藩邸に幽居されていた前藩主の山内容堂の側用人として仕えることになります。また、この年に土佐勤皇党の変が起こり、吉田東洋が暗殺されてしまいます。

勝海舟

江戸へ出向し勝麟太郎らと対面

江戸へ出向後、退助は土佐勤皇党である間崎哲馬や尊王攘夷派の人物と交わったことで、退助自身も尊王攘夷の思想へと傾倒するようになります。そして、容堂の御前にて同じく側用人の寺村道成と時勢についての対論において、尊王攘夷論を唱えたという逸話が残ってます。

その後、江戸の薩摩藩邸にて大久保一蔵(後の大久保利通)と出会い、その数日後には容堂の本陣にて勝麟太郎と対面しております。この時、勝と共に坂本龍馬の脱藩について赦すことを協議し、龍馬の脱藩の罪は無罪という事になりました。

1867年 – 30歳「薩土密約を結ぶ」

薩長同盟結成の地

薩長同盟と板垣退助

江戸から土佐へ帰国し、退助は容堂へ藩の人事について旧吉田派の人物を使うと、尊王攘夷派と佐幕派の役人たちと衝突が起きると進言し、旧吉田派は使わないようにと願い出ました。しかし、退助の意見は聞き入れられず、退助自身が罷免されるという出来事がありました。

その後、退助を暗殺しに来た中岡慎太郎を説得し仲良くなり、互いに討幕を志す同志となりました。そして、退助は江戸へ兵学修行へと出向し、オランダ式騎兵術などを学びました。その頃、龍馬や中岡たちは京都にて、西郷隆盛と木戸孝允の仲介を行い、薩長同盟を成立させておりました。

西郷隆盛

薩土密約を結ぶ

このような流れの中で、土佐藩は公議政体論の考えを持つ人が多くいました。ですが、退助は尊王攘夷を唱えておりました。1867年の2月には江戸の土佐藩邸に水戸浪士を独断で匿い、討幕を図ろうとしました。これが、「水戸浪士隠匿事件」です。

さらに、その年の5月には中岡の仲介により、京都へ上洛し薩摩藩士・小松帯刀の邸宅にて、谷干城らと共に西郷隆盛と対面。武力討伐の際には土佐藩も協力するという旨を語り、薩土密約を結びました。この時に、匿っていた水戸浪士を薩摩藩へ引き渡し、のちに「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」へと発展します。

1868年 – 31歳「戊辰戦争に参加」

戊辰戦争

乾性から板垣性へ名を改める

1867年、薩土密約締結後、退助は容堂へ時勢が武力討伐へと傾いていることを進言し、土佐藩邸に水戸浪士を匿っていることを報告しました。その後、密約に基づきアルミニー銃を購入し、藩の武装を整えました。そして、薩長芸に伏見の警備の勅命が下ると退助は密約を基に、この警備につきました。

後に、鳥羽伏見の戦いが開戦し、土佐藩の一部の人間が藩命を待たずにこの戦いに参戦し、退助は迅衝隊を率いてこの戦いに参戦しました。この時期に、それまでの乾という姓から、岩倉具視などの進言により甲州の民衆からの支持を得るため、板垣姓へ名を改めることになりました。

甲州勝沼の戦い

戊辰戦争での活躍

板垣は土佐勤皇党の隊士などで結成された迅衝隊の総督として、東山道先鋒総督府の参謀として戊辰戦争へ参戦しました。甲府城へ入城した時には「武田家の家臣が甲州へ帰ってきた」と地元住民から歓迎され、その勢いのまま、近藤勇らの旧新選組などの甲陽鎮撫隊を打ち破るなど甲州勝沼の戦いにおいて勝利を収めました。

日光の板垣退助像

また、板垣は旧幕臣の1人である大鳥圭介との戦いにおいて、日光東照宮を戦火から守るため、東照宮に立てこもった伝習隊へ無血開城を迫り、説得に成功しました。このことから、日光市の金谷ホテル前には板垣退助を称える銅像が建立されております。

1873年 – 36歳「征韓論を唱え、明治政府を辞職」

戊辰戦役凱旋記念写真(前列中央・板垣退助)

明治政府に参加

戊辰戦争勝利後、板垣は高知藩にて大参事へ就任します。そして、四民平等の制にならい、藩内に「人民平均の理」を発布します。この法令は無礼討ちなどこれまで士族の特権であったものを廃止し、平民でも乗馬をすることが可能になる、など差別待遇を撤廃することに務めた内容となっております。

参議時代の板垣退助

1871年には西郷、大久保、木戸らと共に協議し、それまでの藩という制度を廃止し、地方統治を中央菅下において府と県に一元化した「廃藩置県」を全国に制定しました。そして、西郷、木戸、大隈重信と共に参与として任ぜられました。

征韓論

征韓論と明治六年政変

1873年、朝鮮へ全権公使の副島種臣を派遣した際、朝鮮側は日本の皇室を侮蔑する発言をし国書を受け取らなかったという「書契事件」が発生し、このことが国内で大々的に報じられると、西郷や板垣らは武力で朝鮮に報復しようと「征韓論」を主張しました。

しかし、欧米視察から帰ってきた岩倉や大久保らの反対に遭い、征韓論の閣議決定は否決されました。この決定に西郷らは異議を唱え、西郷、板垣、江藤新平、後藤象二郎ら数名の参議が辞職し、これに続き600名の官僚も辞職し、その多くが地元へ下野しました。これが、「明六年の政変」です。

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