【写真付き】幕末のイケメン21選!新撰組から維新志士、将軍まで

あなたは以下の写真の若者を知っていますか?

織田信福

現代でも十分イケメンの部類に入る顔立ちは、ひと目見るだけで150年という歴史の長さが一気に吹き飛ぶインパクトがありますよね。筆者も中学生の時に訪れた資料館で、初めて見た土方歳三の写真を前に、呆然と立ち尽くした記憶があります。

幕末は20〜30代の多くの若い志士たちが、新しい時代を作ろうと奔走した時代です。その生き様は知るだけで胸が熱くなりますが、写真を見ると彼らの思いが一層伝わってくるようです。イケメンなら尚更、その胸の内を知ってみたいと思わせられます。

この記事では、幕末の王道イケメンとして知られている志士10選、雰囲気イケメンと思われる志士3選、幕末にモテていたと言われている志士2選、イケメン幕末ゲームで人気の志士6選を、写真と共に紹介します。

最後には、より深く彼らのことを知りたい人向けに、幕末の写真を集めた本や博物館のリンクも貼っておきますので、ぜひ参考にしてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

誰もが認める王道イケメン10選

土方歳三

土方歳三は1835年に武蔵国多摩郡で生まれた新撰組副長です。幕府の浪士隊として上京後は、同郷の近藤勇と共に新撰組を結成します。京都の治安を守るため、局長の近藤勇を最後まで支えました。近藤勇が捕らえられて後も戊辰戦争で活躍しますが、1869年に五稜郭の戦いで銃弾に倒れました。

この写真は最期の地となった函館で撮影されたと考えられています。土方歳三に会ったことのある人は「役者並みの美男子」と書き残していますが、顔はもちろん、フロックコートを着て懐中時計をつけ、首元に白いマフラーをしているあたり、かなりお洒落な人であったことがうかがえます。

織田信福

織田信福

織田信福(おだ のぶよし)は1860年に高知県西部宿毛に生まれた歯科医師です。1885年に歯科医術開業試験に合格し、高知県で初めて歯科医となります。高知県は自由民権運動発祥の地であり、織田信福も妻と共に運動に参加していました。1926年に高知で息を引き取りました。

この記事の冒頭に掲載した写真は、1877年頃の撮影と考えられています。イケメンな顔立ちは以前から注目されており、これまでも広告の写真に使われたりもしていました。現在は高知県の高知市立自由民権記念館で、織田信福の写真はクリアファイルになって販売されています。

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允

1833年に生まれた木戸孝允は、長州藩出身の政治家です。吉田松陰に学び、倒幕運動に指導的役割を果たしました。維新の三傑の一人です。明治時代に入ってからも、五箇条の御誓文の起草や廃藩置県の実施、岩倉遣欧使節団の全権副使などを務め、新政府の立ち上げに尽力しますが、1877年に病死しました。

木戸松子

木戸孝允の写真は1870年のものとも言われていますが、この他にも木戸孝允の写真は、死後にかなり出回ったこともあり、色々なものがあります。妻となった幾松(後の木戸松子)も美人として知られており、写真に残る明治維新の美男美女夫婦としても有名です。

松平容保

松平容保

松平容保(まつだいら かたもり)は会津藩最後の藩主です。1835年に美濃高須藩で生まれ、後に会津松平家の養子となりました。京都守護職を務めて、孝明天皇の絶大な信頼を得ます。戊辰戦争では会津若松城にて抗戦し新政府軍を苦しめますが、最終的には降伏し、謹慎生活に入ります。明治時代には日光東照宮宮司を務め、1893年に亡くなりました。

この写真は京都守護職時代の1863年のものと言われています。会津藩へ来た頃は美少年として評判だったようですが、線が細いその面影はこの写真からもうかがえます。京都守護職として入京した際には、美しい殿様だと町で噂になったそうです。写っている陣羽織は、孝明天皇より賜った御衣を仕立て直したものと言われています。

奥平昌邁

奥平昌邁

奥平昌邁(おくだいら まさゆき)は1855年生まれの、豊前国中津藩最後の藩主です。伊予国宇和島藩主であった伊達宗城を父に持ち、中津藩奥平家の養子となりました。先進的な藩主で、斬新な藩政改革を行います。廃藩置県後には慶應義塾へ入塾し、福沢諭吉の薦めもあってアメリカ留学も果たしますが、1884年、若くして病で亡くなりました。

フェリーチェ・ベアト

奥平昌邁の写真は、フェリーチェ・ベアトというイギリスの報道写真家が1870年代に撮影したもののようです。ベアトは風景写真や風俗写真を多く撮影していますが、これは公人を写している珍しい一枚です。

南方熊楠

1867年生まれの南方熊楠は、和歌山県出身の植物・微生物学者です。十数カ国語を操ることの出来る天才と呼ばれ、大英博物館で勤務します。帰国後は柳田国男と共に日本民俗学を発展させ、70種の新粘菌種を発見しました。明治政府の行った神社合祀政策には、生態系保護と民間信仰の観点から反対します。1941年に息を引き取りました。

南方熊楠といえば天才を通り越して変人のような逸話が数多く伝わっていますが、写真を見る限り目の力が強いイケメンのようですね。写真が好きだったようで、当時の人としては珍しいほど多くの写真が残っています。

桂太郎

桂太郎

1847年生まれの桂太郎は、山口県出身の軍人であり政治家です。ドイツ留学で軍事学を研究し、帰国後は台湾総督や陸軍大臣を歴任しました。明治時代後期より3回組閣し、日英同盟締結・日露戦争・韓国併合・関税自主権の回復を実施しました。立憲同志会結成に着手し始めた道半ば、1913年に病死しています。

正装した桂太郎

桂太郎の晩年の写真を見ると、恰幅がよく、頭が大きいわりに身長が低いようですが、長州藩士時代の写真はイケメン武士として知られています。気配りができる性格であったようで、性別問わずに慕われるタイプだったようです。3回の結婚に加え、愛人もいたようで、10人の子供に恵まれました。

花房義質

花房義質

花房義質(はなぶさ よしもと)は1842年に備前岡山藩で生まれた外交官です。佐久間象山や緒方洪庵に蘭学を学んだ後、欧米に留学します。帰国後は外交畑で主に朝鮮やロシアとの関係構築に務め、樺太・千島交換条約や済物浦条約の締結にも関わりました。晩年は日本赤十字社社長となり、1917年に慢性胃炎で亡くなりました。

正装した花房義質

花房義質は歳を重ねても若い頃のイケメンの面影が残っていますね。順調に出世した人生であったせいか、写真も複数枚残されていて、どれも凛々しい顔立ちをしています。

渋沢平九郎

渋沢平九郎

渋沢平九郎は1847年に武蔵国(現在の埼玉県深谷市)の豪農であった尾高家に生まれた幕臣です。同郷の渋沢栄一の見立養子となって渋沢平九郎となりました。戊辰戦争では、平九郎は彰義隊に参加し、さらに分かれた振武軍として飯能で新政府軍と戦うも、追い詰められて自決しました。1868年、享年20歳という若さでした。

剣は神道無念流を極め、長身で色白、腕力もあったという資料が残っていますが、写真を見てもかなりのイケメンであったことがうかがえます。2021年のNHK大河ドラマは渋沢栄一が主人公ですが、渋沢平九郎役には岡田健史がキャスティングされています。

有栖川宮威仁親王

有栖川宮威仁親王

有栖川宮威仁親王は1862年生まれの皇族・軍人です。戊辰戦争で東征大総督を務めた有栖川宮熾仁親王の弟です。明治天皇の名代としてロシア皇太子ニコライを迎えた際には大津事件が起こりましたが、有栖川宮威仁親王が誠実な対応を貫いたことで収まりがつきました。生来身体が弱く、1913年に亡くなりました。

有栖川宮熾仁親王

この写真は英国留学時代のものと言われています。有栖川宮兄弟は明治維新期に大きな功績を残し、明治・大正天皇からの信頼も厚かったと言われています。幕末のイケメン皇族として必ずと言っていいほど挙げられる有栖川宮威仁親王ですが、歴史に名前を残した皇族でもあったのです。

雰囲気イケメン3選

坂本龍馬

1835年に土佐藩で生まれた坂本龍馬は、江戸時代に幕を引くきっかけを作った志士です。尊王攘夷を掲げる土佐勤王党に名を連ねるも、勝海舟に影響を受けて開国論に転じ、海運・貿易事業に着手します。その傍らで薩長連合を斡旋し大政奉還・公議政体を実現しようと奔走しますが、新時代の幕開け直前の1867年に暗殺されました。

この写真は1866年ごろ、長崎にあったカメラマンの上野彦馬が開いた写真館、上野撮影局で撮られたと考えられています。履いているブーツは高杉晋作から贈られたもののようです。坂本龍馬はイケメンというより、行動力や発想力が既成の枠を超えていて、今を生きる私たちにも生き方が格好良いと思える人物ですね。

高杉晋作

高杉晋作は1839年に長州藩で生まれた尊王攘夷・倒幕運動の中心人物です。松下村塾の逸材といわれ、奇兵隊を作り、保守的だった長州藩を挙藩倒幕態勢に導きます。第二次長州征伐で幕府軍の敗北を決定づけたことは、倒幕への大きな一歩となりました。しかし晋作は、かねてから患っていた肺結核が悪化し、1867年に亡くなりました。

坂本龍馬に負けず劣らず、高杉晋作もかなり斜め上を行く人物でした。お金がないのに軍艦を買ってきたとあっけらかんと言い放つ一方で、四国艦隊下関砲撃事件の講和条約交渉中には、外国人相手に長々と古事記と日本書紀の講釈をして領土を守ることに成功しました。やることなすこと格好良いイケメンです。

徳川慶喜

徳川慶喜は、1837年に水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれた江戸幕府第15代将軍です。母は有栖川宮吉子で、有栖川宮威仁親王は甥にあたります。一橋家を相続し、将軍後見職を務めた後、将軍職に就任したものの、大政を奉還する決断をしました。鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に敗北し、恭順・謹慎の身となります。1913年に亡くなりました。

この写真は1867年頃、ナポレオン三世から贈られたフランスの軍服を着て撮影しています。幕府はフランスから軍事顧問団を招聘し、陸軍の近代化を図ろうとしていたのです。

イケメンだった?!幕末にモテたらしい志士たち2選

久坂玄瑞

久坂玄瑞

1840年に生まれた久坂玄瑞は、長州藩出身の俊才です。松下村塾では高杉晋作と双璧と呼ばれ、吉田松陰が最も将来を嘱望していました。長州藩を尊王攘夷論へ導きますが、1864年の禁門の変で敗れ、自刃します。坂本龍馬をはじめ、多くの志士たちに大きな影響を与えたことで知られ、後に西郷隆盛が、久坂玄瑞が生きていたら自分はこんな偉そうにしていることはなかったと言ったそうです。

久坂玄瑞は身長が180cmほどあったそうで、当時の人にしては高身長でした。色白で美声だったらしく、幕末屈指の歌人でもあった玄瑞が京で歌を吟じると、女性たちがざわついたとも言われています。この肖像画は玄瑞が京の芸妓との間にもうけた息子をモデルに描かれたそうですが、あまり似ていないとの話もあります。

西郷隆盛

西郷隆盛

1827年に薩摩藩で生まれた西郷隆盛は、維新の三傑の一人です。幕末には尊王攘夷・倒幕運動の指導的立場となり、戊辰戦争では参謀を務めました。新政府では廃藩置県に尽力しますが、征韓論に敗れて下野します。その後、鹿児島の私学校生に担がれて西南戦争を起こしますが政府軍に鎮圧され、1877年に自刃しました。

西郷隆盛は性別問わず多くの人に慕われ、カリスマ性があったと言われています。明治天皇も愛したその人間性は、無私であることの一言に尽きるかもしれません。欲がなく、生にさえも固執しない西郷隆盛には、誰もが惹かれ、付き従いたいと願ったのでしょう。生涯写真を撮らず、肖像画のみ残されています。

イケメン幕末ゲームで人気のイケメン

上位にランクインしている新撰組隊士

斎藤一

斎藤一

斎藤一は1844年に江戸で生まれた新撰組三番隊組長です。新撰組内でもかなりの剣豪でした。戊辰戦争では新撰組隊士として最後まで土方歳三と共に戦い続けるも、会津で袂を分かちます。その後斗南藩士として辛酸を舐める生活を経験してのち、明治政府に警察官として採用され、西南戦争にも出征しました。1915年に亡くなっています。

これまで伝わっていた斎藤一の写真は不鮮明なものが多く、外見もよくわかっていませんでしたが、近年見つかったこの写真は明治30年ごろ撮影されたものとのことです。斎藤一はイケメンだったと大きな話題になりました。

沖田総司

沖田総司の墓がある専称寺

沖田総司は1842年もしくは1844年に江戸で生まれた新撰組一番隊組長です。江戸で近藤勇や土方歳三らと共に剣の腕を磨き、上京して新撰組を結成します。若いながらも新撰組最強の剣士だったと言われています。池田屋事件で活躍するも、体調を崩して第一線を離れ、1868年に江戸で息を引き取りました。

沖田総司については写真や肖像画が残っておらず、よくわかっていませんが、若くして亡くなった薄幸の剣士というイメージが想像をかき立てて、イケメンだという認識になっていったようです。実際、これまで映像化された新撰組の映画やドラマでは、イケメンの役者が沖田総司を演じてきました。

山崎丞

山崎丞が活躍した池田屋事件跡

山崎丞は1833年または1834年に大坂か京都で生まれた、新撰組の監察を務めた人物です。池田屋事件や禁門の変、長州征伐の情報を得るなどの功績を残しています。鳥羽伏見の戦いの最中に重傷を負い、1868年に亡くなりました。2004年に山崎丞の書いた取調日記が発見され、リアルタイムに書かれた新撰組の実情がわかる史料として注目されています。

山崎丞を知る人たちは、長身の美男子だったという言葉を残していますが、監察という役目柄もあったのか、写真や肖像画が残っていません。近藤勇や土方歳三からの信頼が厚く、スパイとして優秀な格好良い男という印象から、イケメンというイメージに結びついたのかもしれません。

人気のある尊王攘夷派志士

岡田以蔵

岡田以蔵の墓

岡田以蔵は1838年に土佐藩で生まれた尊王攘夷派の志士です。土佐勤王党に加盟し、武市半平太の指示のもと、京都で天誅を行い、人斬り以蔵と恐れられました。土佐で吉田東洋の暗殺や京都での天誅騒ぎに関わったとして土佐藩に捕らえられ、苛烈な拷問の末、1865年に打ち首・獄門となりました。

岡田以蔵の写真や肖像画は残っていませんが、出っ歯であったという記録はあります。岡田以蔵がイケメンとして扱われ始めたのは、イケメン幕末ゲームのキャラクターイメージが格好良いのと、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で、武市に従順だからこそ悩み苦しむ岡田以蔵を佐藤健が好演したことが大きいようです。

武市半平太(瑞山)

武市半平太

1829年に土佐藩で生まれた武市半平太は、尊王攘夷派の志士です。優れた剣術の腕を持ち、武者修行で行った江戸では久坂玄瑞などの志士と交流して大いに影響を受け、土佐藩の尊王攘夷気運を高めようと土佐勤王党を結成しました。一旦は藩論を尊王攘夷に導くも、弾圧されて獄中生活が続き、1865年に切腹しました。

久坂玄瑞や中岡慎太郎は、武市半平太のことを西郷隆盛に似た誠実な人と評していました。後年板垣退助や山内容堂も、武市半平太を死に追いやったのは間違いであったといった言葉を残しているほどです。顎が大きく、坂本龍馬が「顎(アギ)どの」とふざけて書いた手紙が残っていますが、雰囲気イケメンの代表的な人物と言っていいでしょう。

大久保利通

大久保利通

薩摩藩出身の大久保利通は、1830年生まれの政治家です。西郷隆盛と共に薩長連合や倒幕運動を進めます。王政復古に尽力し、廃藩置県・地租改正・殖産興業など明治新政府の地盤固めを行いましたが、その絶対主義的官僚の姿に反感を持つ不平士族も多く、1878年に暗殺されました。

この写真は岩倉使節団として渡米中に撮影したものです。彫りの深い顔立ちは確かにイケメンとも言えますが、何より大久保利通の偉業に対して生き方が格好良いと思う人は多いでしょう。この人がいなければ、明治の新しい時代はなかったと言っても過言ではないはずです。

幕末の写真集

幕末・明治古写真帖

誰しもが教科書などで見たことがあるような有名な写真が多く揃っています。歴史上の人物の顔と人物名があまりピンとこない、日本史の知識に不安がある人にも最適な本です。歴史の勉強を始めたばかりの小学生や中学生にもおすすめです。写真を見ることで、歴史は血の通ったものであることが実感できます。

表紙に使われているのは、坂本龍馬が亡くなった年に撮影されたと思われる一枚です。屋外で撮られた珍しいものですが、背景に菊が咲いていることから、撮影時期は秋でしょう。坂本龍馬が暗殺されたのは11月15日(新暦12月10日)ですから、この写真の数ヶ月後に命を落としたと考えられます。

レンズが撮らえた幕末維新の志士たち

この本の特徴は、有名な志士の写真だけではなく、無名だけれどもこの時代を生きた人や風景写真を多く掲載している点です。パラパラとページをめくるだけで、150年ほど前の日本を覗き見ているような、不思議な感覚に襲われます。

また、藩ごとに違う軍装も、写真で比較すると興味深いものでした。戊辰戦争では、各藩の軍制改革の進み度合いによって、勝敗が大きく左右されたと考えられていますが、それは写真で見ると一目瞭然です。読者の注目する視点によって、色々な感想を抱くことができる、面白い一冊です。

英傑たちの肖像写真ー幕末明治の真実ー

坂本龍馬・西郷隆盛・明治天皇・土方歳三・近藤勇の肖像写真について、詳しく調査をした本です。たった一枚の写真でも、その撮影時期や場所、小道具、服装などに注目すると、色々なことがわかるものだと感心します。今後の歴史写真の見方も教えてくれる一冊です。

特に、幕末のイケメンとして有名な土方歳三の写真について詳しく語られているのが興味深かったです。写真は本人で間違いないと考えられてはいますが、函館で撮影された写真がどのような経緯で土方家に伝わったのかなど、詳しい事情を知ってから改めて写真を見ると、今までとは違う感慨深さがあります。

関連リンク集

幕末イケメンに関するまとめ

坂本龍馬が名刺として配っていた写真

いかがでしたか?幕末には志士たちが写真を名刺がわりに配っていたといいます。実際、坂本龍馬が配っていた写真が残っていますが、こんなものが出回っていたからこそ、坂本龍馬は暗殺に狙われたのではないかとも思ってしまいます。

一方で幕末に写真技術が伝わったからこそ、歴史に埋もれずに表に出てきた志士たちがいることも確かです。人の価値は外見では決まらないものの、イケメンなら人々の注目を集めるのもまた事実です。

今回紹介した幕末のイケメンたちの中に、一人でも気になる人が見つかったなら、ぜひその人をきっかけに歴史を紐解いてみてください。きっと今までとは違う歴史の表情が見つけられるはずです。

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