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【年表付】幕末とはどんな時代だった?歴史の流れ・出来事・人物まとめ

「幕末ってどんな時代だったのかな」
「流れや主な出来事、活躍した人を知りたい!」
「幕末の英雄たちは、相互にどのような関係だったのだろう」

幕末という言葉は、単に幕府の末期をあらわすだけでなく、さまざまな考え方の個性的な人物が活躍した時代でもありました。

日本史においては、戦国時代とならぶ混沌期のため、幕末をテーマに多くの小説や映画が生み出されてきました。

この記事では、日本史の中でも特に幕末を愛する筆者が、政治史を中心に幕末の流れを追いつつ、主要な人物や出来事にスポットをあててご紹介いたします。

幕末とはどのような時代か

幕末の幕開け

ひとことでいうと、日本の近世がおわり、近代がはじまったときで、江戸幕府の末期にあたることから「幕末」とよばれています。

日本史の時代区分については、幕藩体制の江戸時代(=近世)と、明治維新以後第二次大戦終結まで(=近代)、そして第二次大戦後から現在まで(=現代)と大まかに理解することができます。

この、近世の最終ステージである「幕末」のはじまりについては、一般に、1853(嘉永6)年のペリー来航と考えられています。また「幕末」の終わりについては、1867年の大政奉還時、1868年の江戸開城時、1869年の函館戦争終結時、1871年の廃藩置県実施時と諸説があります。

このわずか20年たらずの期間が「幕末」と呼ばれる時代です。この間、日本は文字通り国の大もとから激震が起こり、上は天皇・将軍から下は庶民にいたるまで、激動の二文字が吹きすさぶ乱世となったのでした。

以下では、まず政治史上のできごとと鍵となった組織・人物を概観し、文化史についても触れつつ、年表に沿ってできごとを追っていきたいと思います。

政治史上のできごと

ペリー来航

「ペリー来航」とは

ペリーが来航したことで、日本の歴史が動きはじめた

1853年7月、アメリカ海軍のペリー提督が軍艦(黒船とよばれる)4隻を率いて浦賀に来航した事件です。ペリーは大統領の親書を幕府側に手渡すと、琉球へと移動しました。そして翌1854年2月に再度、軍艦9隻を率いて横浜沖に迫り、日本に開国を求めました。

背景

当時、アメリカは採油のためさかんに捕鯨を行っていました。そうした漁船に必要となる燃料や食料の補給を行いたいという事情がありました。当初の開港地が下田(神奈川県)と函館(北海道)であったのはそうした事情によります。また、東アジアとの貿易ルートを確保したいとの思惑もありました。日本をそのための拠点としたいと考えていたのです。

結果、どうなった?

幕府は蒸気機関を積んだ軍艦(いわゆる黒船)という世界でも最新の技術を見せつけられ、ペリーの巧みな交渉術とつよい態度に圧倒され、日米和親条約に調印しています。この条約により、下田と函館の二港を開港することになります。また、1853年に大船建造の禁止が解かれ、1855年には長崎に海軍伝習所が設立されるなど、遅まきながら、日本は海軍建設をいそぐこととなりました。

安政の大獄

「安政の大獄」とは

安政の大獄で処刑された橋本左内

1858(安政5)年にはじまる、江戸幕府(大老・井伊直弼)による尊王攘夷派に対する厳しい弾圧をさします。弾圧の対象は水戸藩関係者が多く、徳川斉昭、徳川慶篤、一橋慶喜などは自邸での謹慎処分を受けてしまいます。また、鵜飼吉左衛門、吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内らは打ち首されるなど死刑に処せられました。

背景

朝廷と幕府の摩擦が遠因としてありました。1つは日米修好通商条約を勅許なく調印してしまったこと。もう1つは将軍後継問題で一橋慶喜が期待されていたところ、大老に就任した井伊直弼が紀州・徳川慶福を後継指名してしまったことです。これに対し、朝廷は水戸藩に攘夷を命じる「戊午の密勅」を下しますが、幕府の知るところとなり、厳しい弾圧へとつながりました。

結果、どうなった?

当時、すでに尊王攘夷は一般に知られた概念で「徳川家といえども天皇の臣下」とする考え方が在野世論を中心に育っていました。これは弾圧で抑え込めるようなものではなく、却って火に油をそそぐも同然でした。尊王攘夷派の憎しみを一身に集めてしまった井伊直弼は、桜田門外の変で排除されることとなります。

桜田門外の変

「桜田門外の変」とは

桜田門外の変を描いた絵画(月岡芳年・作)

1860(安政7)年3月、幕府の大老・井伊直弼が、江戸城桜田門外において水戸浪士を中心とする18名の襲撃をうけ、討ち取られてしまいました。

背景

大老・井伊直弼の専横が原因とされています。それには3つの出来事がありました。1つめは、日米修好通商条約の締結。2つめは、つぎの14代将軍を誰にするかという問題。朝廷をはじめ有力大名たちの多くは水戸の徳川慶喜を推していました。それにも関わらず、井伊直弼の強引な介入で紀州の徳川慶福(家茂)を次期将軍に据えてしまいます。そして3つめは反対派を弾圧した「安政の大獄」でした。

結果、どうなった?

ときの大老が白昼に暗殺されるという事件は、単に井伊直弼の理想とする老中や大老がリーダーとなってすすめる政治が失敗したというだけでなく、幕府の権威そのものを著しく失墜させることになりました。同時に、以後の尊王攘夷運動過熱の一大要因となります。

皇女和宮の降嫁

「皇女和宮の降嫁」とは

江戸へむかう和宮の行列

1860(安政7)年4月、幕府は、孝明天皇の妹・和宮の降嫁を朝廷に願い出ます。第14代将軍徳川家茂の正室、つまりお嫁さんとして迎えるためでした。孝明天皇はいったんは断りますが、たび重なる願い出により降嫁が決定します。その際に幕府は「10年内の攘夷実行」などを約束しています。

背景

天皇の許しなく締結した日米修好通商条約により高まる幕府批判をかわすため、幕府内部で「公武一和(合体)」論が浮上。要するに、幕府は政略結婚(による朝廷の後ろ盾)を求めたのでした。

結果、どうなった?

和宮は徳川家茂の正室となります。当初、この縁談に拒絶反応しかなかった和宮ですが、自身と同様に政治に振り回される同年代の家茂に親近感をもち、ふたりは仲睦まじい夫婦となりました。しかしその生活も家茂の病死により、足掛け5年という短いものとなりました。

八月十八日の政変

「八月十八日の政変」とは

「七卿落之図」

1863(文久3)年8月、公武合体派の公卿が、尊王攘夷派の公卿七名(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉)を朝廷から排除した事件です。七名の公卿は、長州藩を頼って都落ち(京都から出ていくこと)したため、「七卿落ち」と呼ばれました。

背景

長州藩を中心とする尊王攘夷派の画策により、この年の5月10日が攘夷実行の期限となりました。同日、長州藩が下関海峡で外国艦船に砲撃を加えますが、他藩はつづきませんでした。業を煮やした格好の長州藩は、将軍自ら陣頭に立ち攘夷の実行をさせるため、天皇の親征(大和行幸)を計画します。しかし、この計画が公武合体派に露見、天皇の耳にも入り、長州藩とその勢力(攘夷派の公卿を含む)を排除せよとの密命が下ったのです。

結果、どうなった?

禁門警備の任を解かれた長州藩は、巻き返しを図ることに心血を注ぐようになります。しかし、表立った動きはけん制され、朝廷工作にも手段を欠くこととなり、自然クーデターないしは武力による威嚇行動に頼るようになりました。

池田屋事件

「池田屋事件」とは

太秦映画村の「池田屋」セット

1864(元治元)年6月、京都三条木屋町の旅籠「池田屋」に集結していた尊王攘夷派のグループを新選組(京都守護職・松平容保(=会津藩主)の預かる浪人組織)が襲撃し逮捕・殺傷した事件です。

背景

八月十八日の政変後、尊王攘夷派は巻き返しの機会をうかがっていました。こうした情報をしった新選組は、炭薪商の古高俊太郎を逮捕。拷問により、御所への放火、要人暗殺、天皇動座といった計画を掴みます(古高の自白内容には異説あり)。新選組は隊を分散させ、ローラー作戦で池田屋を探り当てました。

結果、どうなった?

新選組活躍の代名詞的事件であり、かつ幕府の威勢なお盛んであることを印象づけた出来事です。一方の尊王攘夷派は、吉田稔麿・宮部鼎蔵・大高又次郎らの名だたる人物を喪うこととなりました。特に長州藩は、京都での尊王攘夷運動を衰退させただけでなく、藩そのものが追い詰められてゆくこととなります。

禁門の変

「禁門の変」とは

1864年 禁門の変

1864(元治元)年7月長州軍が京都に侵攻し、幕府・朝廷は会津・薩摩などの連合軍でこれを阻止した事件です。なお、禁門とは禁裏(朝廷のこと)の門のことで、最大の激戦地が蛤御門であったことから「蛤御門の変」とも呼ばれています。

背景

八月十八日の政変で京都での主導権をうばわれた長州藩では、朝廷への陳情(追放された七卿と藩主親子の冤罪を訴える)のため軍隊を派遣すべしとする急進派と、様子をみるべきという自重派に割れていました。そこへ池田屋事件の報がとどき、急進派の主張どおり派兵が決定してしまいます。

結果、どうなった?

長州軍は、各地で敗退します。それだけでなく、御所に発砲したことで朝敵とみなされることになりました。また、撤退する長州藩士が藩邸に火を放ち、会津藩等も探索のため民家を焼くなどしたため、京都の町に戦火が広がり、2万7000世帯が焼失しています。

第一次長州征伐

「第一次長州征討」とは

長州征討の軍勢

1864(元治元)年7月、朝廷は、この直前におきた禁門の変をうけ、幕府に対し長州追討を命じます。幕府は長州藩主・毛利敬親と定広親子への問責のため諸藩からなる連合軍を編成し、五つの道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)から侵攻を開始しました。これに対し長州藩では恭順派が藩政を掌握、12月に征長軍に降伏します。

背景

直接の原因は、同じ月の直前におきた禁門の変が原因です。朝廷よりの立場で尊王攘夷を説いてきた長州藩ですが、さすがに京都で戦争を仕掛けたばかりでなく、御所にむけて発砲したことで、長州藩は、それまで誰よりも慕ってきた孝明天皇本人から「朝敵」と認定されたことが原因です。

結果、どうなった?

禁門の変の戦後処理ですから、禁門の変の指揮した三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首が行われました。また、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放も取りざたされましたが、こちらは紆余曲折の末、太宰府天満宮の別当・延寿王院に移ることになりました。

薩長同盟

「薩長同盟」とは

薩長同盟締結の約定書に、坂本龍馬が「相違ない」旨を朱筆で裏書

1866(慶應2)年1月、薩摩藩と長州藩は、元土佐藩士の坂本龍馬らの仲介により、相互協力を約束する内容の同盟を締結しました。幕末きっての雄藩である薩摩と長州が手を結んだことで、幕末の時代はさらに変化のスピードを加速させることになりました。

背景

薩摩藩、長州藩の利害が一致したことが理由です。長州藩は、八月十八日の政変、禁門の変と京都から一掃され、その後四国艦隊との敗戦と長州征討を経て、満身創痍の状態でした。一方の薩摩藩は、当初公武合体(公議政体論)派として幕政改革を志向したものの、幕府がフランスに接近し幕府権力の維持に固執する様に失望し、また危機感をいだいていました。

結果、どうなった?

1866年7月にはじまる第二次長州征討に、薩摩藩は参加しませんでした。逆に、ヨーロッパ式の銃の購入を長州藩にあっせんするなど、同盟に沿った協力姿勢をみせます。当初には倒幕を意識するまでには至っていなかった薩長同盟ですが、大政奉還後方針を転換しました。その後の戊辰戦争以降も両藩は協力体制を維持しています。

大政奉還

「大政奉還」とは

二条城にて大政奉還の意向を示した徳川慶喜(邨田丹陵・筆)

1867(慶應3)年、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は朝廷に対して政権を返上しました。大政奉還は、坂本龍馬が考案し、土佐藩執政・後藤象二郎に伝えたとする説があります(異説あり)。徳川慶喜は、二条城で在京諸藩の意向を確認したのち、10月14日、朝廷に対し大政奉還の意向を伝えました。

背景

第15代将軍となった徳川慶喜は、第二次長州征討の結果から幕府の衰えを実感していました。少なくとも薩摩藩・長州藩といった有力諸藩が武力倒幕に傾く可能性を予見していたこと、内乱が起これば諸外国につけいる隙を与える結果になりかねないこと、仮に政権を返上しても朝廷には政権担当力がなく(明治天皇は幼少であることから)、徳川家が存続しうる可能性があることなどから、大政奉還にふみきったと考えられています。

結果、どうなった?

1867(慶應3)年12月9日、王政復古の大号令が発せられました。これにより、同年10月24日の大政奉還に対し勅許がなされ、京都守護職・京都所司代、江戸幕府が廃止されたほか、摂政・関白が廃止され、あらたに総裁・議定・参与の三職が新設されました。

戊辰戦争

「戊辰戦争」とは

鳥羽伏見の戦いを描いた絵画(歌川国広・筆)

1868(慶應4/明治元)年、王政復古により樹立した明治新政府軍(実体は、薩摩・長州・土佐各藩の連合軍)と、旧幕府軍(主に会津・桑名両藩と奥羽越列藩同盟、新選組など)が戦った内乱。この年の干支にちなんで「戊辰戦争」と呼ばれ、緒戦は鳥羽・伏見での戦闘をさします。

背景

王政復古の大号令の直後、開催された小御所会議において、徳川慶喜は招集されず徳川家の辞官納地が議題となりました。結果的に、徳川家200万石を返上することが決定しますが、徳川方も新体制確立までの政治執行権を盾に諸外国との折衝や朝廷工作を重ね、新政府への参画をもくろみました。これに対し、薩長勢力は、徳川への挑発行為(庄内藩士の屯所への発砲など)を重ね、ついに幕府の命により江戸薩摩藩邸が焼き討ちされるという事態に至りました。

結果、どうなった?

各地の戦いに勝利した明治新政府が旧幕府勢力を退け、日本国内を統一するとともに、日本を統治する政権であると国際的な承認を受けました。

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