犬養毅とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や政策内容、五・一五事件の真相も】

犬養毅は明治から昭和初期に政治家として活躍し、後に総理大臣となるものの、五一五事件で暗殺された人物です。40年にわたり衆議院議員として活動し、大正デモクラシーを牽引や普通選挙法を成立させる等の功績を残しました。

また犬養毅と言えば五一五事件のエピソードが有名でしょう。「話せばわかる」「問答無用、撃て」のやり取りは一度は耳にした事があると思います。犬養毅の暗殺は、政党政治の終わりと軍部の台頭の始まりを告げる出来事でした。

大礼服を着用した犬養毅

しかしその知名度とは裏腹に、犬養毅の生涯については知らない事も多いのではないでしょうか?犬養毅は新聞記者として西南戦争の最前線へ向かったり、中国と太いパイプを持ち革命家達の支援を行う等、様々な経歴を持った人物です。そして功績だけではなく、軍部の暴走の引き金を引いた人物でもあります。

犬養毅は政治家の責任の重さ、言葉の影響力の大きさを再認識させてくれる人物です。今回は近現代史が大好きで、歴代総理大臣の名前と功績を丸暗記した筆者が、犬養毅の生涯や功績について紹介します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

犬養毅とはどんな人物か

名前犬養毅
誕生日1855年6月4日
没日1931年5月15日
生地備中国賀陽郡川入村(現岡山市)
没地東京都東京市
配偶者犬養千代
埋葬場所青山霊園

犬養毅の生涯をダイジェスト

晩年の犬養毅

犬養毅の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1855年 備中国川入村(現在の岡山県)で誕生
  • 1876年 上京して慶應義塾に進学、翌年新聞記者として西南戦争に従軍
  • 1880年 慶應義塾を中退し、記者となる
  • 1882年 大隈重信が結成した立憲改進党に入党
  • 1890年 第一回総選挙に当選
  • 1913年 第一次護憲運動の先頭に立ち、憲政の神様と呼ばれる
  • 1925年 加藤高明内閣に入閣し、普通選挙法を成立させる
  • 1929年 政治家を引退していたが、政友会の総裁として担ぎ出される
  • 1931年 犬養内閣発足
  • 1932年 五・一五事件で暗殺される(享年77歳)

犬養内閣で行った政策の内容とは?

犬養内閣の閣僚一覧

犬養内閣は1931年12月に発足します。主な政策は以下の通りです。

  • 昭和恐慌からの脱却の為に積極財政を行う
  • 満州国の承認に対して中華民国と交渉を行う

当時の日本は世界恐慌の影響から深刻なデフレとなっており、農村では娘を身売りする事態も起きていました。これは前任の浜口雄幸が金解禁を断行した失政が大きな原因です。

犬養は財務大臣に高橋是清を起用し金解禁を停止。紙幣をたくさん刷り、デフレの脱却を図ります。公共事業や軍費にお金を回して積極財政を行った為、日本は世界最速で世界恐慌から脱却しました。

外交面の構想として犬養は満州国を日本の経済的支配下に置きつつ、形式的な所有権は中国に任せるつもりでした。犬養は中華民国と非公式の会談を計画しましたが、内閣の中に方針に反対する者がいた為、実現出来ていません。

犬養は軍費にも予算の増額をした為、意外にも軍部との関係は悪くありませんでした。しかし陸海軍の若手将校の中には犬養に不満を持つ者がおり、後の暗殺事件に繋がるのです。

犬養毅が憲政の神様と呼ばれる理由は?

第一次護憲運動で犬養毅と尾崎行雄

犬養は第一次護憲運動を主導した功績から「憲政の神様」と呼ばれています。明治から大正の時期は薩摩長州の出身者が藩閥を形成して政治を牛耳っており、犬養は批判していました。

1912年には立憲政友会の第二次西園寺公望内閣が陸軍と予算の対立を巡り総辞職します。その後に組閣したのは長州閥による桂太郎でした。3度目の内閣であり、国民の批判は高まりました。

犬養は立憲国民党に所属していましたが、立憲政友会の尾崎行雄と共に内閣不信任案を提出。「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに憲政擁護運動を行います。それに対して桂内閣は議会を停止した為、国民は激怒しました。

国会議事堂に群衆が押し寄せ、警察署や新聞社が襲われる事態となり、内閣は62日で退陣します。一連の流れは大正政変と呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すものでした。

犬養の行動は民衆が「政権を動かす」事を証明したのです。

犬養毅の死因「五・一五事件」の真相とは?暗殺だったのか?

五・一五事件を報道する新聞

犬養は1932年5月15日に海軍の青年将校に暗殺されました。この事件を五・一五事件と呼びます。日曜日に犬養が首相官邸でくつろいでいると、17時30分頃に青年将校と陸軍の士官候補生の一団が官邸に乱入しました。

将校がピストルの引き金を引くものの、これは空砲で不発に終わります。犬養は動じずに「話せば分かる」と彼らを応接間に案内。応接間で将校は有名な台詞「問答無用、撃て」と叫び、犬養に3発の銃弾が撃ち込まれます。

将校達は犬養を狙撃しその場を去るものの、犬養は「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べる等、意識ははっきりしていました。当初は気丈に振る舞うものの、23時26分に犬養は死去します。

本来なら厳罰に処するべき実行犯達ですが、政党政治の腐敗等から同情の声も多く、全国から100万通を超える減刑を訴える嘆願書が届いています。

結果的に実行犯達は禁錮10年といった軽い罪にとどまっています。これらの処遇からテロを起こしても大した罪には問われないという解釈がなされ、二・二六事件に繋がっていくのです。

犬養毅の家族構成や子孫は?ひ孫に有名人がいるって本当?

家族と写真を撮る犬養

犬養には先妻と後妻の他に仙という内縁の妻がいました。犬養の子どもは仙との間に出来た子です。

長男の彰は犬養の後妻と仲が悪く、廃嫡されて四国に送られました。嫡男になったのは健(次男もしくは三男)でした。健は犬養毅内閣の秘書官の他、吉田茂内閣の法務大臣を務めています。

以下の人達は犬養毅の孫にあたります。

  • 犬養道子(1921〜2017):健の長女で評論家やエッセイストとして活躍
  • 犬養康彦(1928〜2015):健の長男で共同通信社の社長を務める
  • 安藤和津(1948〜):健の次女でエッセイストやタレントとして活躍。夫は俳優の奥田瑛二

以下の人達は犬養毅の曾孫にあたります。

安藤桃子(左)と安藤サクラ(右)
  • 緒方貞子(1927〜2019):毅の長女操の血筋にあたり、日本政府アフガニスタン支援特別代表や元国連難民高等弁務官の要職を歴任する
  • 安藤桃子(1982〜):安藤和津の長女で映画監督
  • 安藤サクラ(1986〜):安藤和津の次女で女優

犬養家は幅広い分野で活躍している事が分かりますね。

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