竹中半兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

竹中半兵衛にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「十面埋伏の陣」

半兵衛の知略を示すエピソードの中でも有名なものに、「“十面埋伏の陣”によって、織田信長を撤退に追い込んだ」というエピソードがあります。そのエピソードの中に語られる“十面埋伏の陣”とは、元々は『三国志』中にて語られる陣組みでした。イメージ図としては、以下をご覧下さい。

十面埋伏の陣

この陣の強いところは、敵の逃げ道を塞ぎつつ、圧倒的に有利な状況で奇襲ができるところです。しかしそこには、相応のリスクや難しさも伴います。

リスクの第一に、軍の全てを小さな部隊に分けなければならない事です。部隊の人数が少ない程、当然ながら各個撃破されるリスクは高まります。

第二に、敵の進軍経路の予測をほとんど完璧に的中させなくてはならない事です。「敵を取り囲んで倒す」という戦い方が陣組みの肝である以上、少しでも敵の進軍経路がズレてしまうと、陣の効力は途端に薄れてしまいます。

そんな、ハイリスク・ハイリターンな戦術が“十面埋伏の陣”。

使いこなすには天才的な戦術眼が必要な策でしたが、半兵衛はその陣を見事に成功させ、織田軍に壊滅的な被害を与えました。

当時の半兵衛が仕えていた齋藤家の居城は、難攻不落の城と名高く、最終的に城を攻め落とした織田信長も、しばらくの間本拠地として扱った程の名城でした。その「難攻不落」の名声の裏には、もしかすると半兵衛の策略の力があったのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「慣用句『知らぬ顔の半兵衛』」

『山勘』『天王山』など、戦国時代の有名な逸話を元にした慣用句は、意外と多く存在します。そして実は、竹中半兵衛の名前を元にした慣用句も存在しています。

その慣用句は『知らぬ顔の半兵衛』。「あえて素知らぬ顔をして、物事に取り合わない事」を意味する慣用句です。

この慣用句にまつわるエピソードは、二つほど残っています。

一つは、半兵衛が齋藤家に仕えていた時代の話。齋藤家を攻め落とそうとする織田信長は、半兵衛を寝返らせようと、前田利家(まえだとしいえ)を差し向けます。利家はまず、半兵衛の娘である千里と仲良くなり、そこから半兵衛と接点を持ち、寝返りを勧めようと企てます。

半兵衛の逸話を元に慣用句までつくられている

しかし、半兵衛は利家の企てを見抜いていました。そのうえで、半兵衛は利家を泳がせ、挙句、自ら利家との接点を持ち、信長や利家の企てとは反対に、利家から織田の兵力や陣組みに関する情報を聞き出してしまったそうです。

もう一つは、先にも少しだけ書いた、長篠の戦での話。秀吉の待機する陣の目前で、攻め寄せる武田の軍勢の一部が、陣の左手へと移動を開始しました。秀吉はこれを「挟み撃ちにされるのではないか」と考えましたが、半兵衛は「陽動なので構う必要はない」と進言。しかし秀吉は従わず、迎撃のために兵を動かしてしまいます。

半兵衛も当然従わなくてはならないのですが、半兵衛は秀吉の命令に従わず、陣から動こうとしませんでした。そしてまもなく、左へと回っていた武田の軍勢は本隊と合流し、半兵衛の待機する陣に攻めかかります。

攻め寄せる武田の軍勢を、半兵衛は何とか食い止め、秀吉率いる本隊の帰還までの時間を稼ぎました。半兵衛が“知らぬ顔”で秀吉の命令を無視したからこそ、壊滅は防がれたと言えるでしょう。

敵の策略にも上司からの命令にも、あえて「知らぬ顔」を決め込むことで大きな戦果を挙げた半兵衛。心の隅にそこから生まれた言葉を留めておくと、何かの役に立つかもしれません。

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都市伝説・武勇伝3「竹中半兵衛の主君は齋藤龍興だった?」

竹中半兵衛の主君と言えばやはり有名なのは木下秀吉(後の豊臣秀吉)ですが、秀吉に仕える以前は齋藤龍興に仕えていました。

半兵衛の主君 齋藤龍興

父が仕えていた齋藤家の当主「齋藤龍興(さいとうたつおき)」。ただ、この龍興は酒と女に溺れ、一部の家臣に対しての露骨な贔屓や遠ざけなど、お世辞にも有能とは言えない主君でした。

半兵衛も辛く当たられていたようで、龍興の重臣である齋藤飛騨守(一説によると龍興本人とも)から、女性のような容姿をからかわれ、櫓の上から小便を掛けられたという逸話も残っています。

そんな扱いに堪忍袋の緒が切れた半兵衛は、持ち前の知略を駆使し、同じく龍興から遠ざけられていた仲間や家族たちと共に、龍興の居城、稲葉山城を占拠しました。その占拠の際の人数は僅か15人ほどだったと言われ、半兵衛の知略の鋭さを物語っています。

しかし半兵衛は占領の半年後に、突如として稲葉山城を龍興に返還。そのまま齋藤家を去ってしまいます。

稲葉山城を返還した理由は諸説ありますが、どの説も決め手に欠け、判断が付かない状態です。人気がある説としては、「城そのものが目的ではなく、占拠は齋藤龍興を諌めるための行動だったから」というものがあり、半兵衛の清廉な格好良さを印象付けています。

竹中半兵衛の簡易年表

1544年
美濃国、大御堂城にて誕生

竹中半兵衛は、1544年9月27日に、齋藤道三の家臣である竹中重元の子として生まれました。
長良川の戦いにて、初陣

半兵衛の初陣は、齋藤家内の内部抗争である長良川の戦いです。父の代わりに、初陣の身でありながら、防衛戦の大将という大役を担いましたが、手堅い籠城戦で敵方を退けています。
1560年
竹中家の家督を継承

父の隠居(一説では死去)をきっかけに、半兵衛が竹中家の家督を継承。父と同様に、美濃国を治める齋藤家に仕えます。
1561年~1563年
織田信長による美濃侵攻が激化

激化する織田の侵攻を軍略で撃退し、半兵衛の名声があがり始めます。しかし、主である齋藤家は、暗君である齋藤龍興が家督を継いだこともあり、次第に追い詰められていきます。
1564年
稲葉山城乗っ取り事件

主君である龍興からの冷遇と嫌がらせに、堪忍袋の緒が切れた半兵衛は、龍興の居城である稲葉山城を僅か15人ほどで乗っ取ってしまいます。そして、半年で龍興へ城を返還。そのまま齋藤家を去り、浅井長政の下に身を寄せますが、そこからも1年ほどで去って、隠棲してしまいます。
1567年
木下秀吉、半兵衛を織田家へと勧誘

信長の命を受けた秀吉は、半兵衛を織田家へと勧誘します。半兵衛もその勧誘を受け入れ、以降、半兵衛は秀吉の腹心として、その知恵を振るいます。
1570年
織田信長VS浅井長政、勃発

織田信長と浅井長政が敵対関係になると、半兵衛は浅井家に仕えていたころの人脈を利用し、次々と浅井側の武将や城を寝返らせ、織田の勝利に貢献しました。
1577年
秀吉、中国攻めの指揮官に着任

信長の命により、秀吉が中国地方攻略の指揮官に着任。半兵衛はその懐刀として参戦し、1578年には、敵方の要所である備前八幡山城を調略。落城させ、信長に絶賛されます。
1578年
荒木村重の謀反により、黒田官兵衛が囚われの身に

織田家の重臣、荒木村重(あらきむらしげ)が、中国攻めに乗じて謀反。黒田官兵衛が囚われ、音信不通に。官兵衛の裏切りを疑い、「官兵衛の息子を殺せ」と命じる信長から、半兵衛は密かに、官兵衛の息子を匿うのでした。

1579年
病魔に侵され、陣中にて病没

肺の病を患った半兵衛は、秀吉の勧めもあって、一度は京都で療養を始めます。しかし、死期を悟ったのか、戦場へ帰還。「戦場で死ぬことこそ武士の本望」と戦場に立ち続け、陣中で没しました。

竹中半兵衛の生涯年表

1544年 – 1歳「美濃国、大御堂城で生まれる」

赤い部分が美濃国
現在の岐阜県南部に位置する美濃国で生まれた半兵衛

1544年、美濃国で命を授かる

竹中半兵衛は、1544年9月27日に、齋藤道三の家臣である竹中重元の子として生まれました。

幼少期の頃から、後の天才軍師の片鱗を見せていた……わけではなく、内気で大人しく、本を読むことが好きなインドア派で、どこかぼんやりした印象の、あまり武士らしくない少年であったそうです。

しかし、その幼少期に好んで読んでいた本が、中国の軍学書や三国志であったという話もあり、もしかすると、それが後の天才軍師の片鱗であり、原点だったのかもしれません。

1556年 – 13歳「後の天才軍師、初陣」

長良川の戦い

初陣は岐阜の長良川

長良川の戦いは、齋藤家内部で起きた、いわゆる家督継承戦争です。半兵衛たち竹中家は、その一方である齋藤道三の側に立って参戦しました。

戦が激しさを増す中、竹中家は、当主である重元が不在の中で城を攻められるという難局に立たされます。

そんな中、重元の長男である次期当主、半兵衛は、初陣の身でありながら、総大将という大役に任じられることになります。弱冠13歳の彼が背負わされた重圧は、並大抵のものではなかったでしょう。

そんな重圧の中、半兵衛は手堅く籠城戦を指揮し、見事に父不在の城を守り抜きます。もしかすると、この時点で半兵衛の類稀な戦略眼は発揮されていたのかもしれませんね。

1560年 – 17歳「 家督を継承し、竹中家の当主に」

父の隠居と、家督継承

家督を継承し竹中家当主になった半兵衛

1560年、父である竹中重元が、半兵衛に家督を譲って隠居します。

父同様に、齋藤家に仕えますが、半兵衛が家督を継いでから1年ほど経った頃、齋藤家当主であった齋藤義龍が急死。その子である齋藤龍興が、齋藤家の当主となります。

1561年 – 18歳「 織田信長の美濃侵攻を、知略を持って退ける」

齋藤家の劣勢

齋藤道三が治めていた時代から、信長は度々、美濃を手中に収めるべく侵攻を繰り返していました。

長い間、信長の侵攻を上手く退け、美濃を統治し続けていた齋藤家でしたが、道三や義龍と比べると凡庸で、まだ年若い龍興が当主となってからはそうもいかず、齋藤家は徐々に劣勢に追い込まれていってしまいます。

半兵衛の策略「十面埋伏の陣」

そんな劣勢の齋藤家の中、半兵衛はその軍師としての才覚を発揮しだします。

信長を破った半兵衛の十面埋伏の陣

侵攻してくる織田軍を、「十面埋伏の陣」という計略を用いて迎撃し、その後の数年、攻め寄せる織田の軍勢に、何度も壊滅的な被害を与え、撤退に追い込みます。

戦場の他にも、半兵衛の調略を狙った前田利家から、逆に織田家の兵力や陣組み等の情報を聞き出すなど、戦の内外を問わずにその頭脳を発揮。冴えわたる智謀をもって、美濃、ひいては齋藤家の居城である稲葉山城の防衛に、大きく貢献したようです。

結局、信長が美濃を手中に収めたのは1567年。半兵衛が齋藤家を去った3年後のことでした。半兵衛の出奔から、急速に齋藤家の力が弱まっていったことも相まって、信長にとって、いかに半兵衛が脅威だったのかが伺えます。

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