「モアイ像ってどうして作られたのだろう?」
「あんなに大きな像をどうやって作ったのかな?」
「日本の反対側の最果ての孤島に、謎の巨像ってロマンだな」
このページにたどり着いたあなたはそのような疑問でこのページにたどり着いたのではないでしょうか。日本では知名度が高い謎の遺跡として、テレビ番組でも特集されることがあるので知っている方も多いと思います。
「20世紀最大の謎」と言われる大きな像が、堀の深い顔立ちで、海沿いに並んでいる姿は圧巻です。しかしこの巨像は、孤島の文化のために不明な点も多く、またそこが大きな魅力とも言えるでしょう。
もっと詳しくモアイ像を知りたい!という方のために、最新の研究も含めて、できるだけ分かりやすく読み解いていけたらと思います。孤島の島のロマンをこの記事で一緒に味わっていただけたらと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
そもそもモアイ像とは何なのか?
日本の観光地にもレプリカが並んでいるモアイ像、見たことはあるけどどこの国の遺跡なんだろうと思っている方もいるのではないでしょうか。もしかしたら、日本の観光地でレプリカを見て、このページにたどり着いた方もいるかもしれません。
今からなんとなくモアイ像を知っていた方も、大体モアイ像の全貌が分かるように説明をしていきたいと思います。
イースター島にある謎の建造物
モアイ像は、チリ領にあるイースター島という島にあります。現地語名はラパ・ヌイといいます。イースターの由来は、復活祭(イースター)の時にオランダ人が島を発見したためにつけられました。最も近い有人島でも2000キロ以上も離れており、周囲に島らしい島もない絶海の孤島です。
名前 | イースター島(ラパ・ヌイ) |
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面積 | 163.6㎢ |
人口 | 6600人(2016年時点) |
公用語 | スペイン語 ラパ・ヌイ語 |
国 | チリ |
現地の言葉の「ラパ・ヌイ」はポリネシア系の先住民族の言葉で「広い大地」「大きな端」という意味だといいます。そんな辺境の、日本でいうと北海道利尻島とほぼ同じ大きさの島に、1000体以上ものモアイ像があるのです。
初期に入島したヨーロッパの来航者が、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取しています。上陸したポリネシア人は鶏と大型のネズミ、ラットを共に持ち込んで食用としたそうです。
いつ作られたのか?
モアイ像が作られ始めたのは、一説によると、7世紀から8世紀の間にアフ(プラットフォーム状に作られた祭壇)が作られ始め、遅くとも10世紀にはモアイ像作りが始まったと言われています。
最初は1人の酋長の下で結束していましたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えていったと考えられています。島の至る所にそれぞれの部族の集落ができて、アフもモアイ像も作られていったのです。
モアイ像の意味とは?
まずモアイ像の名前ですが、なぜ「モアイ」と呼ばれているのかはっきり分かっていません。ただし色々な説の中で、『モ』は未来、『アイ』は生存という意味を表しているという説が有力です。一
族の守り神として扱われていたと考えられています。モアイ像は「海を背に立っている」というイメージがありますが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いており、集落を守るように立てられたと考えられています。
このように祭祀目的で作った可能性が高いのですが、どのような祭祀なのかは現在研究が進められています。貴重な証言として、初めてイースター島を見つけたオランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、島に上陸するとモアイ像の前で焚火をし地に頭をつけて祈りをする島民を目撃したといいます。現在、地質学や言語学の色々な観点から研究が進められているようです。
モアイ像の大きさ・材質は?
モアイ像の身長は平均で3.5mであり、重量は20トンくらいです。最大の物では、身長20m、重さ90トンにもなると言われています。巨像は島のいたるところにそびえ立ち、遠い所は15キロメートル作り場から離れたところに立っているといいます。
モアイ像の材質は加工しやすい、柔らかな凝灰岩で出来ています。採石の場は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡です。この凝灰岩を黒曜石や玄武岩で作った石斧を使って制作されたと考えられています。
モアイ像の種類
モアイ像にも、制作時期によって形が変化していきました。約1000年という長い時間をかけて変化をしていったのです。
年代によって外観が少し変わっていた
モアイ像は大きく第4期まで分けることができるといいます。
- 第一期:人の姿に近いもので下半身も作られている
- 第二期:下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる
- 第三期:頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが載せてある
- 第四期:一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えている
このような経緯を経て、現在私たちが想像するモアイ像の姿へと変わっていったといいます。
プカオ(髪飾り)がのったモアイ像
モアイ像といえば帽子のようなものを被っているモアイ像も有名です。この帽子のような赤い石はプカオといい、現地の言葉で「髭」または「髪飾り」という意味があるそうです。現在確認されているプカオは100に満たしておらず、最も大きく贅をこらしたアフ専用であったと考えられています。
これにより当初地位をあらわす帽子か女性の髪形を復元した物とされていましたが、その後プカオは男性の結髪を再現した物である事が明らかにされました。プカオはポリネシア全体で珍重される赤い鳥の羽根飾りと同じ赤い岩滓で円柱状に作られています。材料となる赤い岩滓は全て「プナ・パウ」と呼ばれる採石場から切り出されており、製作途中のプカオも残されています。
眼が入ったモアイ像
モアイ像にかつては眼が入っていたことが分かっています。モアイ像は眼に「マナ」という霊力が宿ると考えられていたといいます。目の材質はサンゴ質の石灰岩であることが判明しています。現地においてその入手の難しさが問題視されていましたが、目はわずかな数しか見つかっておらず、全ての像にはめ込まれていたわけではないと言われています。
はめ込まれていた像においても常時はめ込まれていたのではなく、儀式の時にのみ使われていたと考えられています。イースター島近海に大規模な珊瑚礁はないですが、亜熱帯地帯に属しており、海面近くまで珊瑚礁が形成されていないだけでサンゴ質の石灰岩の入手は難しくなかったと考えられています。
モアイ像に関する4つの謎
モアイ像の存在は、歴史の最大のミステリーの一つと言われています。何故かというと、現在の住民が一度絶滅し、後に戻ってきた人の子孫のため伝承がほとんど残っていないためです。以前島で使われていた「ロンゴ・ロンゴ」と言われる文字も、残っている数が少ない為、解読に至っていません。
分からないことが多く、そこが謎と言われる所以です。今から、モアイ像の謎を紹介していきたいと思います。
1. どのように運んだのか?
モアイ像の最大のミステリーと言われる一つに、運搬方法が分からないことがありました。20トン近くあるモアイ像をどのように運んだのか、従来の説を以下にあげます。
超古代文明説
建設当時のイースター島には、「現代科学では想像できない超技術が存在していた筈である」という説です。先人類がモアイ像を建てたというものでした。オカルト好きを中心に一時期は好まれた説です。
20世紀にジェームズ・チャーチワードが「ムー大陸」という現在の人類が栄える以前に進んだ文明を持った大陸があったと主張しました。しかし、後に「地球物理学」の観点から、ムー大陸の存在は否定され、海底調査で立証されました。
木製のソリを使用した説
当初発案された説が、木のソリを使い運搬する方法でした。この説は、後述の「縄で引っ張る方法」の説が出るまでの有力な説でした。考古学者のヘイエルダールが現地住人の協力を得て、横倒しにした像を木の「ころ」に乗せ、大勢が縄で引っ張り設置場所まで移送させ、木の棒と大小の石を積むことで立たせるという方法を成功させたのです。
像を立たせる方法は、現地に伝承されていた技術に基づいたものでした。方法は倒れた像を木の棒と、地面と像の隙間に入れていく大小の石を使って近くのアフに立たせるというものです。
運ぶ方法についての伝承に、石垣にする大きな石を運ぶ時に使った、「ミロ・マンガ・エルア」というY字形の分かれた木の幹でつくった石づちがあったものと、ハウ・ハウの木の皮で太い綱を作られたと言われているそうです。当時の人員と技術で、立てることが出来るのが証明されたのです。
モアイ像を歩かせるようにして運搬した
現地の人の口承では、「モアイ像は自ら歩いて今の場所に立った」と伝わっています。その口承も踏まえつつ、有力な運び方が提案されました。モアイ像の頭の部分に3本の綱を巻き付け、左右が交互に引っ張り後ろの綱で転ばないようにバランスをとるという運び方です。
この方法は元々重心が前よりに寄っている像なので、少ない人数で運ぶことができるます。この引っ張っている姿を「モアイ像が歩いていた」と見立てたならば説得力が増してきます。こういった運び方を裏付けるものとして研究者は、運搬途中で放棄したと思われるモアイ像に着目したといいます。
運搬途中で放置されたモアイ像は、モアイ像が設置されている方向に向いている場合はうつ伏せに倒れ、その反対方向に倒れている場合はあお向けに倒れているという共通点を見つけたのです。この状態は立ったままで運搬するときの共通点であり、信ぴょう性が高い説として近年指示を集めています。
2. プカオ(髪飾り)はどのようにのせたのか?
「プカオをどのように運んだか」について、研究チームはイースター島にある50個のプカオとその材料である赤いスコリアを、プカオと同じ円柱型に切り取った13個の3Dモデルを構築して、表面の傷などから、プカオがどのようにして運搬されたのか分析を行いました。
すると、当時の人々はモアイ像の頭まで続く長い斜面を作り、採石場で作られたプカオを斜面の上まで引っ張って運んでいたことが明らかになったのです。
この方法を使うと15人以下の人員で載せることが可能と言われています。こういった最近の研究で、過去にイースター島の住民が、モアイ像やプカオの構築や輸送に膨大な人員を必要としなかったことがわかってきているのです。
3. 何の目的で作ったのか?
モアイ像の謎に、何のために作ったのかということもあげられるでしょう。西洋人の目撃情報や、現地の人の口伝で祭祀目的であることは推定されているのですが、はっきりした詳細はわからないのが現状です。しかし近年最新鋭の機器での研究が進み、新たな説が出てきています。
部族の守り神として
有力な説として、「部族長や先祖の霊を祀ったもの」という祭祀的なものだったのは間違いないとされています。モアイ像の眼に「マナ」を宿らせ、集落を守るように建てられたというものです。モアイ像の眼の力で部族を守る、守護神的な役割を果たしていたと考えられているのです。
モアイ像は墓碑だった⁉
最近分かった有力な説として、「モアイ像は墓碑だった」という説があります。モアイ像のアフの下や周囲から人骨が出てきたためです。モアイ像の顔は一体一体違いがあり、一説によると先祖の顔を模して作っているのではないかといわれています。
部族間の戦争の時も、殺し合わずまずはモアイ像を倒し合っているところに、それほど島民にとって重要だったことを伺い知ることができるのです。
水源や土壌の資源の守り神説
最近判明した説として、モアイ像の近くには真水が湧いていたり、海水の上に真水の層ができる地点などが多いことから、モアイ像は水の守り神であり、また水源の場所や所有権を示す実用的な意味があったとの説も唱えられています。
また最近の研究で、モアイ像建設の目的は周辺の土地を農業に適した肥沃な土壌にして、野菜などを栽培していたと、科学的な裏づけとともに明らかにされました。島のモアイ像の95%を占める内陸部を調査し、かつてバナナやタロイモ、サツマイモが栽培されていたことがわかったといいます。
イースター島の土壌は決して良いとは言えず、植物の栄養素は枯渇しているといいます。しかし、モアイ像が多く発掘された場所に限っては、植物を栽培するのに適したカルシュウムやリンが多く含まれることが判明したのです。モアイを制作する過程で土地が肥えていったのだろうと考えられるそうです。
この説で言えることは、古代の人々はモアイ像によって土地が肥え、農作物を生産できると信じていたという発想です。島のなかでモアイ像は肥沃な土地の象徴であり、モアイ像の存在によって古代の人々の食料栽培を励ましていたのかもしれません。
4. なぜ作られた目的が分からないのか?
この記事を読んでいただいている方で「なんで現地の人がいるのに、運搬方法や目的が分からないの?聞けばいいのに。」と思う方もいるでしょう。研究者の方たちも、現地の人にたくさん聞き込みをしましたが、結果ほとんど解らなかったというのが現状です。その理由を明記していきます。
人口減少で知識層がいなくなったこと
現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによってタヒチに連れていかれ、戻ってきた人の子孫です。古来からのラパ・ヌイ人は一度絶滅状態になってしまい、祭祀をつかさどっていた支配者家族や神官がいなくなってしまったのです。
原因は、1862年のペルー人の襲撃で島民の半数が奴隷としてペルーに連れていかれたこと、西洋人やペルー人が持ち込んだ天然痘や結核が流行したことがあげられます。このため島民の数は一時、111人にまで落ち込んだといいます。奴隷狩りの悲劇として、奴隷として連れて行かれた島民が全員海に飛び込んで死亡した事件が伝わっています。
未解読の文字「ロンゴ・ロンゴ」
住民は「ロンゴ・ロンゴ」と言われる文字を使っていました。しかし人口の減少で識字層が全滅してしまい、内容が判読できない島民によって、薪などに使われ大多数の文献が消失したといいます。そのため現在残っているのは僅か26点です。
この文字は古代ラパ・ヌイ語で記されているために、解読が難航しています。現在のラパ・ヌイ語は、奴隷狩りでタヒチに連れ去られていた人の子孫の為、タヒチ語の影響が強い言語です。ですので古来のラパ・ヌイ語を知るには、ヨーロッパ人の貧弱な記録をたどるか、現行のラパ・ヌイ語から復元する作業しかなく現在でも研究が続けられています。
モアイ像はなぜ作られなくなったのか?
イースター島人がなぜモアイ像を作らなくなってしまったのかも大きな謎の一つです。この謎は、イースター島での環境破壊が原因であったのではないかと言われています。この環境破壊の問題は、世界の環境問題を予見する現象として警鐘を鳴らしていると言われます。詳細を詳しく見ていきたいと思います。
人口増加などによる環境破壊
イースター島の文明が崩壊した一番の原因は、人口増加による人為的な自然破壊が原因と考えられています。イースター島は以前は豊かなジャングルでしたが、人口が増え続け1600年頃には1万人程になり、モアイ像作りや家屋を作るためなどに、森林が大量に伐採されていったといいます。木を切りつくしたせいで森がなくなり、モアイ像を作るために必要な木材が取れなくなってしまいました。
それに加えて伐採のために起きた食料飢餓により、モアイ像を作るどころではなくなったとも考えられています。その後1722年初めてイースター島に入島した、ヤーコブ・ロッヘフェーンの頃には、島は一面草原に覆われていてほとんど木は無く、島民は草ぶきの小屋や洞窟で原始人的な暮らしをしており、とても巨大なモアイ像を建造した民族とは見えなかったと証言しています。
「モアイ倒し戦争」による部族間の争い
また島民の口承や、研究によって島民による「モアイ倒し戦争」が起こったことが分かっています。この争いにより島内のモアイ像が全て引き倒されてしまいました。モアイ戦争は、1700年代から起こり、50年程続いたと推定されています。11世紀~17世紀頃まで競って作られていたモアイ像も、西洋人が18世紀に目撃したころには全て引き倒されていたのです。
原因は深刻な飢餓に襲われた島民が、他部族のモアイ像を倒すことによって、モアイ像から発する「マナ」と呼ばれる力を封じるために顔を下に向けて倒されていったと考えられています。眼もほぼその時に全てが破壊されました。この頃にはモアイ像を作るどころではなくなっていたといえます。
モアイ像はどのように発見されたのか
モアイ像は、18世紀に西洋人達の航海によって発見されました。前述で少し記しましたが、時系列で経緯を詳しくまとめていきたいと思います。
1722年にオランダ船が発見
最初に、1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダの海軍提督ヤーコブ・ロッヘフェーンがイースター島を発見しました。この時に、モアイ像の前で火を焚き、祭祀を行う島民を目撃しています。そしてこの時点では3000人程の島民がいたと記しています。
1774年にイギリス船上陸
次に1774年に上陸したイギリスの探検家ジェームズ・クック船長は、倒れたモアイ像が目撃されたものの、まだ半数ほどは立っていたといいます。そして、山肌には作りかけのモアイ像が放置されていたと証言しています。
また、「島じゅうが骸骨で覆われていた」と、島民の大量死が起こったことを思わせる様子を残しています。ヤーコブが上陸してからおおよそ50年で人口が激減していたのです。この間に「モアイ倒し戦争」が起こったのではないかと考えられています。また最近の研究で、食料危機のために食人も行われた可能性も示唆されています。
根拠は島にあったごみの集積場で、明らかに骨髄を取り出すために砕かれたと思われる人骨が少なからず見つかっているといいます。こういった状況から推測して、環境破壊による飢餓と西洋人が持ち込んだ伝染病の可能性が濃厚となったと言えるでしょう。
日本ではモアイ像を見ることができるか?
実は日本でも、モアイ像のレプリカを見ることができます。その主だった場所をご紹介いたします。
- 宮崎県日南市(サンメッセ日南)
- 香川県女木島福岡県中間市(モヤイ公園)
- 北海道札幌市(真駒内滝野霊園)
- 兵庫県姫路市(太陽公園)
- 和歌山県和歌山市(ふじと台)
イースター島は遠いのでなかなか行けないけれど、一度モアイ像を見てみたいという方におすすめです。旅行の時に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
モアイ像に関するまとめ
いかがでしたでしょうか。個人的に筆者も思い入れのあるジャンルであり、昔モアイ像の謎に対する本を読み漁った経験があるため、今回の執筆で改めて調べてみると、その頃よりも新たな発見も多くされており驚いております。
太平洋の最果ての島の謎を解き明かすために、世界各地の学者の努力にも驚かされるばかりです。それだけの魅力をモアイ像は兼ね備えていると言えるのでしょう。筆者もこれから新たなことが解明されていくことを楽しみにしております。
この記事を読んで少しでも、「あっ初めて知った!」と感じてくれた人がいたなら嬉しく思います。最後まで読んでいただき有難うございました。