アヘン戦争とは、1840年にアヘンの密貿易をめぐってイギリスと清国が戦った戦争です。結果としては、戦に勝利したイギリスが自由貿易や香港に対する権利を得ました。
ただ、ざっくりした概要はわかるものの、
「アヘン戦争が起きた原因って何?」
「イギリスの対応がひどかった話もあるけど実際はどうだったの?」
「日本にはどんな影響があったの?」
など、戦争の経緯や内容を詳しく知りたい人は多くいますよね.。
そこで、今回はアヘン戦争を原因や結ばれた条約、日本への影響も交えてわかりやすく解説します。この記事を読めば、アヘン戦争の真実を知ることができますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アヘン(阿片)戦争とは?
わかりやすく簡単に説明すると…
アヘン戦争をわかりやすく説明すると、アヘンの密貿易をめぐってイギリスと清国が戦った戦争です。戦争開始前、清国は広州のみを貿易港とし、公行(こほん)とよばれる特権商人のみに貿易を扱わせていました。そのため、イギリスは思うように利益を上げられていませんでした。
そこで、貿易赤字を解消するため、植民地であるインドに麻薬のアヘンを製造させ、それを清国に密輸出したのです。これにより、清国ではアヘン患者が急増し、アヘンの代金として大量の銀がイギリスに流出しました。
そのため、清国はアヘンの取り締まりを強化しイギリス商人が持ち込んだアヘンを廃棄しました。このことが原因となりアヘン戦争が起きたのです。戦争はイギリスの圧勝に終わり、戦後に結ばれた南京条約でイギリスは香港島を獲得します。それと同時に、治外法権の獲得や清国に関税自主権を放棄させるといった成果を得ました。
どこで起きたのか?
アヘン戦争が起きたのは中国南部の沿岸地域です。その理由は、戦争前に清国が外国との貿易を認めていた街が中国南部広東省の広州市だけだったからです。清国がアヘン取り締まりのために派遣した欽差大臣の林則徐がイギリス商人からアヘンを没収し投棄したのも広州でした。
戦争が始まった当初は広州やその周辺地域で戦闘が発生しました。しかし、戦闘地域は広州以外にも拡大し、ついには北京に近い天津にまでイギリス艦隊が出没します。そして、イギリス艦隊は内陸の水路にも出没し北京と江南を結ぶ大運河を封鎖しました。こうして、戦場は中国各地に拡大したのです。
原因はイギリスによるアヘンの密貿易
アヘン戦争の原因はイギリスが密貿易で大量に持ち込んだアヘンにあります。アヘンはケシの実からとれる果汁を乾燥させた薬物です。ケシの実に含まれるアルカロイドは鎮痛や陶酔などの作用をもたらします。清国ではアヘンは禁止薬物に指定され取り締まりの対象となっていました。
イギリスは対清貿易の赤字を埋め合わせるためインドでアヘンを生産し、清国で禁止されているはずのアヘンをひそかに大量に持ち込みました。アヘンには常習性があり、中国沿岸部を中心にアヘン中毒患者が激増しました。
アヘン戦争終結後もアヘンは清国に持ち込まれます。アヘンは携行しやすい判固形の塊に加工され、キセルで吸引できるようになりました。これによりアヘンは清国各地に流布し、アヘンを吸うための専用の建物であるアヘン窟が各地に設けられます。
アヘンが国際的に取り締まりの対象となるのは1912年のハーグ阿片条約以後のことです。それまで、清国を中心に世界各地でアヘンの吸引が行われ続けました。
戦争の背景にあったイギリスの貿易赤字
では、なぜイギリスは大艦隊まで派遣して清国と戦争を行ったのでしょうか。その背景にあったのはイギリスの対清貿易赤字です。
イギリスと清国は18世紀半ばから貿易を開始しました。イギリスは深刻の茶や陶磁器などを必要としたのに対し、清国ではイギリス産の綿布はあまり需要がありませんでした。そのため、貿易はイギリスの一方的な赤字となり多額の銀が清国に流れ込みます。
そこで、貿易赤字を解消するためイギリス商人は麻薬のアヘンを清国に持ち込みます。アヘンはイギリスの植民地となっていたインドで生産しました。すると、貿易は一転してイギリスの黒字となりました。
そのため、清国では大量のアヘン中毒患者が発生します。しかも、貿易赤字のため銀が流出し銀価格が高騰します。その結果、各地で銀が不足し銀を通貨の基本としていた清国経済は混乱しました。銀価格が高騰すれば、農民たちにとって増税されたのと同じになります。なぜなら、農民たちは農作物を売って銀に変え納税していたからです。
アヘン貿易とユダヤ人の関わりとは?
イギリスがおこなったアヘン貿易に積極的にかかわったユダヤ商人がいます。彼の名はデイヴィッド・サスーン。イラク南部を拠点としたユダヤ人の商人です。彼の先祖はイベリア半島に住んでいましたが、レコンキスタの結果その地を追われ、各地に離散しました。
デイヴィッドの父であるサレハはイラク南部を支配したオスマン帝国の高官(パシャ)の会計係として財を成していました。しかし、パシャがユダヤ人の弾圧を始めると一家はインドのボンベイに移住します。
1832年、デイヴィッドはサスーン紹介を設立しイギリスの東洋貿易に関与します。なかでも、アヘン貿易では重要な地位を占めました。デイヴィッドはアヘン貿易などで財を成し、イギリス国籍を取得します。世界的な商業民族であるユダヤ人がイギリスの東洋貿易の一環であるアヘン貿易にかかわるのは当然の帰結だったでしょう。
戦争の勝者はイギリス
アヘン戦争の勝者はイギリスです。イギリスの勝因は海軍力にありました。イギリス艦隊は圧倒的な火力で清国のジャンク船を撃沈する一方、機動力を生かし神出鬼没に中国沿岸への攻撃を繰り返しました。
清国軍は貿易港である広州に兵力を集中させていましたが、イギリス軍は兵力が手薄なより北方の拠点を攻撃し次々と占領しました。そして、北京近郊の天津を守る大沽砲台を陥落させます。清国軍は各地を攻撃するイギリス艦隊に対処できず、各所で敗退を繰り返します。
イギリス海軍が北京の間近に迫ったことを知った道光帝はアヘン取り締まりの責任者である林則徐を左遷し、イギリスと和平交渉をおこないます。交渉と戦闘が何度か繰り返されたのち、両国は南京条約を締結。イギリスの勝利でアヘン戦争は終結しました。
ちなみに左遷された林則徐はロシア国境にあたる内陸のイリに赴任しました。任地で林則徐は農地改革などを実行し現地住民の支持を得ます。このことから考えても林則徐は優秀な官僚だったといえるでしょう。
アヘン戦争の開始から終戦までの流れ
林則徐によるアヘン取り締まり
イギリスが持ち込むアヘンは生活苦の民衆を中心に爆発的に広がっていきました。これを憂慮した道光帝は林則徐を欽差大臣(皇帝指名の特命全権大臣)に任命してアヘンの取り締まりに当たらせます。
林則徐は非常に剛直な人物で、1837年に湖広総督(湖北省と湖南省のトップ)としてアヘン根絶を行った実績を持っていました。また、彼はワイロを忌み嫌い受け取ろうとしませんでした。イギリス商人としては買収できない厄介な相手だったのです。
彼は広州に赴任するとイギリス商人が持っていたアヘンを全て没収し処分してしまいます。イギリス商人は没収された商品の賠償を求めましたが林則徐ははねつけ、アヘンを持ち込まないという誓約書を書かない商人たちを広州から退去させました。
イギリス艦隊の派遣
アヘン取り締まりを強化する林則徐は、誓約書の提出を拒否してマカオに移ったイギリス商人たちを追い詰めます。当時、イギリス艦隊は中国近海に存在していません。これをチャンスと見た林則徐はマカオを封鎖しました。イギリス人たちはたまらずマカオを放棄します。
事態の悪化を受けイギリス外相のパーマストン子爵はイギリス人保護のため東インド艦隊の一部を清国に派遣しました。これをうけ、現地の責任者となっていた外交官のエリオットは2隻の砲艦で清国海軍を撃破し、戦闘がはじまります。
イギリス本国では首相のメルバーン子爵や外相のパーマストン子爵の主導で遠征軍派遣を閣議決定します。イギリス議会ではアヘン貿易を守るための派兵になるとして野党指導者グラッドストンが猛反対しました。グラッドストンはこの戦争を「不義にして非道の戦争」と厳しく批判します。
イギリス議会ではメルバーン内閣が出した派兵案に対する採決が行われました。その結果、賛成271票、反対262票の僅差で派兵が可決されました。この議決を受け、イギリス海軍は東洋艦隊に出動を命じます。
イギリスが清国軍を圧倒
議会の決定を受け、イギリスは軍艦16隻、輸送艦27隻、陸軍部隊4,000人を派遣しました。イギリス軍は林則徐が兵力を集める広州での決戦を避け、より手薄な北方の沿岸地帯を攻撃します。
そして、ついには北京近郊の天津を守る大沽砲台まで陥落してしまいました。事態の急変に驚いた道光帝は林則徐を罷免すると同時に、イギリスとの和平を図ります。ところが、和平成立の直前に清国内で強硬派が台頭し和平は立ち消えとなりました。
すると、イギリス軍は厦門や寧波など長江以南の沿岸都市を次々と占領します。これに対して清国軍は概して無力で、虎門の戦いで奮戦した関天培のような例外を除き、神出鬼没のイギリス軍に各個撃破されました。
さらに、イギリス軍は内陸水運にもネメシス号などの砲艦を進出させ清国軍の補給を寸断しました。そして、ついには清国の大動脈ともいえる京杭大運河もイギリス軍によって封鎖されます。かくして、清国の敗北は決定的なものとなりました。