遊郭の現在をわかりやすく解説!日本に現存する跡地や特徴も紹介

「遊郭って現在もあるの?」
「現存する遊郭の跡地が知りたい!」

この記事を訪れたあなたは、そのような疑問を抱いているのではないでしょうか?

江戸時代に幕府公認のもと遊興の場として始まった遊郭。歌舞伎や建築など日本文化を形作る役割を果たしてきました。

遊郭そのものは昭和時代に廃止されなくなっていますが、今もなおその跡地はしっかり残され面影を残している町が多数存在しています。江戸時代から人々の遊興の場として栄え贅を尽くし、一方で日本文化の花を咲かせる役割を担った遊郭。

廃止されてもなお、遊郭の跡地からは歴史を感じさせる残り香が漂っているのです。この記事では、有名遊郭の跡地が現在どうなっているかを詳しく紹介し、そこにある共通点などにも迫っていきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

遊郭は現在もあるのか

吉原のメインストリート・仲之町通り

現在、当時の形を残している遊郭はありません。遊郭があった場所には、跡地としてその面影を残しているところがいくつかあります。

そもそも遊郭とは、公娼(売春婦)を集めた遊興に耽る場です。江戸時代に幕府公認のもと始まった遊郭は、全国各地に設置され、約350年もの間栄えました。

遊郭は単なる遊び場ではなく、歌舞伎や音楽等の芸事、言葉遣い、ファッション、建築物まで、時代の流行を作り、日本文化を形作る役割も果たしてきました。

しかし第二次世界大戦後にGHQによる公娼廃止指令が発せられてから、遊郭のあった地域は「青線地帯」と呼ばれ取締りの対象に。さらにその後の1957年に売春防止法が施行されると、遊郭は全面廃止され全国から姿を消します。

しかし遊郭があった場所には、現在もその面影を残しているところが少なくありません。

今もなお残る遊郭の跡地はどこなのか?さらにはどんなものが残され、どのような特徴があるのか、詳しく解説していきます。

今なお残る遊郭の跡地

「吉原大門」があった場所に立つ趣ある柱

遊郭は全国各地に300ヶ所以上存在していたと言われます。しかし有名な大きい遊郭は当初幕府から「区画」として場所を与えられていたために、街の形そのものを残さざるを得ませんでした。

また、昭和初期に売春防止法が施行された後、遊郭で働いていた人々は店を料亭やカフェーなどに切り替えます。そのため、代々長きにわたって続いてきた遊郭独特の雰囲気を、自然に継承し続けたのです。

この記事では有名遊郭にスポットライトを当て、現在のその姿について詳しく迫っていきます。

東京:1.江戸吉原

現存する木

遊女も映された1890年代の吉原遊郭

江戸吉原は、三大遊郭のうちの一つ。当初は現在の日本橋・人形町付近にありましたが、明暦の大火の後、浅草・浅草寺裏付近に移転。現在の東京・千束町に位置します。その一帯には遊郭の輪郭がくっきりと残っています。

名残惜しい思いで振り返る「見返り柳」

吉原大門の前に立っていた柳の木は今も現存しています。「見返り柳」と呼ばれるこの木は、客たちが楽しかった夜を名残惜しく思いながら吉原を振り返ったことからそう名付けられました。

現存する道

吉原大門へ向かう五十間通はくねくねのS字

吉原大門に向かうためには、2つの道を通らねばなりませんでしたが、それらは今も現存しています。

1つ目は衣紋坂です。吉原大門の手前に位置する坂で、遊郭へ赴く客が衣服を整えたことからそう呼ばれました。どんな楽しみが待っているのか、客たちは高揚感を持って歩いたのではないでしょうか。

2つ目は五十間通。S字状になっているのが特徴です。これは街道を将軍や大名が通る時に吉原が見えないようにしたこと、さらには遊郭を外界から隔絶しているのを強調するために、くねくねとS字に作られました。

東京:2.根津遊郭

現存する史跡

荘厳な雰囲気を醸し出す根津神社社殿

吉原にも負けないほど栄えていたのは、根津遊郭です。1706年に根津神社の社殿が造営された時、そこには数十万人の大工や左官がやってきました。その人々を客にした居酒屋が次々に誕生し、遊女が売春を始めたのが根津遊郭の始まりです。

門をくぐれば、両脇には200余りの桜の木が植えられていました。これは吉原に倣ったものだと言います。遊女は500人を超える程の大きさを誇りました。

そんな遊女たちの憩いの場でもあったのは、根津神社の中にある乙女稲荷神社。多くの遊女たちは願いが叶うようにお祈りしたと言います。この神社は今も現存していますね。

根津遊郭にまつわるエピソード

明治時代の東京大学

しかし、吉原ほど根津遊郭の跡地は目立っていません。根津遊郭の痕跡が少ないのは何故でしょうか。それは東京帝国大学(現在の東京大学)と関連しています。

根津遊郭は現在の文京区・本郷付近に位置しますが、1879年に東京帝国大学がその南側に創設されます。すると東大の学生たちが根津遊郭に誘われ、夜な夜な入り浸るようになりました。

根津遊郭は移転先後に「洲崎パラダイス」へ

国を背負う若き学生の風紀が乱れるという理由から、根津遊郭は1888年に洲崎(現在の東京・東陽町付近)へ移転を余儀なくされましたが、洲崎遊郭も吉原に並ぶほど大きな歓楽街へと発展したと言います。

京都:1.京島原

現存する建築

京都らしい情緒あふれる島原大門

京島原の最大の特徴は俳諧や能楽、歌舞伎などの日本文化の花を咲かせたこと。江戸吉原とは異なり、一般庶民の出入りも自由だったため、江戸中期には与謝蕪村などの名立たる俳人が文芸活動を行うなど、由緒正しき芸事が盛んに行われていました。

京島原の跡地には、島原大門が現存しています。京島原には当時、複数の門が築かれていました。最大の玄関口である島原大門は、幕末の1867年(慶応3年)に建造されたものがそのまま残っています。

幕末頃、京島原には西郷隆盛や坂本龍馬、新選組の隊士たちも通い、束の間の遊興に耽ったと言います。京島原の跡地の中には「新選組刀傷の角屋」の石標もあります。

現存する置屋

1857年から変わらない重厚な建築の輪違屋

京島原には、現在も秀でた芸事を継承する太夫が在籍している置屋「輪違屋(わちがいや)」があります。置屋とは、太夫や芸妓を住まわせる家のこと。

輪違屋の建物は、安政時代に建築されたものが現存しています。近藤勇の書や、桂小五郎の掛け軸もあります。

太夫道中に用いる傘を襖に張り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を塗り込んだ「紅葉の間」があるなど、日本随一を誇る風情があるのが特徴。太夫の教育が行われるほか、宴席の場として営まれています。

しかし非常に格式高いお茶屋のために、一見さんはお断り。京島原が誕生した頃から脈々と続く日本文化を守る厳格さが感じられます。

京都:2.五条楽園

五条楽園にまつわるエピソード

昭和ロマンの香りが強く残る五条楽園入口

五条楽園は、京都下京区河原町五条にあった遊郭です。もともとは五条新地・六条新地・七条新地と複数の遊郭と隣接していましたが、大正時代に合併。

1957年頃に五条楽園に名前を変更し、売春防止法施行後も営業を続けていました。その後、カフェーやバーに切り替えられますが、2010年から全店舗を廃止しており、完全な遊郭跡地としてその佇まいを残しています。

京都には芸事で客をもてなす島原遊郭もありましたが、五条楽園は売春も行う遊郭として明治から大正時代に栄えました。島原とは異なり、一見さんではなくても遊べる気軽さで庶民に親しまれました。

現存する建築

タイムスリップできるような古風な景観

五条楽園の跡地の特徴は、大正から昭和初期の建築物が多数現存していること。特に多いのは、昭和25年以前に建てられた古い木造建築の京町家です。

この京町家には、唐破風といった東部に丸み付けた屋根がついています。これは城郭などによく用いられる日本独特の建築技法です。

女給が働いた丸窓のカフェ―建築

五条楽園の店舗は、昭和時代にカフェ―に営業形態を変えます。「特殊喫茶」「社交喫茶」と呼ばれ、女給が派手な化粧と衣装で客を接待する場でした。客も好みの女給を目当てに通い、遊郭と似たような商売が行われていました。

時代柄、カフェ―の建築物は西洋文化がモチーフになったものが多く、色とりどりのタイルやガラス窓、カラフルな壁などが残されています。建築を通して遊郭が時代と共に変遷していく様子がよく分かります。

大阪:飛田新地

飛田新地にまつわるエピソード

今もなお妖艶な光が灯っている飛田新地

飛田新地は、現在の西成区に位置していた飛田遊郭の跡地です。飛田新地は大正時代に栄えた日本最大級の遊郭。

規模は2万坪以上を誇り、大正から昭和にかけて200軒以上の妓楼が立ち並ぶ大きな遊郭へと発展しました。かの有名な阿部定も飛田遊郭で働いていた過去があります。

ワンピース姿で客引きをする遊女たち

飛田新地の仕様は、張見世や絢爛な衣装など江戸文化の要素を含んだ遊郭ではなく、西洋の風を取り入れた洋風遊郭でした。話題作りのためだったそうです。ダンスホールや玉突き場(ビリヤード)を設置した遊郭も多かったと言います。

現存するお店

現存している妓楼「鯛よし百番」

明治時代から人気を博していた飛田遊郭ですが、1957年に施行された売春防止法により妓楼の多くは料亭や食事処に変化しました。飛田遊郭は第二次世界大戦の戦火を免れたために、多くの店舗が大正時代の建築のまま使用されています。

中でも最も豪華絢爛な建築物は「鯛よし百番」。2000年に登録有形文化財にも登録され、当時の面影を生々しく残している建築です。

「百番」とは、遊郭でも最上級の格を示します。日光東照宮を模した応接間や桃山風の派手な装飾が特徴です。現在は懐石料理が有名な料亭として客で賑わっています。

現存する壁

今なお残る高々とした壁「嘆きの壁」

飛田新地は、江戸の吉原と同様の区画になっています。簡単に遊郭の内部を見られないようにするため、遊郭は5メートルの高い壁で囲われ、外界とは隔絶されていました。

遊郭を外界と隔絶したのは、貧しさゆえに人身売買されてやって来た遊女の逃亡を防ぐ役割もあったそうです。飛田新地で働いていた遊女の多くは、身売りされた女性だったのですね。

遊郭を囲っていた壁は、遊女たちの悲しい背景から「嘆きの壁」とも呼ばれ、今もなおその趣を残しています。

九州:丸山遊郭

丸山遊郭にまつわるエピソード

丸山遊郭の跡地一帯に建つ丸山町交番

丸山遊郭は、元禄時代に栄えた長崎の遊郭です。外交が多かった長崎の地というのもあり、日本で唯一唐人やオランダ人の客をもてなす遊郭でした。

海外との外交が行われた長崎の出島では、女性の出入りが禁止されていましたが、丸山遊郭から派遣される遊女は「阿蘭陀行(おらんだゆき)」と呼ばれ、出入りを許されていました。

現存する史跡

丸山への入口・思案橋跡地

丸山遊郭に入るまでの道には、思案橋という橋が築かれていました。多くの客が「丸山遊郭へ行こうかやめようか」と思案したため、そう名付けられました。当時の人々の葛藤が直に感じられる趣深い名称ですね。橋自体は残っていませんが、橋の欄干の模型が建てられています。

ちなみに、思案橋の先には思切橋跡(おもいきりばしあと)という石碑も立っています。思切橋跡とは、丸山遊郭へ意を決して入った時に渡る橋。遊郭へ入る恥ずかしさや背徳感がひしひしと伝わってきます。

遊女が現れそうな雰囲気を醸し出す料亭花月

料亭花月のスタートは、1642年遊女屋の引田屋(ひけたや)に遡ります。たくさんの遊女を輩出した引田屋は繁盛し、1818年にその離れへお茶屋を造りました。それが料亭花月の始まりです。引田の建物と庭園は継承され、1960年には長崎の史跡に指定されました。

現存する置屋

今もなお受け継がれている長崎検番

長崎丸山の跡地には、芸妓の稽古を行う長崎検番が、今もなお置かれています。現存している丸山遊郭の妓楼「松月楼」が長崎検番として使用され、当時の面影を残していますね。

丸山遊郭の遊女たちは、時代を経るに連れて琴や三味線を奏でて客をもてなす名妓になり、長崎花柳界の礎を作り上げました。

現在も16名程の芸妓が在籍し、日々芸事への研鑽を重ねています。長崎の有名な大祭「長崎くんち」にも踊りを奉納するなど、伝統は受け継がれているのです。

遊郭跡地の3つの特徴

ネオンが光る遊郭跡地の一角

全国に分布している遊郭の跡地ですが、調べてみると類似点が発見できます。それはどんなものなのか詳しくまとめました。

1.風呂屋が多い

京島原の真ん中にある島原温泉

遊郭が栄えた江戸時代、銭湯も非常に人気なスポットになっていました。

今では信じられませんが、江戸時代のお風呂屋は混浴であったほか、湯女(ゆな)による売春が行われていたのもあり、その名残が遊郭跡地に残っています。

特に近代へなるにつれ、売春の行われる風呂屋は通称「トルコ風呂」と呼ばれ、非常に人気な場になったと言います。それが色街に「銭湯」として残されている場合が多いです。

2.凝った建築物が多い

奈良県に現存する遊郭建築

遊郭の建築は、人々を魅了するために「天国」と思わせるような装飾やデザインなどの工夫が拵えられました。取り壊されるものもありますが、現存している建築もありエキゾチックな雰囲気を漂わせています。

遊郭だった建築には、格子が張られた窓が多いのも特徴です。張見世を行っていたことからも、客が格子を通じて遊女とコミュニケーションを取っていたのがよく分かります。上の階から下の階にかけて格子の目が細くなっているのが多いのは、遊女の逃亡を防ぐ目的もあったようです。

格子のついた窓は「虫籠窓(むしこまど)」とも呼ばれます。開け閉めができる窓ではなく、風通しやささやかな明かりを入れるのが目的の窓でした。客をもてなす遊郭では、小さな窓がちょうど良かったのかもしれません。「鳥の籠」をイメージさせる遊女の哀しさも薄々と感じられます。

「つたや」の屋号が残る遊郭建築

また、遊郭だった建築には屋号が残っているケースもあります。屋号とは、その一門・一族の特徴をもとにその家に付けられる称号のこと。苗字の無かった江戸時代では、屋号で人を判別するケースもありました。

遊郭にも屋号があり、特に大きく栄えた店には「○○屋」「○○楼」という屋号が付けられました。それを代々継承している店舗も多く、建築物の壁に残している場合も多数あります。

3.貧困街が多い

高度経済成長期に職を求める労働者たち

遊郭があった地区は、いわゆる貧困街であるケースが多いです。「ドヤ街」と称された日本の貧困街は、吉原跡地の「山谷(さんや)地区」、飛田新地近くの「あいりん地区」が挙げられます。

特に江戸時代、吉原遊郭の周辺に位置する山谷地区は、江戸に最も近い宿場町として木賃宿(きちんやど)が集合していました。

また明治初期には、政府が宿を集めたほか、遊郭へ客を送迎する車夫などの低所得労働者が自然と集まるようになったのです。

太平洋戦争が終わり高度経済成長期に突入すると、遊郭周辺地域は被災者のための宿泊施設として機能するほか、求職者が集まる寄せ場へと発展。大阪のあいりん地区も同じく宿場町から転じ、戦後に求職者が住む場所に変化していきました。

遊郭の簡単年表

出来事
1612年庄司甚右衛門 幕府へ江戸に遊郭の設置を陳情。
1617年吉原遊郭 誕生(元吉原。日本橋人形町)。
1627年大阪新町 誕生。
1641年二条柳町から移転、島原遊郭誕生。
1642年長崎丸山 誕生。
1656年吉原遊郭 移転を命じられる。
1657年明暦の大火発生、吉原移転(新吉原。日本堤)。
1830年京島原 地震で倒壊。
1888年根津遊郭 洲崎に移転し「洲崎パラダイス」に。
1945年第二次世界大戦 終戦。
1946年GHQによる公娼廃止指令。
1957年売春防止法 施行。吉原遊郭終了。
1958年全国の遊郭廃止。京都・七条新地、「五条楽園」へ名称を変更。
2010年五条楽園、全店舗の営業廃止。

まとめ

今回は、遊郭の現在の姿について解説しました。

私自身、今もなお残る遊郭の跡地をリサーチすることで、遊郭で働いていた人々や、周辺地理、遊郭そのものへの知見が広がりました。意外にも、よく目や耳にする地域にも遊郭や青線地帯があるのも知り、驚きました。

この記事が皆さんにとって「遊郭とはどんな場所なのか?」「遊郭やその他の建築物についても知りたい!」と思っていただけるきっかけになれば嬉しいです。

読んでいただきありがとうございました!

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